第10話 番外編 スティーブン視点
お母様はお父様と離縁して、ご実家に帰られた。
僕が『失敗作』だからなんだって。
お父様やお母様が僕にごちゃごちゃ言ってきたけれど、言われた意味がほとんどわからなかった。
レシュマとの婚約がなくなって、次に僕の婚約者になる令嬢はみつからなくて。
侯爵家には新しい「お父様の奥様」がいらっしゃって、それから「新しい坊ちゃま」もやってきた。
なんでも「新しい坊っちゃま」は、僕の異母弟というものらしい。
「新しい奥様」は、本当はずっとお父様と愛し合っていて、真実の愛とかなんとかで、お父様がお母様と離縁したから、ようやくお父様の本当の奥様になれたらしい。嘘か本当かわからないそんな話を、使用人たちがひそひそと話していた。
そうして僕は屋敷の部屋を出され、離れの部屋で一人で暮らすことになった。
僕につけられていた専属侍女たちは、そのまま「新しい坊っちゃま」付きになった。
朝、使用人が僕の離れにやってきて、水差しと洗面器と朝食を置いていく。
置いたらすぐに去るから、僕は一人で顔を洗い、食事をする。
最初は一人ではできなかった。だけど、じっと待っていても、誰もしてくれないから仕方がなく、やってみた。
昼過ぎに、昼食をもってきた使用人が、朝食の食器を下げる。
夕食前に、雑役女中がやってきて、部屋の掃除をする。洗濯物があれば、もっていってもらう。風呂にはいる日は、バスタブにお湯をいれてもらえる。夕食ももらえる。
それを一人で食べる、
それ以外に、僕のすることはない。
衣食住の面倒は見てもらってる……というか、用意はされる。学園に通うこともできている。
だけど、僕に話しかけてくる人はいない。
授業中に教師から指名されて、答えることはある。
使用人に「必要なものはありますか」と尋ねられることも。
だけど、これは会話じゃない。
聞かないと困るから、聞かれているだけ。
その問いには、僕に対する気遣いや愛情といったものはない。
お父様と「新しい奥様」と「新しい坊ちゃま」は、仲が良いらしい。
三人で、薔薇園を歩き、ガゼボでお茶をしている。笑いあう声がよく聞こえてくる。
お父様はお母様と罵りあっていたときとは、別人のような笑顔を浮かべている。
初めて見るお父様の笑顔。
僕には決して向けない顔。
穏やかに笑いあい、お喋りをするお父様と新しい奥様と新しい坊っちゃま。
この屋敷でも、学園でも僕は一人。
誰もそばには来ない。
貴族学園を卒業した後、お父様に呼ばれた。
「お前はこの後どうするつもりだ?」
「え……、僕がこのアルウィン侯爵家を継ぐのではないのですか?」
新しい坊っちゃまが継ぐと、使用人たちが言っていたけれど、お父様から聞いたことではなかった。
「お前はもういらない。アルウィン侯爵家はアーサーが継ぐ」
僕はこのとき初めて、新しい坊っちゃまの名前はアーサーなのだと知った。
知ったことに意味はないけれど。
「貴族学園までは卒業させてやった。だからあとはもう自分の力で生きていけるだろう」
お父様からそんなことを言われても、僕はどこで何をどうすればいいのかわからない。
「お前の名はアルウィン侯爵家から除籍する。代わりに手切れ金を渡してやる。これがあれば、身の振り方が決まるまではなんとかなるだろう」
袋に入っていたのは金貨が百枚。
それを貰ってアルウィン侯爵家を出された。
今後僕はアルウィン侯爵家の家名を名乗ることができなくなった。
つまり、家名を持たない平民になった。
どこに行けばいいのかわからない。
ボーっとしていたら、アルウィン侯爵家の家令がこっそりとやってきて、「今後どうなさいますか?」と聞いてきた。
わからない。
「……奥様を、お訪ねになりますか?」
奥様というのは、「お父様の新しい奥様」ではなくて、僕のお母様のことだろうか?
ああ、そうだな。
アルウィン侯爵家を追い出されて、僕一人では何もできないし、何もわからない。
誰かの助けを求めなければ……と、思った。
「お母様と……レシュマとか、ミアとか……みんなを訪ねてみるよ」
だって、みんな、以前は僕のことを大事にしてくれただろう?
だったら、困っている僕を助けてくれてもいいじゃないか。
そう思った。
「……では、手配をいたしましょう」
そう言って、三日ほど僕を宿に泊まらせてくれた後、アルウィン侯爵家の家令は護衛と御者を雇い、馬車を買ってくれた。ミアたちが住んでいる場所を書いたメモも渡してくれた。
「……私ができるのはここまでです。スティーブン様、どうか、お元気で。そして……いつかでよろしいですから、なにが悪かったのか、あなたはどうすべきだったのかを、ご理解くださいませ」
そう言って、家令は深々と頭を下げてきた。
家令の言っている意味が僕にはよくわからない。
なにが悪かったのか?
僕はどうすべきだったのか?
そんなの知らない。
ミアやアリスたちに大事にしてもらっていたことが悪いのか?
お父様とお母様のように嫉妬にまみれ、いがみ合うことを良しとするべきだったのか?
そんなのは嫌だ。
だけど、家令は、僕が悪かったのだから、反省しろと言っているようだった。
僕の、なにが、悪いんだ?
なにが悪くて、今、こんなことになっているんだ?
わからない。
あのまま、ミアたちに大事にされて、レシュマを第一夫人にして、そのままアルウィン侯爵家を継ぐ。みんなに囲まれて、楽しく過ごす。
それの何が悪いんだ。
それでいいじゃないか。
なんで、それができないんだ。
どうしてお父様は僕のことを「失敗作」なんて言って、「新しい坊ちゃま」なんてものにアルウィン侯爵家を継がせようとするんだ。
わからない。
僕には本当にわからない。
わからないと言っている間に、家令が渡してくれたメモにあるうちの、アルウィン侯爵家から一番近いレシュマのミラー子爵家に着いた。
そして、ミラー子爵から、レシュマはもうこの国にはいないと、迷惑そうに言われた。
そういえば、婚約を解消した後、しばらくして、レシュマは学園に通ってくることもなかったな。
いないなら、仕方がない。
次は、ミアを訪ねてみた。
メモに書いてあった住所には、ミアはいなかった。
「ああ、あの娘。アルウィン侯爵家の命令だったから、仕方なく娶ってやったのに、嫌だのなんだの煩くしやがって。出ていくというから勝手にしろと言ってやったさ。行き先? そんなもの知るかっ!」と、その住所に住んでいた若い男に怒鳴られた。
メイを訪ねてみた。
メイも、ミアと同じだった。行方は分からない。
仕方がない。アリスを訪ねよう。
アリスは穏やかで優しいから、きっと僕をまた大事にしてくれるに違いない。
そう思ったのに。
「まあ、スティーブン様……お久しぶりでございます……」
困った顔で、それでもアリスは僕を出迎えてくれた。
事情を話すと、アリスは申し訳なさそうに言った。
「スティーブン様。アルウィン侯爵のご命令で、私はこの家に嫁ぎました。なかなか子を授かることができずに苦労しましたが、今ようやく、できたところなのです」
見れば、アリスの腹は、ふっくらと大きくなっていた。
「子ども……、産むの?」
「はい」
「旦那さんと、仲がいいの?」
「それなりには」
「……僕よりも、旦那さんのほうが大事なの?」
そう聞いたら、アリスはすっと息を飲んだ。
「……スティーブン様のおそばで過ごした日々は……楽しいこともありましたが、辛いこともありました。けれど、それは、私にとってはもう過ぎ去った過去なのです」
「過去……」
「はい。私の過去では確かにスティーブン様が中心でした。ですが、私の未来は……きっと、この腹の子どもや旦那様が中心になることでしょう」
「そう……」
つまり、アリスは、もう、僕に興味はないのか。大事に思ってくれないのか。
あんなにずっと一緒にいたのに。
なんでだろう?
なんでアリスは僕を大事に思わなくなってしまったんだろう?
アリスだけじゃない。
みんなみんな、どうして、僕を大事にしてくれなくなったんだろう?
辛かったこともあった?
どうして?
アリスとミアとメイがいたとき、僕に辛いことなんて一つもなかったのに。
アリスたちがいて、僕を大事にしてくれたときが、僕のしあわせだったのに。
「……スティーブン様。ミアもメイも私も……レシュマ様も、あなたのことが本当に好きでした。ですが、あなたはそれを享受するだけでした」
「え?」
「スティーブン様、あなたはわたしたちのことが大事でしたか? 大切に思ってくださいましたか? 二十何回も変わった元婚約者たちと同じ、いなくなれば、別の替えがいる。その程度の存在だったのではないですか?」
「えっと……?」
アリスの言っていることが、僕には本当にわからなかった。
僕が、アリスを、ミアを、メイを、レシュマを……大事、だったか、だって?
そんなもの、考えたことも、ない。
「私たちはあなたの唯一無二になりたかった。大勢の中の一人ではなく、替えのきく存在ではなく。ですが、あなたは……」
アリスはそこで一度、口を閉ざし、顔をしかめた。
「私の今の旦那様は、少なくとも、私一人を妻として見てくれます。そこに愛があるかどうかは……わかりませんが、それでも、私一人を尊重し、生まれてくる子を喜びを持って待っていてくれます。もしも、私がスティーブン様を選んだとしたら、あなたは……私一人だけを愛し抜いてくれますか?」
答えることは、僕にはできなかった。
だって、わからない。
アリスの言っていることが、僕にはちっとも理解できない。
そのまま、無言でアリスの家を去り、そして次にお母様の家へと向かった。
お母様は、お母様のご実家にはいなかった。
僕に対応してくれたのは、お母様のお父様、つまり僕のおじい様にあたる人だった。
「あれは、もうこの家にはいない。修道院に行くか、再婚をするか選べと言ったら、再婚を選んだ」
おじいさまにあたる人は淡々と、そう言った。
「お母様は……誰と再婚をしたのですか?」
「それを知ってどうする?」
「その家に、行きます。僕は一人ではどうすればいいのかわかりません。誰かに守ってもらわないと……」
そこまで言ったら、おじい様にあたる人は、盛大な溜息を吐いた。
「あれの嫁ぎ先にお前が行ったとしても、お前の居場所はそこにはない」
「え……?」
僕は、お母様の子ども、なのに?
守ってもらえないの?
「何を甘えているか。お前はもう子どもではないだろう。貴族学園も卒業した。金もある。どこで何をするのも自分で決められるだろう」
「え……?」
おじい様の言っていることがわからない。
甘えている? 僕が?
「自立ができないというのなら、修道院に行け。その金を喜捨すれば、修道院でもそれなりの扱いをしてもらえるだろう。住むところと食うものには不自由しない」
それ以上、おじい様は何も言わず、無言で男子修道院への地図と、紹介状を僕に渡してきた。
男子修道院……、それがどういう場所であるのか、僕にも何となくわかっている。
清貧・貞潔・服従の三つの誓いを掲げ、もちろん結婚などすることはない。
いや……している人もいるようだけれど、それは例外。
例外と言えば、隠修士と呼ばれ、砂漠などでたった一人で孤独な生活を送るものもいるらしいが、ほとんどは修道院にこもって、規則正しい生活を送っている。
修道院の外で活動し、市井で直接的に人々に奉仕を行うことを認められた修道士も存在する。ただし彼らも生活の単位は集団生活だ。みんなで、規則正しい生活をして、神様に仕える。
神に仕えるために、俗世から離れることの意思表明をするために、髪も剃られてしまう。
僕がそれをするのか?
もらった地図と紹介状を手に、じっと考える。
だけど、僕には行く先がない。
レシュマをあてにして隣国に向かっても、学園で、一時期は僕をちやほやと囲んでくれた令嬢たちを訪ねて行っても、きっと無駄だろう。
他に、行く場所がないから、仕方がなしに、紹介された男子修道院に僕は向かった。
修道院の生活は実に単調だ。一日に何度も神に祈り、その合間に古典や神の言葉が書かれている書物を書き写す。
畑を耕したり、パンやジャムを作ることもある。基本的に自給自足の生活。
作ったパンやジャムやお菓子を、ミサなんかのときに、信者たちに配ることもある。
僕はその配布の役目を頻繁にさせられる。
なんでも顔がいいから、僕が配ると信者たちが喜んで、また次のミサに来てくれるらしい。
ジャムつくりや畑仕事には、あまり役に立たない僕が、目立って役に立てるのはそんなところくらい。
あ、あと、写本をするときの文字がきれいだとかで、手紙や何かの代筆なんかもよくさせられる。
そんな日々を送って何年が経っただろうか?
僕が暮らしている男子修道院がある街で、大きな祭りが開かれることになった。
修道院も、その日は一般に開放され、信者以外の誰でもが出入りするようになる……というか、祭りの会場の一部になるのだ。
祭りに来る人たちに、パンやジャムやお菓子を配り、その代わりに喜捨を求める。まあ、つまりは寄付をしてくれということだ。
喜捨はいくらでもいいということになっているが、貧しい平民はただでもいい。金がなくても、その代わりに神に祈りなさいって言えばいいんだ。
裕福な町人たちは、結構な額の喜捨をしてくれる。
僕が喜捨を求めると、ご令嬢やご婦人の財布のひもが緩むって、他の修道士たちが言ってきて、それで、僕は久しぶりに街の中に行くことになった。
祭りは盛況だった。
あちらこちらで笑い声が起こり、音楽が流れ、歌い踊る人たちがいる。
静かな修道院とは違う祭りの喧騒に、眩暈がしてきそうになる。
そこに大きな声がかかった。
「魔法使いが来たぞっ! 隣国の魔法使いたちだっ!」
声のする方に顔を向けたら、視界一面に、無数の、しかも大きなシャボン玉が浮かんでいた。
太陽の光を反射して、七色に輝く大小さまざまな、シャボン玉。
それが、ふわりと浮かび、風にゆらりと流される。
幻想的な風景。
思わず、僕も、その光景に見入ってしまった。
あたりは歓声に包まれている。うわーとか、きゃあとか。すごいとか。
「魔法使いレシュマの特別なシャボン玉だよっ! 触ってごらん、シャボン玉なのに、触っても壊れないっ!」
声を聴いた人たちが、一斉にシャボン玉に手を伸ばす。
「うわー、本当だっ! 触っても壊れないっ!」
小さな男の子が、駆け出して、大きなシャボン玉を抱えた。
それでも、シャボン玉は壊れない。
しばらくぶんぶんと振り回し、そのあとようやくシャボン玉は壊れて消えた。
「すごーいっ!」
男の子は、別のシャボン玉に手を伸ばし、そして、また、同じようにシャボン玉を振り回した。
別の女の子も、いや、大人も子供も、シャボン玉に手を伸ばして笑顔になっている。
だけど、僕はシャボン玉に手は伸ばさなかった。
魔法使いレシュマのシャボン玉。
「レシュマ……?」
僕の婚約者だった、あのレシュマなのか……?
呆然と、僕はただ、シャボン玉を見上げ続けた。
すると……。
「なあ、でっかいシャボン玉の中に入りたいやつはいるか? あっちの広場では、このシャボン玉を作り出した魔法使いレシュマがいて、希望者には、巨大なシャボン玉の中に入らせてくれるんだそうだ」
その声に、大人も子どもも一斉に広場に向かって走り出した。
僕は、そのあとを、ふらふらとついて行った。
「はーい、巨大シャボン玉の中に入りたい人は、この列に並んでくださいね~」
「見学だけの人は、こっちですよ~」
魔法使いと思しきフード付きのロングコートを着た者たちが、そうやって集まった人たちを誘導していた。
広場の真ん中にはぐるっと丸い感じに空いてあって、そこに、黒髪の若い女性の魔法使いと、それからその彼女のそばにはがっしりとした体つきの赤い髪の男がいた。
「はーい、じゃあ、次のかた~」
黒髪の女性が、声をかけると、その女性に向かって、母親と手を繋いだ子どもが歩いて行った。
「んー、坊やはお母さんと一緒にシャボン玉に入る? それとも一人で入る?」
黒髪の女性はかがんで、子どもに聞いていた。
「いっしょっ!」
「じゃあ、お母さんと手を繋いでね~。行きますよ~、はいっ!」
母親と子どもは二人いっぺんにものすごい大きなシャボン玉に包まれていた。
おおーとか、わあーとかいう歓声が上がる。
「そのまま歩いて行って大丈夫ですよ~。あ、でも十分くらいしか持ちませんからねー」
笑顔で去る母親と子ども。それに手を振る黒髪の女性。
「……レシュマ」
楽しそうに、魔法を使う、笑顔のレシュマがそこにいた。
十年前と、あまり印象が変わらない。
最初に出会ったときの、あのキラキラと輝く若草色の瞳がそこにあった。
「じゃあ次のかたは~」
と、レシュマが言ったら、赤髪の男がレシュマの肩をぐいと引っ張った。
「レシュマ、お前、魔法使い過ぎ。ちっとは休め」
「えー、でも、皆さん楽しそうだし、わたしも楽しいんです」
「後でぶっ倒れても知らねえぞっ!」
赤い髪の男が怒鳴ったら、レシュマは嬉しそうにふふふと笑った。
「わたしが倒れたら、ウォルター先生、わたしを抱っこしてくれるでしょ?」
「お、おお……」
「あーんして、ご飯も食べさせてくれるからねー」
「あ、当たり前だろーがっ!」
「ふっふっふ。わたし、ウォルター先生に甘やかされているなあって、嬉しくなっちゃうの」
「だからって、ぶっ倒れるまで魔法使うな。祭りが終わったらミラー子爵家行くんだぞ? 元気な姿を家族に見せてやれ。それから……倒れなくても、甘やかすくらいしてやるから」
赤い髪の男がそうぶっきらぼうに言って、顔をプイッと横にそむけた。
そうしたら、「えっへっへ、ウォルター先生、だーい好きっ!」
レシュマがそう言って、赤い髪の男に抱き着いた。
……僕は、なにを見ているんだろう。
レシュマが、僕じゃない、他の男に抱き着いて、しかも大好きって……。
見たものが信じられなくて、ぐらりと頭が揺れそうになった。
呆然としていたら、レシュマと赤い髪の男を、別の緑色の髪の魔法使いが仕方なさそうに引き離した。
「はいはいはいはい、新婚バカップル劇場はどっか別のところでやってくれ」
「誰がバカップルかっ!」
「十年以上時間をかけてモノにした、若い奥さんが大事なのはわかるけどね。あとレシュマちゃん、疲れちまうのもよくないけど、これだけ皆さんお集まりだから、あとは俺がやるよ。レシュマちゃんほどうまくはできないけど、一応オレもこのシャボン玉魔法使えるし。はい、交代。バカップルは飯でも食いに行きなさい」
「はーい。じゃあ、あとはよろしくお願いいたします。ごはん食べ終わった後、また交代しますね」
「ほいよ、よろしく」
腕を組んで歩きだしたレシュマと赤い髪の男の後を僕はこっそりついて行った。
「ねえねえ、先生。このお祭りが終わったら、わたしの実家に行くのはいいんだけど……」
「おう、久しぶりの帰国だから、ゆっくりすればいい」
「それはいいんだけど……先生のご実家は? 行かないのっ?」
「うっ!」
「先生のお父様とお母様、結婚式であった以来、お会いしていないから、挨拶くらいはしたほうがいいよねえ」
「……いらねえ。若い嫁もらって鼻の下伸ばしているだのなんだの、からかわれるから帰りたくねえ……」
「えー?」
ああ、レシュマはこの赤い髪の男と結婚したのか……。
胸が苦しくなって、思わずレシュマを追いかけた。そして、僕は、手を伸ばして、レシュマの腕をぐいと引いた。
「きゃっ!」
後ろにつんのめりそうになったレシュマを、赤い髪の男が抱き寄せた。
「なにしやがるっ!」
僕に怒鳴ってきて、それで、その赤い髪の男は僕の顔を見てはっとした顔になった。
「お、おまえ……」
ああ、きっとこの男は僕のことを知っているんだ。僕は、覚えていないけど、どこかで会ったことがある……?
「あービックリした」
だけど、のほほんと、レシュマが言って、そうして僕のほうを見た。
僕の顔を、目が合った。
「どうしましたか? あ、もしかして、あなたもシャボン玉欲しいの?」
そんな見当違いのことを言い出したレシュマ。
「あ、えっと……」
僕のことを、覚えていない?
そりゃあ十年以上経っているし、僕には髪の毛もないけれど。
だけど。
モゴモゴと、声にならない言葉を飲み込んでいる僕に、レシュマは「はい、どーぞ」と言って、掌より少し大きいくらいのシャボン玉を手渡してくれた。
「大事にしてくれたら、結構長い間、割れずにいますよ」
にっこり笑ったレシュマの笑顔は、シャボン玉みたいにキラキラと輝いていた。
「あ、その……、僕は……」
スティーブンだよ、覚えているだろう?
すがろうとしたら、赤い髪の男に睨まれた。
「じゃあ、レシュマ行こうぜ」
「はーい」
去り際、赤い髪の男が僕に言った。
「大事にしねえから、壊れるんだよ」
ああ……、そうか。
みんなは僕を大事にしてくれた。
だけど、僕がみんなを大事にしていなかったから、僕のしあわせは壊れてしまったんだ。
レシュマが残してくれた、魔法のシャボン玉。
過去のしあわせ。
大事にしていたら、長く保つはずのそれは、ぐっと力を籠めたら、僕の手の中で、壊れて消えた。
壊れたシャボン玉は元には戻らない。
大切にしないと、簡単に壊れてしまう。
たった、それだけのことを、僕は、今、ようやく理解した。
理解したけど、もう遅い。
キラキラと輝く、シャボン玉の残滓。
それを見つめたまま、僕はいつまでもいつまでも泣き続けた。
‐ 終わり ‐
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