閑話 残り四日の、人生


 リセットが発生してもなお、消えないものがある。

 きっと魂に刻み込まれたそれは、完全なる死を迎えるまで、蓄積し続けるのだろう。


 生き苦しい。

 そんな感情が常に襲い掛かってきて、エレノアの心を攻め立てていく。

 それは今でも変わらない。


 ――ただ。


 苦しみ以外の感情が一つ、確実に、芽生えていて。

 だからこそ。

 朝、目覚めると同時に味わう暗澹たる情念が、和らいでいた。


「今日も、来てくれるかな」


 起き上がりながら呟くエレノアの脳裏には、彼の姿が浮かび上がっている。

 アルヴァート・ゼスフィリア。

 他国からやってきた学生であり、そして。


「アル、くん」


 心優しい友人。

 エレノアを守ると言ってくれた、初めての人。


「……えへへ」


 枕元に置かれた日誌を手に取って、最後のページを開く。

 昨夜更新されたそれには、アルヴァートに関する情報と想いが、記述されていた。


「アルくん……アルくん……アルくん……」


 名前を呼ぶたびに、幸せな気持ちになる。

 だからこそ、エレノアは思うのだ。

 は幸運だった、と。


「残り、四日」


 自分が自分でいられるのは、それまで。

 その日を過ぎれば、エレノアは全てを忘れて、別人になる。


「前までのあたしは、つらい気持ちのまま、消えていったようだけど……でも、あたしは」


 アルヴァートのおかげで、温かい気持ちを抱いて、消えることが出来る。

 それを喜ぶ一方で、彼女は。



「……ぜいたく、かな。消えたくないって、そう思うのは」



 ボソリと呟いてから、頭を振って。

 猫耳をピクピク動かしながら、ベッドから降りると。


「アルくんに、おいしいお菓子、食べてもらいたいな」


 日誌によると、自分は菓子作りが出来るらしい。


 それを過去に、ようだが……

 その誰かのことは、わからない。


 さりとて、今のエレノアにとっては、どうでもいいことだった。


「えへへ。喜んでくれるかな、アルくん」


 そして彼女は朝の準備を済ませ、食事を摂ってから外出。

 菓子作りの材料を購入すべく、店を回っていく。


「チッ……」


 店主は誰もが、いつものように嫌そうな顔を見せてくる。

 普段は心苦しさしか感じないが、しかし、今は。


(アルくん……アルくん……)


 彼のおかげで、胸の内には温かさがあった。


 そうであるがゆえに。


「痛っ……!」


 道すがら、石を投げられても。


「さっさと死ねよ」


「堂々と出歩いてんじゃねぇ」


 心ない言葉と、暴力を受けても。


 エレノアの心は、温かいままだった。


 都市全体が自分に向けてくる悪意。

 その所以はわからない。

 きっと生涯、判然としないことだろう。


 過去の自分は、その理不尽に怒りを覚えたこともあったらしい。

 けれど今のエレノアは、そこに対して何も思うことはなかった。


「~~~~♪」


 不自由な足を引きずって、猫耳を動かしながら、鼻歌を口ずさむ。

 そんなエレノアの脳内は、彼の存在で埋め尽くされていた。


「よし、早速……!」


 屋敷へ戻ると、彼女はすぐさま菓子作りを開始。

 今回のそれは、プレーンなクッキーである。


「日誌には、愛情を込めたら最高に美味しくなるって、書いてあったけど……」


 やり方がわからない。

 それを彼女なりに考えた結果、


「ア~ルくんっ♪ ア~ルくんっ♪ あたしの友達、ア~ルくんっ♪」


 調子外れな小唄を口ずさみながら、製作途中の菓子を中心にグルグルと回る。

 そうした奇妙な儀式を終えた後は、順調に行程が進んでいき……


「できたっ!」


 なんの変哲もないクッキーだが、その味は、


「っ……!」


 どうやら日誌に書かれていた通り、自分には菓子作りの才能があるらしい。

 出来上がったクッキーは、頬が蕩けそうなほど、美味だった。


「こ、これならきっと……!」


 彼も喜んでくれるだろうと、そう思った直後。

 エレノアの猫耳に、呼び鈴の音が届く。


「アルくんっ!」


 彼が、来てくれた。


 そのように予感したエレノアは、皿に盛ったクッキーを携えながら、玄関へと足を運び――


 絶望の瞬間を、迎える。


「エェェェェェレノォォォォォアちゃぁあああああああん! お仕事の時間だよぉおおおおおおおおおおおおんッ!」


 恐ろしいマスクを被った怪人、フールマン。

 その隣に立つ、初老の男。

 そうした二人の姿を目にしたことで、エレノアの心は一瞬にして冷え込み――


「や、やだ」


 一歩後ろ退る彼女を追い込むように、初老の男はゆったりと接近しながら、


「ふふふふふ。呪いが消えるだけでも、喜ばしいというのに……その方法が、こんなにも愛らしい娘を犯すことだなんて」


 その目にはケダモノのような肉欲が宿っていて。

 しかし。

 逃げたくても、不自由な足では走ることも叶わず。


「辛抱たまらんッ! この場でまぐわうぞッ!」


 初老の男が襲い掛かってくる。

 エレノアは逃げることも抗うことも出来ず、


「きゃっ」


 小さな悲鳴を上げると同時に。

 初老の男に突き飛ばされたことで、彼女が持ち運んできた皿が、床へと放り出された。


「あっ……!」


 割れた皿。

 散乱する焼き菓子。

 それを目にしたことで、エレノアは。


「せっかく、作ったのに……!」


 強い悲しみと失望。

 そして。

 怒りが、込み上げてきた。


「あぁ? なんだね、その目は?」


「……あやまって、ください」


「は?」


「あなたの、せいで……! お菓子が……!」


「ハッ! 何を言うかと思えば!」


 初老の男はニタニタと笑いながら、


「こんなもの! どうせ食えたものではあるまい!」


 エレノアの目の前で。

 彼への想いを込めて作ったクッキーを。

 容赦なく、踏み砕いた。


「あっ……!」


 砕かれていく。

 砕かれていく。


 初老の男が、なんの躊躇いもなく。


 エレノアの想い、そのものさえも。


 砕いて、砕いて。

 踏みにじる。


「っ……!」


 気付けば、涙が零れていた。


 そして。


「ぅ、あ……ぁあああああああああああッ!」


 怒りに任せて、初老の男へ向かっていくが、しかし。


「やかましいッ!」


 頬を打たれた。

 腹を蹴られた。


 か弱いエレノアには、初老の男をどうこう出来るほどの力さえ、宿ってはいない。

 だから。


「っ……」


 押し倒されて、下衣を無理やり、脱がされ、


「おいフールマン! こいつが暴れないよう、しっかり抑えておけ!」


「はいはぁ~い。了解でやんす、お客様ぁ~ん」


 踏みにじられる。


 想いを形にしたそれだけでなく。

 想いそのものだけでなく。


 自らの尊厳すらも。


「ふふふふふ。そそる顔をするじゃないか……!」


 あぁ。

 もう、嫌だ。


 ここから先に進むぐらいなら。

 舌を噛み切ってしまおうか。


 エレノアがそんなことを考えた、次の瞬間。

 荒々しい足音が、耳に入る。


 果たして、それは。

 待ち望んだ少年が、響かせたもので。


 その姿を目にすると同時に。

 エレノアは滂沱の涙を流しながら、彼の名を呼んだ。



「ア、アルくんっ……!」

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