道中
@yokonoyama
第1話
土曜日、晴れ、午後1時。
好きな作家の新刊が発売された。私は本屋へ行くため、家で出かけるしたくをしていた。そのとき、テーブルに伏せていた携帯電話が振動した。携帯電話を持ち上げると、画面に義理の姉の名前が出ている。私の兄と結婚した3年前、新居へ遊びに行った時、義姉の電話番号を教えてもらった。それ以来、番号は登録していたものの、こちらから義姉に連絡したことはない。仲が悪いわけではなく、兄とは1、2ヶ月に1回、電話で話しをしている。ただ、義姉から私に電話がかかってきたのは、これが初めてだった。
嫌な予感がする。
私は電話に出ると、挨拶もしないで、義姉さん、何かあったんですか? と聞いた。義姉は、私が電話に出たことと何かを察していることに安堵し、肝心な内容を言った。その声は震えて聞こえた。
「トシさんが家で倒れたの。さっき救急車で運ばれて、今、病院にいるのだけど、まだ意識が戻らなくて」
トシというのは兄のことだ。兄は42歳で持病はない。ちなみに義姉は36歳で、私より若い。
嫌な予感という心づもりをしていたが、この状況にふさわしい相槌など思いつかない。だから、私は疑っているわけではないのに、義姉に対して、本当ですか? と言った。
義姉は、兄と一緒に救急車に乗って大きな総合病院まできたものの、処置室には入れず、兄のそばにいられない。廊下で立ち尽くしていると、別の看護師さんから、誰か連絡したい人はいませんかと言われ、そこで私に連絡しなければ、と思いついたらしい。兄夫婦のもとへ駆けつけられるのは、私しかいない。なぜなら他にきょうだいはおらず、母親は私たちが小学生の時に亡くなっている。そして、父親は遠く離れた田舎で、一人、暮らしているからだ。今、この段階で父に兄のことを話しても、心配させるだけになる。そのため父に知らせるのは、私が病院に着いてからにしようと決めた。
メモ用紙が見当たらず、手近にあった郵便物の封筒に兄が搬送された病院の名前を記した。最寄りの駅名も。それから、すぐに行きます、と言って電話を切った。
泊まりになるかもしれない、携帯電話のバッテリー残量を確認しながら、そう思った。いつも使っている黒いリュックに、Tシャツや着替えを押し込んだ。財布に現金を足す。腕時計をはめた。携帯電話を見れば時間はわかるが、私は腕時計の方が使いやすい。
大丈夫、と、つぶやいた。深呼吸もする。家を出るきっかけが、欲しかったのかもしれない。ここで心配しても仕方ない。とにかく家を出た。
すぐに行きます、と義姉に言ったものの、病院まで電車で2時間以上かかる。それが早いのか遅いのか、私には判断しづらい。ただ、待っている義姉にしてみれば、心細い時間に違いない。
駅まで小走りで、5分もかからずに着いた。駐輪場が駅から離れた所にあるので、駅の近くに住んでいる私は、自転車を使わない方がいいのだ。
ちょうどホームに止まっていたオレンジ色の急行に乗った。空いている座席があったものの私はドアのそばに立ち、外の景色を見る。
兄夫妻の家に行くには、電車の乗り換えが2回ある。街からどんどん遠ざかるのだ。兄夫妻は、自然の多い住宅地に新居を構えた。最後に乗る路線は、各駅停車のものしか走っていない。その終点で降りるのだが、途中の駅は、緑が多くなるものの登山で人気の山があるとかキャンプ場があるとかいうこともなく、乗り降りする人もまばらだった。とはいえ、それは3年前に行った時の記憶だから、何か変わっているかもしれない。終点の駅は、住宅地と大型のスーパーがあるせいか、わりと賑やかな感じだった。家を訪ねる場合は、駅から徒歩でたどり着ける。兄が運ばれた病院へ行くには、終点からひとつ手前の駅で降り、バスに乗る必要がある。義姉は電話をくれた時、気が動転しているにもかかわらず、バス乗り場の番号を思い出して言った。何ヶ所か乗り場があるらしい。それを私はそのままメモしたが、もし駅のどこかでタクシーが止まっていたら、タクシーに乗ればいいと思った。行ってみなければわからないが、少しでも早く病院に着けば、それでいい。
家を出て30分過ぎた。別の路線の電車に乗り換える。降りた駅から歩道橋のような連絡通路が作られているので、乗り換えに迷うことはない。
ホームでしばらくの間、銀色の電車が来るのを待った。もうすぐ電車が参ります、とアナウンスが流れる。ふと、電車が定刻通りに運行されていることに、心の中で感謝した。兄のもとへ無事にたどり着くため、自分の善良さを何かに示したかったのかもしれない。
銀色の電車に乗った。乗客は少なかったが、やはり座る気にはなれない。ドアの側に立つ。走行している音が変わった。電車は橋を渡り始めた。下に大きな川がある。太陽の光が水面に反射し、キラキラと揺れている。鴨のような水鳥が浮かんでいるのが小さく見えた。1羽だけでなく、離れた所にも何羽かいた。あの鴨は、ひとりぼっちじゃないんだな、と勝手に思って安心する。
ひと月ほど前、兄と電話をした。兄の話しはいつも似たり寄ったりで、おもしろい推理小説を読んだとか、新しいレジャー施設に夫婦で行って楽しかったとか、便利なキャンプグッズがあるとか、それぐらいの内容だ。ただ、その時、兄は、仕事が増えて睡眠不足になり疲れが取れない、と言っていた。深刻な感じではなかったので、一段落ついたら休暇を取ればいいと勧めた。病院で体を検査したらどうかということは、思いつきもしなかった。もちろん、仮に私が病院に行くよう言ったとしても、兄が受診したかどうかはわからない。
大きく息を吐いた。
車掌さんが次に停車する駅名をアナウンスしている。私が立っている方の扉が開くらしい。
再び、改札を出て違う路線に向かう。10年以上前から、切符を買うことはなくなった。先払い式のカード型切符が出て、何年かすると、それが進化してチャージ式のカードになったり、銀行引き落としで支払えるようになったりした。何より、目的の駅までお金がいくらかかるか確認しなくても、ひとまず電車に乗れるのが助かる。
駅まで来た。改札に入りながら、天井から下げられている案内板に目をやる。ホームの番号を確認した。そのまま歩き、ほとんど正面に見えている階段の方へ進もうとした時、積まれている週刊誌が、ちらっと見えた。駅の中に本屋がある。歩く向きを変え、吸い込まれるように、その本屋に入った。入ってみると、店の間口は広かったのだが、奥行きはあまりなかった。たくさんの雑誌の表紙が見えるように並べているため、通路に沿って場所をとっているのだろう。そのため、私は大きな本屋なのかと勘違いした。
しかし、奥行きがなくて狭くても、店内は天井近くまでの高さのある本棚を使用していた。目立つ場所にある本棚をさっと見回す。雑誌や文庫本と新刊の漫画があるくらいかと思ったが、隅の本棚にハードカバーの本が並んでいた。今月の新刊とか、作者の名前順で並べているのかなど、分類の仕方を見るが、脈絡がないと気づく。それでも、諦めずに並んでいる背表紙を見て行く。無意識のうちに利き手の人差し指が、空をなぞっていた。そして、見つかったのだ。好きな作家の新刊が1冊あった。レジでブックカバーも手提げ袋も断って、代金を支払った。
ホームへの階段を駆け上がる。アナウンスの声が聞こえる。ホームにはクリーム色の2両編成の電車が止まっていた。どうやらこの電車が、発車します、とアナウンスされているようだ。私が駆け込み、しばらくするとドアが閉まった。乗れたことにほっとする。車内には私の他に1人しかおらず、ようやく座ろうかという気持ちになった。もう乗り換えはないし、目的の駅に着くのを待つしかない。座席の端に座り、掴んだままだった小説を、リュックに入れた。
乗っているのは各駅停車の電車なのだが、駅と駅の間隔がとても離れているため、なかなか次の駅に着かない。間違えた電車に乗ってしまったのかと、うっすら不安になる。そもそも、各駅停車の電車しか走っていないので、間違えようがないのだが。
終点のひとつ手前の駅で降りる。駅前のバスロータリーには、乗り場が3ヶ所あった。バスは1台も止まっていなかった。タクシー乗り場もあるが、タクシーも止まっていない。バス停に近寄ってバスが来る時間を見てみようと思った時、ちょうどタクシーが乗り場に入って来た。慌てて、そちらに走る。タクシーから杖を持った年配の女性が降りた。その後、私が乗せてもらう。運転手さんは親切だった。病院まで10分ほどだと言う。土、日はバスの本数が減るので、タクシーを利用するお客さんが増えるそうだ。病院と駅とを何度も往復していると言った。さらに、土曜の午後と日曜は、病院の正面玄関は閉まっていて、夜間用の通用口からでないと入れないと教えてくれた。
見えて来ました。あれですよ、とタクシーの運転手さんが言った。緑色で書かれた、総合病院、という看板が見えた。高さの違う立派な建物が2つ並んでいる。高い方の建物は病棟で、6階建だそうだ。外来の診察や検査をする建物は2階建で、その一部が病棟と繋がっている。
タクシーの運転手さんは、通用口の近くで降ろしてくれた。私は腕時計を見た。午後3時35分。自動ドアを入ると、警備員さんのいる部屋があった。薄暗い細い廊下が続いて、とても広いフロアに出た。明るい。大きな窓がたくさんある上に蛍光灯が点いていた。長いカウンターがあり、内科は1番、耳鼻科は4番、支払いは7番というように番号がついた受付窓口になっている。
総合案内のカウンターがあった。けれども、外来の診察時間が過ぎているため、誰もいない。シンとしている。看護師さんを探そうか、携帯電話で義姉に連絡しようかと迷っていると、どこからか走る足音が聞こえた。私の名前が呼ばれた。そちらの方を向く。義姉だ。近づいて来た彼女は、さっきトシさんの意識が戻ったの、と言った。
4階にあるという病室へ向かう。向かいながら、彼女は、兄の状態をかいつまんで説明してくれた。内臓のどこかで出血していて意識を失ったとか、出血を止める点滴をして今は落ち着いているとか、貧血がひどくて輸血が必要だとか、もっと詳しく検査をしないと出血箇所がはっきりしないとか、そんなことを。
エレベーターを降りると、目の前にナースステーションがあった。そのすぐ横が兄のいる病室らしい。出入り口は、ベッドが通れるよう、大きなスライドドアになっている。その前に看護師さんが1人立っていた。看護師さんは義姉が戻ったのを見て、さらに私の方を見ると、ご家族の方が来られたのですね、と言った。私と義姉は両手を消毒させられる。それから、マスクも渡された。スライドドアを開けて入る。部屋の中は、ナースステーションと隣り合わせの壁の上半分がガラス張になっていた。ガラスの向こうの看護師さんも、こちらの様子を見られるようになっている。
部屋の中心にベッドがあり、そこに兄が横たわっていた。布団とか何かを被って休んでいるというのではなく、何かしらの処置が続いているようだ。医師が1人と看護師さんが2人いる。カートのような移動できる台にモニターがあったが、兄の何を見ているのか、私にはわからない。意識が戻っている兄は、私が部屋に入って来たことに気がつき、驚いたらしい。何か言いたそうに見えた。貧血のせいか、顔色がいつもと違い、白くなっている。
私は、兄さん、と静かに声をかけた。兄は返事をする代わりに、頭を起こそうとする。しかし、だめですよ、まだ動かないで、と医師に止められた。
私は、リュックから新刊を出した。何をしているのかと思ったのだろう、看護師さんの1人と目が合った。けれども、注意はされなかった。私は、新刊の表紙を兄に向かって見せた。しばらくして兄は、わずかに表情をゆるめた。そんな気がしただけかもしれない。ずいぶん前になるが、兄が勧めてくれた作家なのだ。
兄の手がゆっくり、こちらに伸びてくる。
そっと、渡した。
(了)
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