或る芥川賞作家の犯罪

安井義張

エピソード全文

  

永島尚美は、ある加工食品工場に派遣社員として七年間勤めていた。四十五の年に入職したから、もう五十路をすぎていた。現場では一番の古顔である。しかし派遣社員であるから、教えられる仕事は極端に少ない。尚美の仕事といえば、ベルトコンベアの上を流れるロースハムに、汚れや異物が混入していないかを目視してゆく作業だけである。たったこれだけの単純作業が、繁忙期には十二間以上も続く。時給は九百六十円。朝は九時にはじまり、解放されるのはいつも十時近くであった。職場の同僚にはベトナム人実習生の姿も多くいた。小柄で人懐っこく、勤勉な彼女たちは、みな異国で生活してゆく努力に必死だった。尚美は、とくに同課であるタオとよく話をした。タオは三十歳で、国に亭主と五歳の息子を置いて出稼ぎに来ていて、尚美のことをナーサン、ナーサンと言って気楽に呼んだ。タオは来日して四年である。亭主が失業してしまった為に、自分が出稼ぎに来ているのだと言う。彼女は毎月、家族に五万円の仕送りをしていた。しかし円安の影響で、今月から二万円上乗せしているらしく、唯一の楽しみであったビール一本も飲めないと嘆いていた。母国に帰ろうにも、仕事もなく、平均月給が三万円である向こうではとてもじゃないが生活は成り立たない。彼女はもっと技能の身につく職場へ移りたいとも言っていたが、現実、彼女たちには小学生でも出来るような薄給の仕事しかなかった。それは尚美にしても同じだった。彼女もこれまでに何度も転職を考えた。けれどもこの年齢で、さして特別な技能や資格もなければ、新規の職にありつける見込みなどあるはずもない。派遣社員ともなれば、会社では一種の疎外者である。とくに彼女のような単調な仕事しか与えられない者は、社員たちからすると軽蔑の対象でしかない。出世はもちろん、昇給とも無縁である。一生、今の現状から昇ることなどない。この先も毎日、空虚と疲労に身を浸すしか術はないのだ。彼女は独身である。一度も結婚をしたことがない。もっといえば、男と恋愛したことすらなかった。尚美は、若いころはべつにそれほど容貌が悪いというわけでもなかった。前歯は少し突き出ていたが、それ以外は背が少し低いぐらいで、見た目は人並みであった。家柄も十分よかった。父である哲雄は、千葉県下の名門進学高校で校長を務めていた。母親の美智子は神奈川県下の国立大学で名誉教授の父を持ち、本人も慶応大学法学部を卒業していた。尚美は父が四十二歳、母が三十九歳の時の子で、一人娘であったこともあり溺愛された。それゆえに、教育も厳格であった。幼少期には茶道や華道のほかに、乗馬やピアノといった貴族趣味を無理矢理にしいられ、音楽はクラシックや雅楽しか聴くことを許されなかった。能や歌舞伎の観劇にもしばしば連れ出された。テレビの視聴などはもっての外で、小説なども父親が厳選した純文学や古典などしか読んではならず、少しでもいかがわしい描写があれば徹底的に遠ざけられた。そのような家庭環境であったから、学校でも友人はほとんど出来なかった。いやに教養深うえに、含嬌すぎる態度が周囲の不評を買った。それに成績の優秀であったことも疎んじられる一つの要素だった。運動以外の科目はすべて優等で、とくに作文の巧みさは担任教師も感服するほどの才藻があった。尚美は担任の勧めで、十五のころから俳句を嗜みはじめた。なかでも杉田久女の句に傾倒し、自身でも句を詠んでは俳誌に投じていた。尚美の句は、毎号上位に採られ、選評者も秀逸であると評した。父親も、句作に耽る娘の姿を感心し、その高尚趣味を大いによろこんだ。俳句趣味は大学に入ってもからも続いた。尚美は、俳誌「陽光」の主催する句会や吟行にも足を運び、同誌の主宰者で、当代随一の俳匠でもある横山義風に師事した。義風も彼女の俳才を高く評価し、女流俳句の新鋭であると嘱望した。もちろん、尚美も俳句で飯を食ってゆけるなどとは思っていなかった。将来は副業程度か、あるいは俳句ではなくとも、なにか自身の文章感覚を生かした職に就ければと思っていた。句作に没頭すると同時に、尚美が恋愛への憧れを抱きはじめたのもこのころである。彼女の母校は女子校で、小中高一貫のいわいるエレベーター式であった。大学も女子短大ということもあって、尚美はこれまで異性と接触する機会がほとんどなかった。教室でも一人硬い顔で句を詠んでいるなか、周りは色恋話に花を咲かせている。そのような状況に、尚美は段々と句を詠んでいる自分が酷く年寄りじみて思えはじめた。街へ出ても、若い男女が顔を突き合わせながら睦まじく歩く姿が見られる。そうした情景と行き交う度に、尚美は恋愛というものを断片的に想像し、幾度となく朧気な妄想を繰りひろげた。だが想像すればするほど、自分にとって恋愛など非現実的な事柄に思えてならなかった。彼女は同年代の女性よりも、いささか老成しすぎていた。それは生得であるとも言えるし、特異な教育が生んだ弊害であるとも言えた。就職してからも、男性との縁はまるでなかった。彼女は短大を出ると、地元の地方銀行に事務員として勤めに就いた。業務は後方事務が主で、才藻を生かした職を望んでいた彼女にとっては甚だ意に反するものであった。しかしながら、申請書類の不備確認や入出金振りこみの処理。それに書類整理といった煩雑な作業は生真面目な彼女に向いていた。特別に仕事ができるわけではなかったが、その生真面目さが少しばかり評価されていた。朝は一時間前に出勤し、職場の掃除をした。休憩も二十分前に戻ってはデスクの灰皿をすべて拭いてまわった。職場を退勤するのも必ず一番最後だった。彼女のそうした姿勢は、なにも上司の評価を気にしていたからではない。両親による厳格な躾と、そもそもの定質であった。ところが同僚たちの眼には、そのような姿勢が諂いのように映り、影では"靴なめ女"と罵られていた。また、含嬌な素振りが忌々しく思われるのは学生時分から変わらなかった。突き出た前歯に掌を当てて笑う仕草や、ねばねばしい粘着質な声が相手の神経を苛立たせた。後輩たちは、そうした悪声で嫌味ったらしく訓告されるのだからたまったものではない。彼女の生真面目な性分は、後輩が入ってくるとよりいっそう際だった。野狐のような眼差しで仕事ぶりを事細かく粗探ししては、些細な誤りも陰湿に咎めた。たとえば書類束の四隅がそろっていないだとか、ファイルの位置が違うだとか。如何ほども業務に差し障りのないことにさえ、尚美は眼鏡の奥からぎらぎらと眼を光らせた。それは男性社員に対しても同じであった。そんな仕打ちであるから、男も寄りつくはずがなかった。二十代も後半にさしかかると、皮膚はかさついて早くも小皺が目立ちはじめた。もともとが老成した感じであるから、実際の年齢よりも老けて見られた。結婚に対する焦りも、歳とともに強くなった。尚美は入職してから、結婚を理由に何人もの同僚が去っていったか知れなかった。この歳になって、同僚が次から次へと寿退社してゆくのは気持ちの良いものではない。ましてや自分よりもずっと若い後輩が結婚するとなると、気持ちは余計に急くばかりであった。逆に職場をやめた同僚や後輩が、結婚につまずいたことを聞くのは非常に心地良いものだった。尚美は朝、通勤電車のなかで寿退社したかつての同僚を時折みかける。男好きする婀娜っぽい女であったその同僚も、結婚に失敗したようで、今は酷く零落した身なりになっている。そのような姿を目の当たりにすると、彼女は結婚していない自分に安心し、独身も悪くないと思うようになった。三十を過ぎると、尚美の容貌はますます干涸らびた感じになった。やがて結婚を諦めた彼女は、自分の口座に金が貯まってゆくことだけが生きがいになった。両親は、いつまでたっても男っ気のない一人娘の身を案じて、いくつか見合い話を持ちかけた。しかし相手はバツのついた男や、初老のくたびれたような男ばかりだったので、尚美は、このころからいよいよ生涯独身を悟りはじめた。

 二

尚美が銀行勤めをやめたのは、母親が脳出血で倒れたことが原因だった。三十六の時である。それ以来、母親は認知症を患い、尚美はつきっきりで介護をせざるを得なくなった。父親も五年ほど前に他界し、彼女は父の残した遺産と生命保険、それに自身の貯金と失業保険を切り崩しながら介護に徹しった。しばらくの間は、倹しく暮らせば仕事に就かずとも母親の面倒を見ることもできた。しかし八年後には母も逝き、あれだけあった貯金もほとんど尽きていた。尚美は幼児の頃からすごした一軒家を売り払い、今住んでいる五万二千円のアパートに引っ越した。人材派遣会社にも登録し、そこから派遣されたのが今の職場だった。彼女は銀行に勤めていたころと同じように、朝は一時間前に出勤しては備品整理やゴミ集めをした。休憩も三十分で切りあげ、もどると職場を隅々まで箒で掃いてまわった。休日出勤も何度もしたし、残業も際限なくやった。だがそんな小忠実な働きも、派遣社員であっては何の評価にも値しない。それどころか現場の社員に、余計なことはしないでくださいと、備品をいじる姿を咎められる始末である。彼女はこの工場ではなんの存在価値もない、ただハムを流すだけのロボットにすぎなかった。気がつけば四十の半ばをすぎ、あらゆる物事から閉め出された彼女は、しだいに前途に対して暗い感情を抱きはじめた。容貌もますます老けこんだ。浴場の鏡でみる自身の身体は、まるで枯れ枝の如く羸痩している。薄い乳房は溶化したようにだらりと垂れ下がり、髪にも白いのが混じりはじめた。こんな干涸らびた肉体に、情欲をそそられる男などいるはずもない。彼女は老いた自分の醜体を拝むたびに絶望した。仕事も生活も、生きることも虚しく思えた。尚美が小説を書きはじめたのも、そんな日々の憂さ晴らしでしかなかった。べつに物書きを志したわけでもない。ただ空虚な現実を、自給自足的に忘憂しているにすぎなかった。小説の主題はベトナム人実習生たちの愁雲を描いたもので、尚美は取材紛いにタオから色々と話を聞き出していた。彼女は仕事を終えて、夜遅く帰宅しても暇さえあれば原稿用紙に向かった。職場の休憩時間にも書いた。原稿も何枚破いたかしれない。休日も一日中机に張りついた。そうして約半年かけて完成した"蒼氓の愁"と題したその作品は、原稿百二十枚の中編小説であった。彼女は当初、文学賞に応募するつもりはまったくなかった。しかし完成してみると、他人の批評が欲しくなった。自分ではどの程度のものかわからない。誰か一人には読んで欲しかった。けれど周りに批評を伺えるような人間はいない。尚美は思いきって純文学系統の新人賞に小説を送った。たとえ下の段階で落とされ批評が聞けずとも、少なくとも選考に当たる編集者の目には入る。自信はまったくなかったが、前途に一縷の望みがあるだけでも生活に多少の潤いは保たれた。その小説が新人賞を受賞し、なおかつ芥川賞まで取ってしまうとは夢にも思っていなかった。小説は新人賞と芥川賞の双方を受賞したことにより世間からも注目を集め、彼女は五十二歳にして華々しく作家デビューを飾った。そのことはすぐに職場にも知れ渡った。彼女に対する従業員の態度も、それ以前とは顕著に変わった。業務外の小忠実な雑用にも、以前は労りの言葉一つなかった社員たちが、名が知れると急に敬うような姿勢を見せはじめた。朝の通勤電車でも、彼女の著作を耽読するサラリーマンやOLの姿をちらほら見受けるようになった。出版社からの依頼も殺到した。尚美は勤めを終えて家にもどるなり、原稿用紙と向き合う日々が毎晩続いた。そのほかにも、講演やラジオの出演依頼といった執筆以外の仕事も増え、生活は徐々に慌ただしくなった。収入もかなり増した。けれども尚美は勤めを辞めることが出来なかった。それは作家という不安定な職に対する恐れと、彼女の性格的な怯懦であった。芥川賞作家といえども、想像力が枯渇し、書けなくなってしまえばただの化石である。そう思うと、なかなか筆一本の生活にふみきる自信は生まれなかった。彼女は兼業作家となっても、朝は一時間前に出勤しては雑用につとめた。残業もこれまで通り毎晩やった。朝の九時から十時近くまで働き、そこから家にもどるなり執筆活動に入る。帰りがどんなに遅かろうと、一日五枚を志して書いた。極限まで睡眠時間を削らなければ、とてもじゃないが締め切りに間に合う余裕はない。体力的に厳しかったが、それでも原稿の締め切りはきちっと守った。生来の生真面目が、どちらの緩怠もゆるさなかった。尚美の小説は、度々文芸評論の俎上にも上げられた。どの評論家も、彼女の文章は老練で細緻であると評し、俳句で培った文章感覚が下地となって生きていた。高評なのは、なにも文章だけではなかった。作風は社会性に富んだリアリティのある描写が特徴で、老齢ゆえの観察力が作品の随所に光っていた。売れ行きも好調だった。昨今、売れないと言われている純文学のなかで、尚美の小説は出る度十万部近く売れていた。その理由を、ある評論家はこう評している。「永島さんの小説は純文学の特色である文体や表現だけに縋らず、筋の構成が緻密であること。それに普遍的な創造による物語性と豊富な社会経験から裏打ちされた鋭い人間描写が、市井の読者の共感を得ている所以であろう」

処女作が芥川賞を受賞して二年がたった。

尚美は相変わらず兼業作家のままだった。

生活は依然として勤めを終えると机に張りつく毎日で、以前は一日五枚を志していたのが、最近は二枚書き上げるのがやっとであった。朝も目覚めるのが辛くなった。それでも三十分前には出勤し、毎日の雑用は欠かさなかった。仕事中も身体は鉛のように重く、脳髄は常に混濁していた。尚美の身体に異変が起きはじめたのは、ここ二ヶ月ほど前からであった。みぞおちが酷く痛み、吐血することもしばしばあった。食欲も減退し、額からは常に冷や汗が流れた。もともと痩せた身体は、無残なほどに羸痩した。尚美はついに倒れた。就業中のことであった。病院に搬送された彼女は、その後三週間の入院を余儀なくされた。医者の診断は胃潰瘍で、それも放置していた為に胃壁に穴が開いていた。日々の不摂生や、兼業による過度な睡眠不足が祟った。彼女は入院中も執筆に狂逸した。担当の看護婦からは、静養に務めなさいと何度も注意を受けた。しかしその度に尚美は、「私はいつ落ち目にされるかわかりません。毎日が真剣勝負なんです。だから一日も休むわけにはいきません」と、頑強に言い放っては、またなにかに取り憑かれたように筆をはしらせた。看護婦は、その阿呆ぶりを超した幽鬼のような姿を見ると、これ以上なにも言えなかった。同部屋の患者も、その凄まじい執着ぶりに恐れをなしてか、誰も話しかけてこなかった。見舞いには出版社の社員が度々訪れた。訪れた社員たちは、彼女に勤めをやめるよう執拗に説得した。もういつまでも工場にいる必要はないでしょう、そんな生活いつまで続けるつもりですか。そう毎日説得されると、尚美はいつまでも踏ん切りのつかない臆病な自分が情けなく思えた。よくよく考えると、このまま兼業していても将来はしれている。尚美はようやく筆一本で生きる決意を固め、退院と同時に勤めをやめた。彼女は専業作家となった。その後の執筆量は、まるで怒濤のようであった。背水の陣となった身への焦りや不安、それに締め切りという名の亡霊に毎日追われていれば、堕落する隙などなかった。原稿枚数は月にして約千枚。 連載は新聞や雑誌を合わせると月十本にも及び、その執筆量に対して売り上げも上々であった。名声も格段に上がった。同業者たちには、その超人的執筆量を怪しまれて、裏にゴーストライターがいるという噂まで立てられるほどであった。彼女の作品は、それまでの純文学から推理物やノンフィクション、それに演劇の戯曲など多岐に渡った。日々多忙を極めたが、それでも空虚であった工場勤めと比べると生活の張りは歴然であった。住居も東京の一等地へと移し、それなりの地位財も得た。こんな未来があるとは、夢にも思っていなかった。けれども彼女の意識の片隅には、依然として癒えない宿痾があった。どれだけ創作に邁進しても、その宿痾は決して癒えることはなかった。尚美は、男の愛情に飢えていた。以前は手の届かなかった恋愛も、社会的地位の確立された今ではわけが違う。一日中、薄給でハムを流す五十路女ではもはやない。作家として、今やほかに追随をゆるさない流行作家の地位にあるのだ。尚美の自負は強かった。とはいえ自身の年齢や、昼夜机に張りつく出会いのない生活を考えると、そんな自負も虚しく思えた。ところが、その諦め切っていた恋愛の機会が突如として彼女のもとにやって来た。

 三

 ことの起こりは、ある一人の女を介してであった。近ごろ、尚美は多量の執筆が災いして重度の書痙を患っていた。これを機にワープロでの執筆を試みたものの、長らく原稿用紙に自筆していた癖がぬけず、まったく仕事にならなかった。彼女は口述筆記を試みようと、速記者を雇った。さいわい、担当編集者の知人に速記教室の講師がおり、その者から教え子をひとり推薦してもらえることになった。推薦を受けてやって来たのは、藤村加奈子という投資コンサルティング会社の秘書課に勤める二十五歳の女であった。容姿はなかなかの美人で、頭もよく、講師の推薦を受けただけに速記の技能も申し分なかった。尚美は大いに彼女のことを気に入り、藤村加奈子とはその場で日当一万五千の契約を交わした。仕事はじめは藤村の退職を考慮して、一ヶ月後からとなった。尚美は自分のために会社をやめる藤村を慮ったが、もともと速記者になるのが夢であった彼女にすれば都合がよかったようである。口ぶりにも後悔している様子は少しもなかった。考えてみれば、いずれ彼女が尚美のもとを離れるにしても、人気作家の速記を担当していたとあれば仕事の注文も途切れることはあるまい。藤村にとって、将来的にも尚美の速記は利でしかなかった。こうして二人での共同作業がはじまり、尚美は藤村を前に一日中喋り続ける毎日が続いた。はじめは文章に行き詰まると、急かされているようでやりづらかったものの、慣れれば自筆するより随分と楽であった。それによって執筆量も増した。締め切りに追われる日々は相変わらずで、月の何日かは徹夜することもあった。藤村はそんな多忙な仕事にも根を上げず、ひたすら作家の口から出る言葉を拾いつづけた。雨の日も風の日も、ときには公演先にまで彼女は同行した。取材にも随伴した。小説の現地取材では、二人で富士の樹海に入ったり、三原山の火口を覗いたりもした。原稿が完遂すると、尚美は彼女を銀座の鮨屋へ連れてゆき、連日の過労を労うことを忘れなかった。自分に娘がいれば、こんな感覚なのだろうかと、横で鮨をほおばる彼女に重ねてみたりした。彼女も結婚はしていない。恋愛をしている様子もなかった。年頃であるし、これほど美人で教養もしっかりしていれば男も放っておくはずはない。自分の仕事に追われるあまり、その余裕もないのかと思うと、少し不憫に思わなくもなかった。ある時、尚美は藤村に恋人はいないのかと尋ねてみた。すると彼女は、「いませんよ、だって今は速記の仕事の方が大事ですし。それに、なにより私は先生と仕事をしている時が一番楽しいですから」と、少し照れた調子でそう言った。その言葉に、嘘は感じられなかった。尚美の彼女に対する信頼は日増しに強くなった。仕事をともにして半年以上も経つと、二人は連載中の小説について議論し合うまでになった。親子ほど離れた年の差が、旧弊な作家の感性を若くした。ある文芸評論家は、近ごろの彼女の文章には精緻が失われ、あまりにも平明で締まりがないと評した。それはどこか、遠回しに口述による乱作を批判している風であった。それも一理はある。が、口述による簡潔な文章により若い読者は増え、文芸誌の主宰する好きな作家ランキングでは一位を得たのも事実であった。いつ消えるか分からない作家的生命を考えると、評論家の瑣末な批判など気にしている場合ではなかった。評論家嫌いな彼女でも、時にはその役を買わなければならないこともしばしばあった。一昨年の夏、兼ねてから世話になっている推理作家の原安太郎氏から、氏の古希を機に設立される推理小説賞の選考委員の依頼を受けた。はじめは仕事の締め切りもあり、あまり気は進まなかった。だがデビュー当初から推挽を受け、恩義のある氏からの依頼ということもあり、断るわけにはいかなかった。その依頼が、今年もやって来たのである。彼女は締め切りに追われるなか、最終選考に残る作品全てに目を通した。おなじ選考委員の中には、編集者からあらすじだけ耳に入れ作品を読まない者もいる。多忙な流行作家ともなれば、そんな融通は許容範囲である。けれどもその融通が利かないのが彼女の性格であった。作品はどれも良作とはいえなかった。とはいえ委員内での討議で受賞者は決まり、尚美は都内で開かれる受賞パーティーに出席することになった。パーティーには藤村も一緒であった。本来、部外者である彼女だが、執筆の合間急に出席したいと懇願してきたのだ。べつに拒む理由もないし、一人で行くより孤独もまぎれると思った。当日も二十枚ほど原稿を書いた。開演は夜の十八時であった。会場に着くと、大広間には作家や出版関係者がグラスを携え群れを成していた。気のせいか、来場者は昨年よりも多いようだった。奥の壇上には、金箔塗りの屏風の前に選考委員用の椅子が七つ並べられていた。尚美は到着するなり、案内役からマイクにほど近い原氏の隣席へと案内された。着席すると、彼女は何気なく壇上から広間を見渡した。出席者のなかには、企業の重役らしき招待客の姿も多く見受けられた。そのほとんどが、顔のひろい原氏の相識であるらしかった。尚美はふと、藤村のことが気になった。こんな格式張った連中のなかに知人などいるはずもない彼女は、恐らくひとり息のつまる思いであろう。パーティ慣れしていなければ余計である。尚美は子を案ずるような心境で、群衆のなかから藤村の姿を探した。隈なく見渡すも、しかし姿は見当たらない。すると広間の扉から、でっぷりと太った和服姿の老人が、案内役に伴われながら悠然とした足取りで姿を現した。原氏である。氏は現れるなり昵懇な相識に限り短い会話を交わしはじめた。自然と、会場内の視線はそちらに集中した。雑談に興ずる氏の表情は、まるでおかめのように福徳に溢れていた。氏は近くにいたバンケントスタッフから、赤いワインの入ったグラスを受け取った。スタッフは銀盆を脇に抱えると、慇懃な挙措動作でその場から去って行った。尚美は、何気なくその若いスタッフを目で追った。彼の個性は今、徹底的に意識の底へと押し込められている。感情を抑圧し、身売りに徹する。それは以前の彼女もおなじであった。若いスタッフの背中は、厨房に続く扉へと消えようとしている。尚美は、その若い背中を感慨の目で見つめていた、その時である。視界の隅に、恐らく藤村と思われる女の姿を捉えた。彼女の傍らには、一人の男がいた。男は三十二三くらいで、ネイビー色のスーツを瀟洒に纏った、いかにも実業家といった装いであった。容貌は距離があるので朧気にしか見えない。知人であろうか?二人の様子には、それほど親密な雰囲気は漂っていなかった。どちらかといえば神妙な様子で、上司と部下といった感じであった。男は絶えず真顔で何かを藤村に語りかけており、彼女もそれに答えるように首を小さく頷かせていた。尚美は男の正体が気になった。しばらくあれこれ想像を巡らせるも、関係性は判然としなかった。そうしているうちに、場内には宴の開演を告げる司会の声が響き渡った。

 四 

 贈呈式は原氏の長い祝辞とともに幕を閉じた。とはいえ、まだ宴は完結したわけではない。式の後には、出席者の間で食事を兼ねた歓談の場が設けられている。尚美はこの時間が一番の苦痛であった。さして昵懇でない出版社の人間や、作家陣と歓談に興じなければならない。交際下手で、酒も飲めない彼女にとっては針の筵である。ひとりぼさっとしている暇があったらさっさと帰って仕事に手を加えたい。彼女は毎年そう気を急かせたが、かといって原氏の手前、そそくさと自分だけ退散するわけにもいかない。どうあがこうと、結局はぎこちない作り笑いを浮かべているしかなかった。会場のスピーカーからは小音のクラシックが流れ出した。場内はホテルの賄い役がせかせかと彷徨いはじめた。中央にはビュッフェ台が用意されている。出席者も食事を取りに各々動きはじめた。辺りでは、そこかしこで名刺を交わし合う光景が目についた。尚美は喉が渇いた。ビュッフェ台に赴くと、卓上に置かれた水差しに手を伸ばした。グラスに注ぎ、喉を鳴らした。眼下には銀皿に盛られた西洋料理が何種類も並んでいる。しかし腹は空かなかった。すると突然、「先生」と、背後から声が掛った。聞き馴染みのある声だった。振り返ると、そこには予想した通り藤村の姿があった。 一つ予想外だったのは、その横に男の姿があることだった。「先生、ご紹介します。こちら私が以前勤めていた会社で社長を勤めている上野誠さん」藤村が二人の間を取りもつように言うと、男も口を開いた。「初めまして、わたくし、クエストカンパニーという会社で代表を務めている上野と申します」男はそう言うと、胸元からさっと名刺を取り出した。精悍な顔つきである。尚美は唐突な紹介に、少しどぎまぎしながら差し出された名刺を受け取った。男の首筋からは、香水の香りが仄かに漂っている。海風のような清爽な匂いだ。「わたくし、宝文社の高平優さんと長年お付き合いがありまして、その縁もあって今回御招待いただいたしだいです。永島さんの著作は、以前からよく拝読させてもらっておりますので、お会い出来て光栄です」上野は腰を屈めながらそう言った。ビジネスマンらしい慇懃な物腰だった。高平氏は宝文社の刊行する推理小説雑誌で編集長を務めてた。原氏も寄稿家として同誌の常連で、尚美も氏の伝手で短編小説を二度ほど寄稿したことがあった。「あらぁ、私の作品なんて下手なものばかりですのに、近くに腕のいい速記者がいないととても翫賞にたえませんわ」尚美は藤村加奈子の方をちらりと見て言った。「いやぁ、藤村が大変お世話になっているようで、私も、彼女が速記者になるという理由で退職を申し出た時には大丈夫かと心配しましたが、まさかあの永島尚美さんの担当をしているとは思いもよりませんでした」彼はそう言うと、真珠のような歯を尚美に覗かせた。「いえいえ、もう彼女は本当に優秀な速記者ですよ。今ではもう藤村さんが居なくちゃ仕事にならないくらいですから」尚美は歯茎を丸出しにして品をこさえた。「そんな、私なんてまだまだ未熟者ですよ」藤村が謙遜すると、上野が、「藤村君は、うちの社にいたころから頭の切れる部下でしたからねぇ、惜しい人材をなくしたと思ってますよ」と、口惜しがるように言った。彼の背中の向こうでは、原氏が大口を開けてシュークリームを頬張っている。尚美は、あまり藤村の前職を詳しくは知らなかった。投資コンサルティング会社の秘書課に勤めていたということだけで、クエストカンパニーという社名も、今日はじめて耳にした。投資に関して無知な彼女は、少し同社の概要について知りたくなった。作家の好奇心である。尚美は会話の中から、さりげなく上野に事業内容を尋ねてみた。彼の説明によると、クエストカンパニーは元本保証で月利四%の高利率な投資信託を紹介していて、資産形成コンサルティング会社として稼げる投資を紹介しているという。投資金はマーシャル諸島に設立している法人合同会社に運用され、その元本の七割は海外の銀行や証券会社などに運用し、残りの三割をFXや株に運用するという。それ以外にも、彼は専門的な言葉を並び立てて流暢に語ったが、尚美は曖昧にしか理解できなかった。もともと銀行勤めであったから、多少の金融リテラシーはあるものの、やはりこういった投資話には弱い。相槌をうつ彼女の表情は、自然と引きつりはじめた。上野はそんな彼女の表情を察したのか、「申し訳ありません、ちょっと話が深くなりすぎてしまいましたね」と、軽妙に詫びを入れ、また白い歯を覗かせた。尚美は、そう言われると自分の弱い頭が恥ずかしくなった。「先生はこういう儲け話には余り関心がないお方ですからね、賭けごととかも全般お嫌いなようですし、だけどギャンブルと投資はまったくの別物ですよ」藤村の言葉に相違はなかった。あるとすれば、ギャンブルと投資は別物であるという言葉だけである。労をせず楽して稼ぐという意味ではなんのなんの径庭もない。堅実な彼女にとっては、どちらも同じである。けれども尚美は、彼の話に仄かな関心をよせられた。それは儲け話よりも、目の前の男に対する関心であった。「あの、もしよろしければ今度お食事も兼ねまして、私どもの紹介する投資案件についてお話させて頂きませんでしょうか?」上野は口元に薄い笑みを浮かべて、恭しく尚美にそう誘いかけた。彼女は少々困惑した。さっきの彼の話に、まったくもって猜疑を抱かないわけではなかった。月利四%の投資など、今まで聞いたことがない。年利は四十八%だというから、百万円預けると一年後には百四十八万円になる。そんな都合のよすぎる話が本当にあるのだろうか?「先生、クエストカンパニーの紹介する投資は決して悪質なものではないですよ。確実に増やせる健全な投資です。勤めていた私が言うのだから間違いありませんよ」藤村は傍らで訝しむ尚美に、強く同社の潔白性を主張した。実際に勤めていた彼女からそう言われると、どこか真実味があった。尚美は上野の誘いに応じた。約束は一週間後であった。

 五

 この日、赤坂は思いのほか人の歩きが少なかった。二人が会ったのは、この辺りでも有数のイタリア料理店であった。尚美はドレスコードを気にして、芥川賞受賞の際に買った一張羅のフォーマルを着こんだ。化粧にも時間をかけた。男と面と向かって食事などしたことのない彼女は、少々気が張っていた。店に行くと、上野はすでに来ていた。装いは至ってカジュアルだった。ひろい肩を包んだジャケットの胸元には、花型の胸飾りがついていた。袖口からは高級そうな腕時計が覗いているが、尚美にはわからない。代表の身なりからすれば、会社はそれなりに優良のように思えた。上野はワインを盛んに飲んだ。とくにバローロが好みだと言うが、酒の飲めない彼女にはそれが一体なんなのかわからなかった。彼はほろ酔い加減になると、尚美の著作を何度も褒めた。あの話が好きであるとか、あの話の文章が素晴らしいだとか。彼は気に入りの作品をならび立てては、どれもつぶさな観察で賛辞を呈した。尚美は、上野がそれほど自分の著作を熱心に読んでいることを知り、素直に嬉しかった。読者の生の感想は、そう簡単に聞けるものではない。ましてや関心を抱く男からの賛辞である。彼女の意識には、少々恋愛の二文字が浮かばなくもなかった。食事は快くすすんだ。テーブルの上にはズッキーニのグリルがならび、話題は例の投資案件について傾いた。上野は料理に手をつけず、この機を待っていたかのように喋り出した。前述の通り、月利は四%の投資金はマーシャル諸島に設立している合同会社に運用される。配当金は、普通であれば同社の社員から月に一度、事務所で手渡しされるところを尚美に限っては上野が直接に手渡すという。「永島さんは有名人ですし、お仕事もお忙しいでしょうから。それに、わたしは今後もあなたと私的な付き合いをしていきたいと思っていますので」彼は感じのよい笑みを浮かべながらそう言った。"私的な付き合い"という言葉だけが尚美の脳裏に残った。月に一度というのも、ひょっとして逢瀬ということではないか?そんなまさか、とも思った。しかし、自分はただの萎びた五十路女ではもはやない。彼からすれば、自分は曲がりなりにも他人に自慢できる存在である。普通の五十女ではそうはいかない。母子と見紛われ、滑稽に思われるに違いない。彼は名声のある自分を手中に収めたいのだ。尚美は五十路にして春情が兆したような気がした。結局この日、彼女は投資を承諾した。約束した投資額は、八〇〇〇万円である。「預ける額が大きいほど、配当金も増えますよ」尚美は上野にそう諭され、貯金の約半分を投資にまわした。配当で増えると思うと、なにも不安はなかった。"確実に増やせる健全な投資ですよ"と、藤村があの時言った言葉にも背中を押された。実際に勤めていた彼女がそう言うのだから、間違いないはずである。それに、なにより尚美は自分を彼にとってより特別な存在にしたかった。その為には中途半端な額ではいけない。ほかの顧客を凌ぐ額の投資が必要だったし、現に彼女にはそれが出来た。話しの通り、二人は月に一度会った。場所はいつも決まって銀座のカウンターバーだった。配当金はそこで上野から支払われ、封筒には月利四%分の配当がしっかりと入っていた。金額にも間違いはなかった。けれども尚美にとって、そんなことは瑣末なことであった。もともと儲け心があったわけではない。金なら十分にある。あるとすれば恋愛への渇望だけであった。支払い後、二人は酒を一杯飲んだ。近ごろは彼女も酒を嗜むようになっていた。上野は必ず決まってバーボンだった。甲に青筋の浮いた細長い指先でグラスを傾ける彼の手は、尚美をたまらなく興奮させた。ふたりは一時間ばかし、こうして酒を啜りながら世間話をした。金を受け取ることよりも、彼女にとっては彼と過ごすこの時間がなによりも幸福だった。半年ほど経つと、月に一度会ったのが、週に一度になった。尚美は彼と会うのが待ち遠しくてたまらなかった。朝から晩まで根を詰める仕事をしていれば、歳のせいもあり身体と脳髄は困憊しきる。上野を知ってからは、この週に一度の相見が彼女のにとってのカンフル剤となった。配当金も、月に一度しっかりと支払われた。尚美の彼に対する態度は、日増しに馴れ馴れしくなった。酔いがまわると、彼女は青筋の浮いた彼の手を何度も撫でた。しまいには、「この指が、あたしの物になる日はいつになるんだろうねぇ」尚美は、そうねばねばしい声で囁くと、彼の左薬指を口にくわえてべろべろとなめまわした。彼は俯いたまま、なにも言わず苦い顔でグラスを傾けていた。尚美はそんな彼の姿を見るのも愉しかった。やがて一年が経った。依然として、ふたりは週に一度会っていた。両者の関係性に、変化は微塵もない。変化があるとすれば、上野からの配当が滞りはじめたことぐらいである。ここ五ヶ月、配当は一銭も支払われていない。尚美がそのことを問い詰めると、上野は、「心配しなくても金は銀行に入っている。だけど、今はわけあって引き出せない」と、その一点張りであった。わけを聞いても、投資用語ばかりの晦渋な説明で、まったく理解が及ばない。執拗に聞けば、彼はグラスを強くテーブルに叩きつけてふてくされる。憤懣はあったが、関係が拗れることを思うと、尚美は穏便な態度を取るしかなかった。憤懣、というともう一つあった。上野と出会って一年、まるで関係性に変化がない。尚美はそのことにいらいらした。この投資を承諾したのも、一つは彼との仲を深めたかったからだ。配当金など、正直どうでもよかった。彼と友人以上の関係になれればそれでいい。巨額の投資はすべてそのためである。それなのに、交際といえば週に一度、配当支給のついでにただ酒を飲むだけである。当初はそれだけでも幸福だった。しかし、恒常化してゆくにつれ、尚美はそれだけでは満足できなくなった。彼女は男に愛されたかった。女の愉楽をすべて剥奪されてきたような人生に、はじめて射した光明である。男を知る最後の機会を、そう易々と逃すわけにはいかない。尚美は、あるとき勝負をかけた。


 六

  上野誠の手記

          ※手記は永島尚美に関連する一節のみ抜粋してある。日付は追っているが面倒なので省いている。


 ×月×日

今日、俺は一つの名案を思いついた。

それは、あの流行作家である永島尚美に接近し、出資金を出させるのである。といっても、俺と永島尚美にはなんの接点もない。しかし秘書であり、速記志望でもある藤村加奈子のもとに永島の速記の推薦依頼が来ているという。その話を聞いて、俺は彼女に永島を仲介させることを思いついた。俺はすぐ藤村に会社をやめてその依頼を承諾するよう説得した。彼女とは一応恋仲ではあるが、それは向こうが勝手に思っているだけでこっちは性の吐け口ほどにしか思っちゃいない。俺が画策した計画を話すと、彼女は易々と話に順従した。俺の会社は今、自転車操業状態だ。顧客は全国に約三千人ほどいるが、配当金は出資金を別の出資者の配当にまわしている。これはいわいるポンジスキームという詐欺だ。顧客には元本の七割をマーシャル諸島にある合同会社で運用していると言っているが、そんなのは嘘で、本当は実体のないただのペーパーカンパニーである。三割の株運用も、実際は一割程度でほとんど利益など出ていない。一刻も早く新規の顧客を増やし、出資金を出させなければ会社はたちまち倒産する。そうさせない為にも、永島を手玉に取るしかない。詐欺とはわかっていても、もう騎虎の勢いなのだ。

 ×月×日

永島尚美に接近できる機会がようやく訪れた。昨日、藤村から連絡があり、なにやら永島が原良太郎賞の選考委員を務めるという話を聞いた。原良太郎賞と聞いて、俺は友人である宝文社の高平さんが頭に浮かんだ。彼はたしか昨年、出版関係者として同賞の受賞パーティに出席していたはずだ。今年も出席するに違いない。けれども彼は、以前食事を一緒にした際、永島とは面識がないと言っていた。けどそんなことはどっちでもいい。肝心なのは彼がパーティに出席するということである。永島も選考委員ならその場に出席するに違いない。俺は高平さんに頼み込んで招待客として出席させてもらうことになった。藤村は永島とともに出席し、彼女が会場で俺と永島を仲介させる。計画にぬかりはない。必ず落としてやる。

 ×月×日

今日、Tホテルで行われた原良太郎賞の受賞パーティに出席し、計画通り永島尚美に接近を試みた。藤村から聞いていた通り、堅そうな女だった。顔は新聞や雑誌やらでもちろん知っていたが、実際に会うとただの痩せたおばさんだった。地味な眼鏡に突き出た前歯。後ろに束ねられたばさばさの髪。皺まみれの面長の相貌は老山羊のようで、哀れなほど女の魅力をなに一つ兼ね備えていなかった。著作を読むかぎり知的な印象だったが、案件をちらつかせると以外にすんなりと乗ってきた。藤村が一緒だったのが大きかった。食事の約束にも成功した。これで奴に投資させることができれば、会社はなんとか保つことができる。俺の運命はすべてこいつにかかっているのだ。

 ×月×日

 今日、赤坂で永島と会った。気のせいか、こないだよりも化粧が厚い。身なりも妙に格式張っていて、華やかだった。ひょっとして俺に気があるのかもしれない。そう想像すると気分が悪いが、話に抱き込むには都合がいい。俺はこの計画の為に奴の著作を貪るようにして読んだ。褒めちぎってやると、奴は突き出た前歯をむき出しにしてよろこんだ。単純な女だ。奴は見たところ趣味のない女のようだ。筆をはしらせるしか能のない奴だから、収入はごっそり銀行に貯金しているに違いない。 "預ける額が大きいほど配当も増える"そうそそのかしてやると、奴は簡単に口車に乗った。馬鹿な女だ。俺のもとには一瞬にして八〇〇〇万もの大金が転がり込んだのだ。俺はにやけそうになる口元を抑えるのに必死だった。ただ一つ厄介なのは、奴と月に一度顔をつき合わさなければならないことである。あのねちゃねちゃした喋り方は酷く神経に障る。だけど金の為には仕方ない。駄弁を振るうだけで金が入ると思えば安いもんだ。投資の話も上手くいったし、会社はなんとか継続できそうだ。あぁ、今夜は酒が美味い。

 ×月×日

銀座のバーで永島に配当を渡した。反応は至って淡泊だった。月利四%の配当だと、普通の顧客は思わず声に出してよろこぶ。流行作家の奴からすれば、これっぽっちの額は端金なのかもしれない。奴は俺と話している時のほうが表情は明るかった。俺が酒を飲んでいるのを、奴は海亀が卵を産むような眼で見ている。気があるのは明白だ。気持ち悪いが、今後もこうしてつき合ってやるしかない。

 ×月×日

この間のバーで永島と会った。日が経つのは本当にはやい。あれからもう一ヶ月である。

奴は近ごろから酒を飲みはじめたらしい。あまり強くないようで、奴は酔うと執筆の重苦をしきりにこぼす。締め切りに間に合わないだの、資料がなくて書けないだのと獣みたいに呻くのだ。俺には知ったこっちゃないが、その重苦を聞いていると少々畏敬を覚えなくもない。こんな大変な女を相手にしている藤村にも、いささか同情する。俺は奴を温順に励ました。すると奴は、「わたしを労ってくれるのはあなたしかいないわ。今の私の文学を支えているのはあなたの存在よ」と、例の海亀の眼で大仰なことを言い出すのだ。孤独な女である。俺はつい調子に乗って甘い言葉をかけすぎてしまった。それが後にあだとなった。「わたしはあなたと会うのが月に一度なんて、もう耐えられないわ。ねぇ、せめて週に一度会いましょ、あれだけ渡したんだからいいじゃない」奴は口から歯周病の悪臭をまき散らしながらそう懇願するのだ。勘弁してくれ、と俺は胸の内で嘆息した。月に一度でも煩わしいものを、週に一度ともなればこの俺の身がもたない。仕事が忙しく、そんな余裕はないと言えば、奴は金をかえしてくれと投資金を盾に憤慨する始末だ。俺は奴の怒った顔に一瞬殺意すら覚えたが、己の為、会社のためだと思い感情を抑えた。あぁ、こんな汚い老婆と週に一度も会わねばならぬ自分が、我ながら可哀想だ。

 ×月×日

この一ヶ月の間に、永島とは三回も会った。

もう顔を見るのもこりごりだ。

奴は最近、甚く馴れ馴れしい。酔うと執拗に俺の身体を触ったり、首を預けたりする。

気持ち悪いったらありゃしない。しかしそれだけならまだいい。この間などは俺の左薬指を手に取ると、奴は口にくわえて赤児のようにべろべろとしゃぶりはじめたのだ。俺は身体が固まり、全身の毛穴が騒いだ。今思い出しても鳥肌がたつくらいだ。また奴と会わねばならぬことを思うと、夜も眠れない。だが今あいつと交際を絶てば、顧客に配当をまわせない。そうならない為にも、今は我慢するしか道はないのだ。

 ×月×日

 来週から十日間のマカオ滞在が決まった。

急ではあったが、友人であるIT企業経営者の樋口さんから旅行の誘いを受けたのだ。名目はマカオに置く支社への視察であるということだが、本当は単なるカジノ旅行である。仕事の予定はあったが、とりわけ大事な要件ではないので会社の者にすべて任せた。これでしばらく奴の顔を見なくてもすむ。

 ×月×日

まずいことになった。昨日マカオから帰国し、今この手記を書いている。滞在中、俺はカジノに没頭した。少しでも配当金を賄う金を増やしたくて必死だったのだ。しかし結果は散々だった。失った額を思うと、絶望で目が眩みそうだ。賄う金を増やすどころか、もはや支払うことも難しくなった。一刻もはやく、新たな顧客を増やさなければならない。配当はまた一時止めなければならなくなりそうだ。

 ×月×日

今日、いつものバーで永島と会った。

ここ三ヶ月ほど、奴には配当を渡していない。そのことに関して、奴はなにも言わなかった。「銀行に金は入っているが、わけあって今引き出せない、もう少し待ってくれ」俺がそう言えば、奴は、「お金ならいつでもいいわ、わたしはあなたとふたりっきりで時間をすごせればそれでいいのよ」と、寛容な態度である。流行作家ともなれば、やはり余裕が違う。しばらくはその言葉に甘えさせてもらうことにする。

 ×月×日

顧客への配当を止めてから、もう五ヶ月だ。

新規の顧客もなかなか増えないし、株の利益も一向に出ていない。これではとうてい自転車操業からは抜け出せない。まったくうちの営業は無能ばかりである。顧客からの不満も続出しているようだし、それに寛容だった奴の態度もいよいよ気色ばみはじめた。俺の吐く託言に、奴は証拠を見せろだの、詳しいわけを聞かせろだのとしつこく問責するようになった。鬱陶しいので、俺は少し専門用語を並べた造言を吐いてやった。そうすると、奴は突き出た前歯をぽかんと浮かせて困惑した表情を見せた。だがそれでも口は閉まらなかった。俺は怒りにまかせてグラスをテーブルにたたきつけてやった。奴は怖じけづいたのか、それ以上はなにも言わなくなった。俺との仲が拗れるのが怖いのだろう。愧じる思いもあるが、こうしなければどうしうようもないのだ。

 ×月×日

昨日も今日も四六時中、配当を返す手段に悩まされてほとほと疲れてしまった。もう頭が割れそうだ。いつまでもこうしてはいられない。どうにかしてはやく金を集めなければ。

 ×月×日

配当金を止めて、もう何月かもわからなくなった。正直、もうどうでもいいという気持ちも出てきた。おそかれはやかれ、どうせ俺はポンジスキームで捕まるのだ。だけど俺は栄華を手にしたい。零落したくない。捕まるのは嫌だ。

 ×月×日

俺は震える筆先を抑えながら、今この手記を書いている。なんてことをしたんだと、思い返せば自己嫌悪で自殺しそうだ。今日、永島と会った。奴はもう配当のことはなにも言わないし、俺も安心していた。今日の奴はいつになくよく飲んだ。いつもは洋酒の水割りを一杯、ちいちびと舐めるように飲んでいるだけなのに、今日は五杯も飲み干した。筆が思うようにすすんでいないのだろうと、この時は思っていた。だが今思うと、それは大きな思い違いだった。奴は酔いがまわると、俺にこう切り出した。「ねぇ、あなたそろそろわたしをどうにかしてちょうだいよ、いつまでもこうしてお酒を飲んでいるだけの仲は嫌よ」粘着質な声が、酔いもかりて余計にねちゃねちゃして聞こえる。「冗談だろ」俺は鼻で笑いながらそう言ってやった。すると奴は、「冗談とはなによ、あれだけ出させておいて、儲けどころかほとんど返さないくせに」と、少々声を荒げた。そして続けざま、「わかりました、今晩、わたしを抱いてくれなければ、わたしはあなたとの交際を金輪際断ちますからね、もちろんお金も全額返してもらいますから」と、たたみかけるようにして俺に迫った。その後のことは、あまり覚えていない。思い出したくもない。だがあいつと俺が身体を重ねたのは事実なのだ。現に俺の手元には、奴が芥川賞を受賞した際の副賞である懐中時計がある。あれは地獄のような行為のあとだった。俺は奴の寝台の上で放心していた。傍らには脂のない枯れ木のような奴の身体が横たわっている。俺は永島になめまわされた身体を洗おうと上体を起こした。その時ふと、寝台のサイドテーブルの上に置かれた時計が眼に入った。その時計は直角三角形型の木のケースに埋め込まれていて、銀色に縁取られたフレームが、まるで日食のように暗い中で輝いていた。俺はその時計を手に取った。ケースから抜き取ると、何気なく裏を向けた。裏には何か文字が刻印されている。だが暗いのでよく読めない。俺は窓から射し込む月明かりに時計をかざした。"第1××回 芥川龍之介賞贈 永島尚美君 日本文学振興会"

時計の裏には、そう刻印されていた。

俺はあらためてこいつが芥川賞作家であることを再認識した。すると目の前で横臥するみすぼらしい老体が、少々偉大に思えるから不思議である。俺はまた時計を表に向けてしばらく眺めていた。フレームに縁取るようにして彫刻された中世装飾が美しい。国産のもので、そこまで高価なものではない。しかし俺は、それが限られた者にしか手にできないものであると思うと、その時計に崇高な趣きを感じずにはいられなかった。しばらく魅入っていると、奴が起きた。「なにしてるの?」奴はシジミのように萎びた眼をこすりながら俺に言った。「これ、賞取ったときのやつだろ、いい時計だな、デザインが自分好みで素敵だ」俺がそう言うと奴は、「あなた、欲しいの?それ」と、子におもちゃを与えるかのような調子で聞いた。慮外な問いかけに、俺は少々驚いた。欲しくないと言えば嘘になるが、そんなおいそれと簡単に頂戴してよいものではない。俺はもちろん断った。けれども奴は、「あなたに持っていてほしいの。わたしの名前が刻まれたこの時計が、あなたの手元にあると思えば、私はずっとあなたと繋がっていられるような気がするわ」と、懇願するように言い、俺は有り難い押しつけを受けた。今この時計が手元にあるのは、そういう経緯からであった。しかし、よろこんで受け取ったものの、俺はこの時計を飾る気にはなれなかった。最初は暗がりで美しく見えた。だけど今はこの時計を見ると、あの悪夢のような出来事を思いだして頭が狂いだしそうなのだ。脂のないガサガサとした奴の醜汚な肉体が、俺の触覚を侵してならない。間違いなく、俺の人生最大の汚点だ。あぁ、まだこの悪夢を断ち切るには長い時間がかかりそうだ。

 ×月×日

今日、俺は久しぶりに藤村を抱いた。三日前の悪夢から覚めやらぬ俺は、どうしても彼女の肉体にすがりたかった。やはり若い肌がいい。俺は意馬心猿にむさぼった。藤村のみずみずしい身体が、俺の脳裏に張りついた汚れた記憶を綺麗に洗い流してくれた。生き返ったような気分だった。行為後の俺の表情は、いつになく法悦としていたに違いない。彼女はそんな俺の顔を見て、「上野さん、わたしと寝た後いつもむすっとしてるのに、今日はやけに清々しいですね」と、ブラウスのボタンを留めながら言った。「悪い夢から覚めたよ」俺がそう言うと藤村は、「なんですかそれ」と、八重歯を覗かせて笑い、俺が永島と関係をもったことなど知る由もないようだった。俺は煙草を取り出すと、ライターを鳴らした。良い気分で煙を眺めていると、彼女が俺に言った。「それより、会社のほうは大丈夫なんですか?噂によると、配当は随分と前から滞ってるみたいですけど」俺はその言葉を聞き、急に現実に引き戻されたような思いがした。煙の味も、一瞬で無味になった。「永島さんは、わたしに投資のことは一切何も言わないですけど、なんだか日増しに憔悴している様子ですよ。執筆量も減ってきてますし、あの人が仕事しなきゃ、わたしの給料にも影響するんですからね」彼女の語尾には、少々険があった。そうだ、いつまでもこうして配当を止めておくわけにはいかない。はやくなんとかしないと、警察の捜査が入る可能性だってある。しかし、もはやどうする手立てもない。俺は指にはさんだ煙草を見た。灰となって指先に迫った巻紙は、どこか詰んだ己の人生を思わせるようだった。 

 ×月×日

もうおわりだ。よっちまって、うまくじがかけない。おれはきょう、やつからしょうげきてきなことばをきかされた。きょうのやつはおとなしかった。なにかくちがおもそうだった。おれはどうしたんだときいた。するとやつは、はずかしそうなかおで"にんしんしちゃった"とだけひとこといった。おれはあたまがまっしろになった。みみのなかがじんじんわめいた。あたまのうえで、ばくだんがさくれつしたような、そんなかんかくだった。おれはなきながらおろしてくれとせまった。しかしやつは"わたしはうむわよ"と、そのいってんばりだった。なんどせっとくしても、やつはきくみみをもたなかった。おれはこいつとかかわったことをこころのそこからこうかいした。じぶんのこどもが、こんなやつとのあいだからうまれてくることをおもうと、ぜつぼうであたまがくるいそうになった。あぁ、もういやだ。あんなやつのために、いっしょううしろゆびをさされてたまるか。なんてふごうりなんだ。おれにはしあわせになるしかくがあるんだ。そのしあわせをつかむためにも、もはやあいつをころすしかみちはない。


 七

尚美は子を身ごもった。妊娠二ヶ月だった。医者からそう診断されたとき、彼女はよろこびより不安のほうが遙かに大きかった。正直、彼女は自分が子を孕むとは夢にも思っていなかった。歳も歳であるし、なんせそういう行為がはじめてだった為に避妊を考慮する余裕もなかった。出産するとなると、五十代での高齢出産ゆえに胎児への障害リスクも高い。自身も体力や精神面で過酷を極める。それに相手である上野がどう言うかも問題である。産むか、産まぬか、尚美は煩悶した。もちろん身ごもった命を思えば出産したい。女心として当然である。が、これは自分ひとりだけの問題ではない。尚美は、上野に妊娠したこと打ち明けた。それを聞いた彼は、しばらく凍結したように固まっていた。人間の唇が、じわじわとかさついてゆくさまを尚美はこのときはじめて見た。「そんな冗談はやめろ」彼は目を泳がせながら言った。信じたくない、といった様子だった。「嘘でも冗談でもないわよ。正真正銘、あなたとわたしの子よ」尚美は静かに言った。すると彼は、身体をぷるぷると震わせながら、「堕ろしてくれ」と、小さな声でつぶやいた。尚美が答えないでいると、彼は崩れ落ちるようにして彼女の膝下にすがりついた。「たのむ、お願いだから堕ろしてくれ」上野は泣きじゃくりながら何度もそう叫んだ。尚美の萎びた眼は、彼の頭の上でじっとすわっているだけだった。足下では上野が、「俺の人生台無しだ、なぜ俺がこんな目に遭うんだ」などと好き勝手に喚いている。彼の口から出る言葉は、すべて自分本位であった。行為に誘ったのは自分であるにしても、少しは身ごもった身体を労る言葉の一つくらいあってもいいではないか。それに金もまともに返さない。尚美はだんだん腹が立ってきた。彼女は決心した。彼の対応次第では、少々堕胎することも念頭にあった。しかしここまで身勝手な態度を取られると、尚美は意地でも産んでやりたくなった。「あたし、産むわよ」彼女はそう一言、彼の頭の上に言葉を落とした。語調には、鋭い嗜虐が帯びていた。彼は顔を上げた。呆然と鼻を垂らしたまま、尚美の顔をじっと見つめている。その情けない顔を見ていると、彼女は余計に彼を虐めてやりたくなった。「あなたが何と言おうと、あたしはこの子を絶対に産みますからね」上野にとって、その言葉は刃同然であった。その刃を、尚美は何度も彼の面上に振りかざした。すると彼は、突然狂いだしたように尚美に向かって罵詈雑言を浴びせはじめた。お前は鬼畜だの、お前みたいな老婆の産んだ子供と暮らす俺の身にもなれだのと、まるで狂人のように騒いだ。尚美は呆れた。こんなどうしようもない男に好意を抱いた自分が馬鹿だった。今更ながら、時をもどしたい思いだ。狂人化した上野の罵倒は、いつまでもつづいた。三十分は優に超した。尚美の泰然とした態度が、彼の痛罵に余計拍車をかけた。が、一時間も経つと、彼はしだいに大人しくなった。ぜいぜいと肩で息をくり返した。「気がすみましたか?」尚美は、つとめて穏やかな眼差しで言った。けれども彼には、その眼が薄暗いなかで鬼火のように揺らいで見えた。「堕ろしてください、このとおりだ」彼はいよいよ額を地につけてひざまずいた。男が醜くゆるしを乞えば、畢竟、聞き入ってもらえるとでも思っているのだろう。しょうもない男だ。尚美はますます嗜虐的になった。「いいですよ」彼女はつぶやいた。その言葉に、彼はぱっと首を上げた。欣喜雀躍、と言いたげな顔であった。「ただし、渡したお金、全部返してくだされば、この子を堕ろしてあげてもいいですよ」尚美はねばねばしい声でそう言った。彼の嬉しげな表情は、たちまち崩れ去った。うつろな目で、もどかしそうに下唇を噛みしめている。首はゆっくりと降下した。地を見つめ、彼はなにかを考えているようだった。頭の上には、薄ら笑いを浮かべた尚美の顔がある。「畜生!」彼は突然、地に向かってそう叫んだ。そして飛び上がるようにして立ち上がると、倒けつ転びつ部屋から逃げていった。尚美は追わなかった。椅子に座り込んだまま、しばらく茫乎としていた。両目から流れる得体の知れぬ涙は、一晩中、彼女の太腿をなまぬるく濡らしていた。


 九

翌日から、尚美はある行動に出た。

それは、盗聴である。妊娠する三月ほど前、尚美は上野の自宅で酒を飲んだ。盗聴器を仕かけたのは、その時であった。尚美は上野が手洗いに行くのを見計らい、電話裏に三穴コンセント型の盗聴器をこっそり取りつけていた。配当金の未払い、それに不明瞭な説明しかしない上野に対する不審が彼女をそうさせた。設置した盗聴器の内部には、コンデンサーマイクという高感度マイクが内蔵されており、半径約五m範囲の集音が可能である。コンセント型なので、充電の必要もない。上野が気づかないかぎり、半永久的に盗聴することができる。あとは専用の受信機から流れる音を聞くだけであった。尚美は早速その夜から受信機をにぎった。ところが、いざ電源に触れるとなると、急にうしろめたさが全身にこみ上げてきた。なにか自分が卑しい犯罪を犯しているような気になったのだ。それは厳格に育てられた彼女の倫理観でもある。受信機を見つめたまま、尚美はしばらく懊悩した。が、結局、電源を入れることはなかった。けれども今、その倫理観は崩壊した。あのとき断念した盗聴を、もう一度再開するときが来たのだ。クエストカンパニーが健全な投資会社でないことは、彼の今までの行動によって明らかである。尚美は彼が詐欺師であるという確証をつかみ、言質を録って警察に突き出してやるつもりでいた。金もとられ、挙げ句に子種も植えられ捨てられるのでは襤褸雑巾も同然である。あんな害虫のような男を、このまま放っておくわけにはいかない。初老の痩せた身体は、めらめらと怨念で燃えたぎった。尚美は受信機の電源を入れた。スピーカーからは、ザーザーと気味の悪い雑音が流れた。人の声は聞こえてこない。電波が弱いのだろうか。彼女は、しばらく膝を正して待った。妙な時間であった。時計を見ると、針は〇時をさしていた。それから一時間は待ったが、なにも聞こえてこない。ひょっとすると、家にいないのか。それとも寝ついてしまったのか。いずれにしても、スピーカーから人の声の聞こえる気配はなかった。けれども彼女はしぶとかった。受信機を前に、正座を崩さなかった。かさついた肌には、脂が数滴浮いていた。さらに一時間が経った。やっと、音に変化があらわれた。豪雨のような雑音のなかに、なにかガタゴトと扉をしめるような音が聞こえはじめた。不鮮明だが、ぺたぺたと人の歩くらしい音も聞こえる。来た!尚美の身体に、緊張と興奮が駆けめぐった。すると、ドンッという音がした。彼女には、それがリビングのソファに腰掛けた音だとわかった。盗聴器を仕かけた電話裏は、そのすぐ近くだ。「俺だ」雑音のなかに、はじめて人の声が入った。甲高い声だった。間違いなく、それは上野の声であった。彼は携帯で誰かと話している様子で、ああ、だとか、そうだ、などと頻りに相槌を打っている。その声を聞いていると、尚美はむかむかしてきた。今までなんとも思わなかった彼の声が、今では厭らしく軽薄に聞こえてたまらない。なにを話しているかはわからないが、その声は鬱然としていた。昨日の出来事が、酷く尾を引いているようである。そのせいか、妙な沈黙が多かった。リンッという音がした。ジッポを開いて、煙草に火をつけたらしい。シーという煙を肺に入れる音もあった。受信機は、しばらく言葉を聞かせなかった。そこから二、三分して、「まずいことになった」と沈黙を破る上野の声が出た。その言葉に、尚美は自分が絡んでいることを瞬時に悟った。「永島が、俺の子を孕んだらしい」彼は絞るような声で言った。

「もう終わりだ。あんな奴に関わるんじゃなかった。あいつから金を騙し取って会社を延命させるつもりが、これじゃ会社も俺も詰んだも同然だ。あいつは金を返さなきゃ子は堕ろさないと言ってる。今の状況で、そんなことできるわけがない」

 "あいつから金を騙し取って"と言った彼の台詞に、尚美は、やっぱりか、と思った。

「それでなくとも、今顧客の配当を全部止めている状態なんだ。こんなことがいつまでも続けば、憤慨した顧客から警察に被害届でも出されかねない。そうなった場合、会社は摘発され、俺は詐欺罪で長ければ十年は豚箱行きだ。海外に合同会社を設立しているなんて言ってるが、実際はただのペーパーカンパニーだ。やってることだってポンジスキームだし、そんなこと、お前もわかってるだろ」

上野は焦りといらだちで、嘆くように己の罪業を吐露した。尚美は彼の吐いた"ポンジスキーム"と言う言葉を聞いて、ようやくクエストカンパニーの実態をつかんだ思いがした。この詐欺手法は、度々新聞でも報道されているので尚美もよく知っている。アメリカで約六百五十億ドルもの大金を詐取し、世界史上最大の投資詐欺を主導したバーナードマドフの手法もそれである。この悪質な手口で、幾多の人間が上野の魔の手にかかっているに違いない。ところで、なぜあのとき藤村は、彼の会社が潔白であることを執拗に主張したのだろか?もともと勤めていたというのなら、会社の実態や彼の本性も十分にわかっているはずである。それに来なくてもよい宴に参加し、自分を上野に紹介したことも疑問に残る。

尚美は藤村に投資のことは一切話ていなかった。彼と食事をした後日、彼女に例の話はどうしたかと聞かれたものの、尚美は断ったと嘘をついた。堅実な印象を崩したくなかったし、なにより若い男に現をぬかして金を投じたと思われたくなかったのだ。社会の隅にいた自分を、先生などと偉く呼ぶ彼女に対して強い体裁が働いていた。なので、その後上野と交渉のあったことを彼女は知らない。

受信機からはザーザーと雑音がつづいている。上野は、またしばらく沈黙しているらしい。煙を吐く音だけが聞こえる。咳ばらいが一つ入った。「こうなったら…」彼の声が、押さえたように低くなった。尚美は耳をすませた。「あいつを殺すしかない」彼の声は、雑音に混じってはっきりとそう聞き取れた。尚美は胸が動悸した。耳鳴りが、まるで踏切の警報音のようにかんかんと鳴った。

「俺の知人に、製薬会社に勤めてるやつがいる。そいつに頼んで、青酸カリを融通してもらえれば、あんな老婆ひとり消すことぐらいたやすいもんだ」彼の殺意は、どうやら偽物ではないらしい。尚美は衝撃のあまり呆然とした。この殺人計画の標的が、自分であると思うと恐怖で身体の震えが止まらなかった。一体、自分はどうすればいい。尚美は混乱する頭で思案した。冷静に考えて、仮にこの音声を警察に持っていったところで、恐らく警察は捜査に動くことはないだろう。投資詐欺にしても、確実な証拠があるわけでもない。仮に上野が検挙され、音声にあるポンススキームを追及しても、支払う意思はあると言われればそれまでだ。それに殺人予備罪ともなると、さらに希望は薄い。警察というのは、人が死んではじめて捜査活動をするものだ。いずれにせよ、この音声だけでは警察を動かす誘因にはならない。尚美の心境は、絶望的になった。「けれど俺がやるわけにはいかない。奴を殺してサツの捜査が入ったとき、交際のあった俺は必ずその捜査線上に浮かぶはずだ。となると、足がつくのは時間の問題だ。だから加奈子、お前が俺の代わりにやってくれ」尚美は、耳を疑った。たしかに今、受信機から"加奈子"という言葉が流れた。この電話の相手は誰だと思っていたが、まさか藤村加奈子であったとは!電話の上野の話し方を察するに、ふたりの関係はかなり親密なものであるらしい。尚美はあのとき、授賞式の壇上から見たふたりの様子を思い出した。神妙な顔で、難しい話でもしているようだった。今思うと、あれは獲物に接近するための相談でもしていたのだろう。要するに藤村は会社に勤めているときから上野と恋仲であった。彼は速記教室に通う藤村のもとに、流行作家である自分の速記依頼が来たことを知った。自転車操業で難局する会社を保持するべく、彼は彼女を利用して自分に近づくことを思いついた。そして、その藤村から自分があの授賞式に出席することを告げられ、好機とみた彼は友人である高平氏を頼って式に参加した。藤村が宴に参加したいと言ったのも、執拗に会社の潔白を主張したこともこれですべて説明がつく。自分は藤村加奈子にも騙されていたのだ。尚美は膝の上で拳をにぎった。この衝撃は大きかった。彼女には少なからず信頼をよせていた。速記の腕も優秀であるし、人柄にも好感がもてた。今後も自分の右腕として、仕事をともにしたいと思っていた。"私は先生と仕事をしているときが一番楽しいですから"彼女があのとき莞爾として答えた言葉は、今となって尚美の胃の腑を重苦しく突き上げた。「大丈夫だ。奴の仕事中、コーヒーにでも入れて飲ませればいいだけだ。それに念のため、遺書でも書いておいたほうがいいな。"わたしはもう書けない"とかなんとか書いておけば充分だろ。警察も執筆を苦にして自殺したと思うに違いない。心配しなくても、うまくいくさ」彼の押さえた声は、静かに諭すようだった。尚美は、ある社会ジャーナリストから聞いた話を思い出した。検視官は遺体の体表面や現場の状況などから事件性の有無を見極めている。毒薬物による死亡などは、血液や胃の内容物などを分析しなければわからない。なので体表面のチェックだけでは正確な死因を判断することが難しい。尚美は変死体に処された自分が、無縁仏として埋葬されることを思うと背筋に悪寒がはしった。「また近いうちに連絡する。それまでの間、奴の隙をしっかりと把握し……」彼の声が急に途切れた。ザーザーと雑音が流れる。どうやら電波が乱れたらしい。尚美は続きが聞きたくてしかたがなかった。受信機を手に取り、子供みたくがちゃがちゃといじくった。いらいらして、何度もスピーカーを叩いた。無我夢中であった。しかし、余計な操作をしたのか、雑音はさらに増長した。結局、尚美はあきらめた。膝を正したまま、しばらく放心していた。


 十

 自分は殺されるかもしれない。彼女の鼓動は、乱鐘のように激しく打った。これからどうすればいいのか。頭のなかは錯乱した。仮にこの音声を警察に提出したとする。恐らく捜査はされないだろうが、もし捜査活動に出たとしても、その前に自分が殺されてしまえばもとも子もない。尚美は途方に暮れた。このまま自分が殺されるのを、黙って傍観していろというのか。そう易々と殺されてたまるものか。自分にはまだ書きたい物が山ほどあるんだ。それに、この腹の子をこの世に産み落とすまでは絶対に死ぬわけにはいかない。これは女心でもあり、上野に対する復讐でもあるのだ。だが警察も当てにならないとなると、すでに頼るところはない。尚美は都会を離れようとも考えた。けれども離れたところで、下手に顔が知られているうえに、職業的に居場所を秘密裏にすることは難しい。興信所にでも駆け込まれればすぐに特定される。仮に自分が僻地へ逃げたとして、上野がそのことを知れば、彼は必ず盗聴されたことを悟るだろう。あんな馬鹿な男でも、それくらいの頭はあるはずだ。そうなると、怒りでさらに猟奇性のある犯行に出ることだって考えられる。尚美はそれが一番怖かった。切羽つまった人間はなにをするか分からない。彼女は灰色の髪を掻きむしった。ぱらぱらとふけが舞った。いくら思考を巡らせても、道は八方塞がりであった。尚美は、少し外の空気が吸いたくなった。のっそり立ち上がり、窓を開けた。ベランダに立つと、初夏の風が快く頬を掠めた。眼下には豁然と都会の灯りが明滅し、点いては消え、消えてはまた点くビルの灯りが、彼女の心を侘しくした。なにか蛍の光を見ているような悲哀である。尚美は幼少のころ、父親に連れられて見た奥多摩の蛍を思い出した。場所は暗闇の山間で、見たのは古い小橋の上であった。下方には沢が流れていて、暗いながら明媚な渓相だったのを覚えている。森閑とした清流に舞う幻想的な光りは、今でも美しく脳裏に焼きついている。帰りがけの尾根の途中には、集落と山々を俯瞰する展望台があった。そこから見た景色のなかに、たしか大きな一本の橋があった。渓谷の間に架かったその橋は、下部が湾曲した、いわいる上路式アーチ橋で、暗い山々を背景に怪しい雰囲気があった。尚美は、その記憶の片隅にある残像を洗うちに、なにか一つの暗示を得たように思えた。そうだ、あの橋から上野を突き落とせばいい。あの橋からであれば、痩せぎすな自分でも力いっぱい突き飛ばせば簡単に殺れる。先に自分が殺られる前に、あのふたりを殺してしまえばいいんだ。尚美は不意に浮かんだ名案に、思わず口もとがつり上った。眼下に広がる無機質な景色が、こんなに美しく感じたことはない。道は八方塞がりではなかったのだ。しかし、ふたり同じ方法で殺るわけにはいかない。藤村の殺害方法は、またべつで考えなければならない。尚美は頭をひねった。なんとか上手い具合に、自殺に見せかけられる方法はないものだろうか。彼女は、過去に読んだ犯罪本や医学本、挙げ句には推理小説などにも思いを巡らせた。だが実際に行うには、どれも非現実的すぎてあまり役には立たない。しばらく懸命に知恵を絞るも、そう簡単には浮かんでこなかった。外は少し風が吹きはじめた。足下では紐で縛った新聞紙の束がぱたぱたと鳴った。尚美は、ふとその新聞紙に眼を落とした。四つ折りになった紙面には、ある事件を報じた記事が半分途切れにひろがっている。

 昨日の朝に読んだその記事が、彼女の頭のなかに蘇った。事件の概要はこうである。三日前に多摩川で若い女の漂流遺体が発見された。頸部には索溝痕があった。索溝の状態から、川筋で首つり自殺をはかったものの、途中で紐が切れ仮死状態となり溺死したと当初は判断されていた。だが実際は違った。女は絞殺されていたのだ。犯人は二十代の男で、動機は恋愛関係のもつれであると供述している。殺害方法は、いわいる地蔵背負いであった。犯人は隠し持ったスカーフで背負い投げのようにして女をしめ上げ、仮死状態となった女をそのまま川に投げ捨てたのだ。これだ!と尚美は手を打った。しかし脆弱な自分の身体では、この方法でも女ひとりをしめ上げることも難しい。これには共犯が必要である。けれども殺人に協力するような知人などいるはずもない。いや、ひとりいる!尚美の脳裏には、タオの顔が浮かんだ。金に苦労している彼女なら、それなりの報償をあたえればきっと協力するに違いない。せいぜい三百万くらいでいいだろう。それを国にもち帰れば、彼女は五年は働かずとも暮らせる。もう安い給料で長時間つまらない仕事をする必要もない。タオは小柄なベトナム女性のなかでも、それなりに体格がいいほうだ。二〇キロほどあるパレットも、ひとりでせっせと担いでいた。共犯させるにはうってつけの人材である。尚美は翌日、早速タオに連絡を取った。処女作を書いた際、念のため電話番号を聞いておいてよかった。タオは唐突な電話に少々困惑していたものの、持ち前の陽気さを取りもどすのに時間はかからなかった。ナーサンヒサシブリ、ゲンキデスカ、と明るい声で何度も言った。そのあどけない声に、尚美も思わず懐かしさがこみ上げた。聞くと彼女は、今日は休みであるという。丁度よかった。尚美は、ケーキを御馳走すると言って、彼女をS駅の近くにある喫茶店に誘った。ベトナム実習生の寮は、そのすぐ近くだ。彼女はよろこんで尚美の誘いに応じた。ふたりは駅で待ち合わせた。約束の時間に行くと、タオはもう先に来ていた。色のはげたジーンズと、ピンクの薄汚れたTシャツが彼女の生活程度を物語っていた。店には老婦人がふたりいる以外に客はなかった。店内にはモダンジャズが静謐に流れている。会話を聞かれるとまずいので、尚美はタオを連れてできるだけ片隅の席に陣取った。「なんでも好きな物食べていいわよ」 尚美がそう言うと、タオは子供のようにきょろきょろとメニューを眺めた。コレハナニガハイッテマスカ、オイシイデスカ、と品名を一つ一つ指さしながら尋ねた。尚美もいちいちそれに答えた。身体の大きな幼児と話しているようだった。タオは種類の異なるケーキを三つも頼んだ。運ばれると、首を動かしながら美味そうに食べていた。尚美は頃合いを見計らい、声を落として彼女にあのことを打ち明けた。はじめは解せないといった表情を浮かべていた彼女も、簡明に話すうちにだんだんと意図をくみ取とった。動揺しているのか、顔をこわばらせながら念仏のようにベトナム語でなにかをつぶやいている。タオは首を横にふった。ワタシデキナイ、ツカマルヨと、手首を合わせて手錠をかけられる仕草をした。「大丈夫、絶対に捕まらないわ」尚美は執拗に説得するも、彼女は首を縦にはふらなかった。タオは視線を落としたまま、食べかけのケーキを懶げに見つめていた。ふたりの間には、陰鬱な影が射した。尚美はいよいよ金のことを持ち出した。仮定していた通り、協力すれば三百万円渡すと告げた。それを聞いた彼女は、驚いたようにさっと頭をあげた。瞳孔をひろげて、なにかを考えているようだった。自己の倫理観と苦闘しているのが見て取れた。小麦色の額には、脂の玉がわずかに浮いている。尚美はもう一度念を押すように言った。「ホントニクレマスカ」彼女は訝しげな眼差しで聞いた。「ほんとにあげるわよ」尚美が言うと、タオは首を小刻みに上下させ、静かに承諾の意をしめした。「ワタシ、ナンデモヤリマス」タオは瞳を輝かせながら、うれしそうにそう言った。


 十一

 それから三日後、ふたりは西武新宿駅で落ち合った。尚美の手には、洋菓子の入った紙袋がぶらさがっている。これから藤村加奈子の自宅に行くのだ。無論、例の犯行を行うためである。この日、藤村にはタオの休日に合わせて休暇を与えていた。紙袋に入った菓子は、彼女の家に押しかけるための口実である。尚美は以前、藤村がこの店の菓子を一度でいいから食べてみたいと言っていたのを覚えていた。なんでも名店らしく、一切れ一二〇〇円の上等の菓子を買った。この菓子を持って二人で押しかければ、急な訪問でも彼女は嫌でも框に上げるだろう。ましてやこっちは雇い主である。門前払いにするはずがない。ふたりは西武新宿線に乗った。藤村の自宅は、田無町である。車内は平日の昼間ということもあり、閑散としていて長閑だった。ビニール袋から葱を出した主婦がうとうと微睡んだりしている。目的の駅までは、急行で二十分である。その間、二人は言葉を交わさなかった。タオは落ち着かない様子で、爪ばかりいじっている。尚美も上石神井をすぎると、口のなかが酷く渇きだした。身体もがくがくと震えた。電車は西武柳沢を通過し、田無駅に着いた。駅内は人が少なかった。改札をぬけ、北口に出た。階段を降りると、駅前はロータリーであった。バスやタクシーが何台も止まっている。尚美ははじめてこの街の土地を踏んだ。おなじ東京でも、雑踏のない極めて小市民的な街だと思った。彼女はタオを連れて沿線沿いを歩いた。小学生の群れと、幾度もすれ違った。近くに学校があるらしい。チャイムの音が微かに聞こえた。しばらく歩くと、目的である水色のマンションが見えた。建物は七階ほどの、至って簡素な佇まいであった。ふたりはエントランスに足を踏み入れ、エレベータで五階に上がった。着くまでの間、途中から乗る者はなかった。藤村の住む部屋は、五〇五号室の角部屋である。尚美は扉の前に着くと、廊下に住民の視線がないかを確認した。さいわい、ほかに人気はなかった。彼女はインターホンを鳴らした。指先は震え、動悸は一層激しくなった。しばらく待っていると、スピーカーから、「はい?」という藤村の声が出た。まだ訪問者が誰なのか知らないようだ。「永島です」尚美が言うと、藤村は、「先生!」と、驚きとも疑りともつかぬ声をあげた。「突然ごめんなさね、この前あなたが食べたいと言っていた店のお菓子を買ってきたから、それを届に来たのよ。だから開けてちょうだい」来意を聞いた藤村は、恐縮した言葉を吐いてインターホンを切った。すると扉が開き、素顔の藤村が顔を半分覗かせた。化粧のない顔も、凛としていて美人であった。彼女は尚美に作り笑いを浮かべると、傍らに立つタオを尻目に見た。警戒した眼であった。「休みなのにごめんね、丁度この子とお茶して帰る途中に、この店の前を通って思い出したのよ」「はぁ、そうだったんですか、わざわざすいません」藤村は引きつり顔でそう言った。菓子を受け取ると、さっさと帰れと言いたげな様子であった。尚美はそれに負けず、薄ら笑いを浮かべてじっとした。わざと部屋の内をじろじろ覗いたりした。藤村はその様子を見て、「あの、もしよろしければ上がってコーヒーでも召し上がりませんか?」と観念したように言った。語調で嫌がっているのがありありと伝わった。尚美はそらきたと、心のなかでほくそ笑んだ。「あらぁ、悪いわねぇ、じゃ、お言葉に甘えて」ふたりは藤村の後ろに連れて部屋の内へと入った。中は一DKの作りで、以外と散らかっているのには驚いた。衣服は辺りに散乱し、ローテーブルの上には割箸の乗った雪平鍋が片付けられずに放置されていた。どうやら鉢にうつさずラーメンを食べたらしい。藤村はそれを恥ずかしそうに片付けると、座布団を敷いてふたりに座るよう促した。「こんな散らかったところですが、ゆっくりしていってください」言葉だけは愛想よかった。当然、べつな含意があることはわかっている。長居するなと言いたいのだろう。言われずとも、殺せばさっさと帰るつもりだ。尚美はあらためてタオのことを紹介した。藤村は彼女の故郷がホーチミンであることを知ると、土地や文化のことなどを関心を装って尋ねていた。タオは簡単に答えるだけで、そこにいつもの明るさはなかった。尚美は機を見て話をこちらにそらせた。そしてさりげなく、タオの膝横を、ぽん、と叩いた。彼女はそれに応えるかのように、「スイマセン、トイレカリテモイイデスカ?」と藤村に言った。「ああ、どうぞ、そこの左側にあります」タオは立ち上がった。二三歩歩くと、そっとふり返った。藤村の視線は、尚美のほうに向けられている。彼女はショルダーバックのなかのマフラーをつかんだ。生唾を一つ飲み干すと、タオはつかんだマフラーを藤村の首にさっと巻きつけた。その勢いのまま、背負い投げのようにして全体重を前方にかけてしめ上げた。尚美は、その様子を泰然と膝を正して見守った。藤村は悶絶した表情を浮かべて、必死にマフラーにしがみついている。虚しい抵抗であった。やがてすぐに力尽き、瞳をずりあげながら息絶えた。出来事は、あっけないほどに一瞬であった。「もういいわよ」尚美が言うと、タオはマフラーをほどいた。ぜいぜいと荒い息を吐いている。しかし息つく暇などない。ふたりは遺体をクローゼットまで運ぶと、内のハンガーパイプに自殺に見せかけるようロープでつるした。出された座布団も、来客を疑われぬようもとの場所にもどした。そして去り際、尚美は藤村の筆跡に擬して書いた遺書をテーブルの上にそっと置いた。


 一二

 鳩ノ巣駅までは、新宿から青梅で乗り換えると約二時間近くかかった。奥多摩地方にあるこの土地は、多摩川が巨岩、奇岩の間を流れて壮観な渓谷美を呈し、近年まではゲンジボタルの生息地でもあった。尚美と上野がこの駅に降りたころはもう、渓谷はおろか集落全帯は静寂な暗闇に包まれていた。駅舎を出ても、あたりに人影はなかった。水の流れる音だけが激しく轟いている。この日の三日前、警察から尚美のもとに藤村加奈子の死亡報告があった。報告によると、遺体はクローゼットの中で首をつっており、テーブルには遺書が残されていることから自殺で間違いないという。尚美は受話器をぶるぶると震わせていたが、それを聞いて胸を撫でおろした。彼女はすぐ上野に電話をかけた。彼の声を聞くのは、妊娠を告げたあの日以来である。そのせいか、酷くぶっきらぼうであった。彼は藤村が死んだことを知らされると、鼻息を荒げて動揺した。無論、それは死に対しての感傷的な動揺ではない。殺人計画が瓦解したことに対する動揺である。尚美は、自分で書いた藤村の遺書の内容を少しだけ上野に語った。遺書には義理のある自分を殺すことへの煩悶を間接的に記している。彼女はそれを悲しそうな声で語った。彼は静かに聞いていた。その沈黙に、遺書の意味を解しているのが伝わった。「かわいそうにねぇ、なにか抱えきれない悩みでもあったのかしらねぇ」尚美は鼻を啜りながらなにも知らない風を装った。彼は黙ったままだった。言葉が見つからないのだろう。煙を吐く音が聞こえる。煙草を吸っているようだ。「ねぇ、いいこと思いついたわ、あの子の死を忘れるためにも、奥多摩に蛍を見に行きましょうよ。きっと心も癒えるわ」尚美は優しい声で誘った。「俺はいいよ、ひとりで行ってくれ」上野は無下に断った。「冷たい人だわね、あたし一人じゃ怖いわよ。ねぇ、一緒に行きましょうよ」尚美はしつこくねだるも、彼は聞かなかった。いらいらした様子で煙を吐いていた。死所へ誘い出すのは、容易でなかった。しかし、彼女には大きな武器があった。「ねぇ、もしついて来てくれるなら、お腹の子のこと、少し考えてあげてもいいわよ」「え?」上野はうわずった声をあげた。思わぬことに、呆気にとられたようだった。尚美はたたみこんだ。「あれから考えたのよ、わたしもこの歳だし、自分の身体を守ろうって。それに、お金ももういいわ、そんなことであなたと遺恨を残したくないの、だから一緒に行きましょ、あなたと最後の思い出を作りたいの」その最後の思い出作りに、彼はやって来た。二人は駅前をすぎた。なだらかな坂を下ると、国道に出た。車の往来はない。少し歩くと、釜飯屋があった。この土地の名物らしい。目先には民宿の看板が立っている。目的の橋は、この国道をひたすら歩けばたどり着く。なにもない夜道だった。朽ち果てた民家がぽつぽつと現れる以外、景色に変わりはなかった。苔むした擁壁にそって、ふたりは黙って歩いた。「まだ歩くのか」上野は辟易したように言った。「もう少しよ」尚美は冷たくそれに答えた。歩むにつれ、水の轟きが強くなった。あたりには集落が現れた。なかには新しい家もある。平穏な家庭の団欒が、あのなかで営まれているのだろう。だが翌朝には喧しいパトカーのサイレンが、その平穏を乱すに違いない。橋は山脈と集落を繋ぐようにしてようやく姿を現した。間違いなく、あのとき展望台から見えたあの橋である。そのすぐ傍らには、真新しいアーチ型のべつの橋が平行するようにして架かっており、尚美の記憶にはないものであった。ふたりは黒々とそびえる山脈に向かって歩いた。外灯の灯が、寂しく橋上を照らしている。風は嫌に冷たかった。「高いな」上野が橋の下をのぞきながら言った。狙えないことはない。が、まだその決心はつかなかった。ちょうど真ん中あたりに来た。彼女はさりげなく周囲をうかがった。誰もいない。上野は子供みたいにいつまでも橋の下をのぞいている。尚美は、今だと思った。彼女は力を込めて上野の脇腹に突っ込んだ。「うお」彼はそう声を漏らすと、欄干で身体をまわしながら静かに落ちていった。少し経って、どすん、という鈍い音が聞こえた。尚美は橋の上から上野の行方を捜した。しかし暗いので、なにも見えなかった。ただ広漠とした闇である。その闇に、彼女は妙な安らぎを感じた。眼をとじると、多摩川のせせらぎが清々しい解放感を運んだ。これで、すべて片付いたのだ。もうこれ以上煩わしい思いをしなくてもよい。自分は母親となって、この腹の子と平穏に暮らしながら、また大いに執筆に励むのだ。未来は希望に満ちている。尚美は、恍惚とした表情を浮かべると、背中を向けてもとの景色にゆっくりともどった。

 


翌朝、この土地に住む老人が、川の中州に人の倒れているのを発見した。老人はすぐに同居する息子にそのことを知らせ、現場まで救助に行かせた。息子は川まで降りて、倒れた人間の安否を確認するも、息はなかった。所轄署に第一報が入ったのは、それからすぐであった。岡島刑事課長と吉原刑事が現場に着いたころには、日差しは憤怒の如く渓谷一帯を糜爛していた。初動捜査が始まった。見ると遺体の年齢はおよそ二十代から三〇代。服装は黒のTシャツにジーンズといった身なりで、近くには遺体の物と思われるリュックサックが落ちていた。なかには水の入ったペットボトルとブランド物の財布が入っており、その中に免許書のあることから遺体は上野誠三四歳であることがすぐにわかった。それ以外にはジーンズの尻ポケットに携帯が入っていたものの、水没しているので使い物にならなかった。「どう思います?」吉原が岡島にそっと聞いた。「まだなんとも言えんな、自殺ともとれるし、殺人の可能性もある」岡島は遺体を見ながら、難しい表情でそう答えた。「状況から見て、あの橋から転落したことは間違いないだろう。しかし自殺であるとしたら、遺体はなぜこんな辺鄙な場所までやってきたのだろうか?免許書の住所は港区となっているだろ、わざわざ二時間以上もかけてこんな所までこなこてもいいはずだ」岡島はそう言うと、手ぬぐいで首筋の汗を拭いながら周囲を見渡した。美しい長閑な景観である。犯罪とは無縁の景色だ。これが仕事でなければどれほど快いであろう。そう思うと、彼は慌ただしい刑事という立場が我ながら恨めしくなった。「となれば、誰かに先導されて突き落とされた可能性もありますね」若い吉原が言った。「ああ。まぁ取りあえず、この辺りをざっと聞き込みしてまわるしかないさ」岡島はそう言うと、しゃがみこんで川の水をざっと顔にかぶった。脂で汚れた皮膚に気持ちがよかった。下着一枚で猛然と飛び込みたいくらいである。澄んだ川面を見つめていると、そんな欲求が嫌でも沸き起こった。それと同時に、彼の眼がある物をとらえた。浅い川底の石のなかに、なにやら得たいの知れぬ物体が紛れ込んでいる。彼は川面に手を突っ込み、それを手にとった。みたところ、それは鎖のはずれた懐中時計で、表面の硝子は無残にも滅茶滅茶に砕けていた。「なんですかそれ?」背後から吉原が聞いた。「懐中時計みたいだな、綺麗なデザインだけど、しかし酷い壊れかただな」岡島が時計を見つめながら言うと、吉原が、「それ、もしかすると遺体となにか関係あるんじゃないですか?普通に落としただけではそんな壊れかたしませんよ」と、どこか訝しげな様子で言った。「仏の所持品かもしれないな、いちおう鑑識にまわそう」岡島は、その時計をハンカチで包もうとしたそのとき、なにやら指の先にざらざらとしたものを感じた。なにか彫ったような感触である。裏側に、なにか文字でも刻まれているのだろうか?岡島刑事は、恐る恐るその壊れた懐中時計の背中をそっと返した。


 

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或る芥川賞作家の犯罪 安井義張 @hiroto11

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