エピローグ

 メテオールの朝は遅い。

高山に囲まれた川沿いの町の日の出は遅く、日の入りは早かった。

 初夏に咲く美しい赤い花。

 かつてこの地を訪れた人と同じ名の花が、朝露を含み、日の光を浴びて、キラキラと輝いていた。彼らの面影も思い出せない程に月日は重なった。

 ダリアは一等速い朝の手紙を配達員から受け取った。

見慣れない封筒と切手。差出人は不明だ。ダリアは好奇心に負けて家に入る前に封を切った。その文面にダリアは息を呑んだ。

 ダリアは未だに眠る父親を叩き起こし、朝食を摂る妹を部屋へ引っ張った。

「父さん、ミモザ! 急いで支度をして!」

「どうした、何事だ!」

「ああ、父さん。だから礼装は買っておこうと言ったのよ! ミモザは私のお下がりでいいわね?」

「やだやだ! 私青いのがいい!」

「だめよ、あのドレスは冬服でしょ? 汗をかいて、じんましんが出たらどうするの?」

「どうしたってんだ?」

「私のモスグリーンのワンピース貸してあげるから」

「やったあ!」

 大きいとは言えないクローゼットから次から次へと服を引っ張り出して、あれでもない、これでもないとベッドへと放り出す娘に、ライナスはついていけなかった。

 これからどこかに避難しようとでもいうのだろうか。

 茫然としている間に娘はトランクに荷物をぎゅうぎゅうに詰めて、戸締りをし始めた。

「隣町まで出て、夕方の汽車に乗れば間に合うわ! ミモザ、荷物は私がやるから、エレーナおばさんにご挨拶してきて。しばらく家を空けるからって」

「うん!」

「勝手口から入っちゃだめよ!」

「おいったら!」

 ダリアは慌てているのではない。興奮しているのだ。

「今日の夜までにはザティーレにつかなくちゃならないのよ、父さん! 今日こそ自慢酒瓶を持って行かなくちゃ!」

 紅潮し、うきうきと弾む娘のその様子に、ライナスは首を傾げるだけだった。

「な、なにがどうしたんだ?」

 彼はまだ知らない。

 三年前に憎み別れた、敵国から逃れる白い子どもを連れた兵士二人。

 彼らが明日、神の元で祝福をされることを————。



 カーン カーン カーン

 昼時を告げる鐘が鳴る。丘を超え、森にまで届いた。

 今年の冬は特に冷え込むと白い冠を被る山が教えてくれている。

 秋の乾いた空気が、カラカラと枯葉を鳴らす。

「おうい、セタ!」

 遠くから聞こえる声に、小麦色の髪の男は反応し遅れた。仕事をサボり景色を眺めていたなんて言えるわけがない。ひょっこりと小屋からを出した、白い無精髭を生やす老人は、また声を上げる。

「セタ、お前宛に電話だ!」

 もたれていた切り株から腰を上げ、セタは小屋へと駆ける。

「残念だったな、男からだぞ」

と茶化す老人ローウェンは、かっかっかと笑いながら小屋を出た。

「ローウェンさん、あと丸太四本頼みますよ」

「何だと、ご老体を何だと思っているんだ」

文句を垂れるが、セタは静かにしてください、と注意すればブツブツと呟き丸太に斧を振り下ろした。

 セタは電話の相手に懐かしき故郷の言葉で話した。

「久しぶりだな、セタ」

「ああ」

電話の相手はかつて若い一兵士であった。ランディ・ポートマンだ。

「中佐殿は相変わらず忙しいみたいだな」

「今は准将だ。遠征があってしばらく国を空けていたからな」

 あれから七年の月日が過ぎたのだ。

 海の神殿で、全ての逃亡生活が終わりを告げた日。何もかもが許された日。

 セタは未だに夢の中にいるのではないかと思える時がある。

 しかし眠った時に見る夢でさえ、あんな日を見させてくれることはなかった。

 ランディはあの後、怪我をした兵士たちとヘミスフィアへ帰還した。実に数年ぶりの帰郷である。片腕、隻眼という軍人のハンデを持ちながら、ランディは数年で随分と出世をしたらしい。と言っても、彼は度々こうして近況をセタに報告する。かつて敵対し、命を狙い狙われていた仲であるとは、他人は知る由もないだろう。ほんの少しだが、シャルル と話している時の感覚に似ていた。

「二階級特進とはな、殉職したみたいだ」

「冗談はよせ」

「悪かったよ。ま、若いくせに出世ばかりしていると目をつけられるぜ、せいぜい気をつけろよ」

「ああ」

 それからランディは、今のヘミスフィアの現状を語り、電話を切った。

 七年で全てが変わった。

 長年の戦争はとうとう終戦を迎えた。

 「ヘミスフィアの外交官———」「停戦に向け平和主義———」「東州並びに同盟国による積極的な平和活動———」「停戦を訴えるヘミスフィア内の青年たち———」

 月日は重ねに重ね、巡りに巡った。

 新聞やラジオでは、表面的な、いわゆる世間体の中身のない情報だけが流れていく。

 本人は口に出さなかったが、彼が今、出世頭にあることからもわかるように、終戦に向け尽力したのだろう。一人ではなく、同士と共に、だ。

 逃げ出した自分たちにはできることではなかった。

 しかしランディ本人には礼の一言も言えていない。彼本人も必要としていないだろう。彼は自分の為に。自分たちの国の為に動いたのだから。

「セタ! 昼飯行ってこい! ついでにほれ」

 ローウェンはあっという間に丸太を薪にしてしまった。そして酒瓶をセタに投げた。

 古びたコルクではあるが、わずかに香るそれは、上等な葡萄酒であることがわかる。

「どうしたんですか、これ」

「はは、いいだろう! 今年の葡萄酒の出来が良かったからな。聖樹祭の前に手に入れたのさ、なくなるからな。ジーナさんと飲んできな」



 七年。

 私の髪は腰まで伸びた。

 淡く優しい色の服を着て、毎日早起きをして朝食を作っている。

 握るのは重く冷たい銃ではなく、細く暖かいジーナの手だ。

 あの日、私たちは白の神殿を去った。

 傷だらけになり、古びた病院で数週間を過ごした。いくらか回復し、歩けるようになった時、ひどい脱力感に襲われた。どこに行けばいいのか分からなくなったのだ。

 ただ一つ。

 ロゼには後悔があった。

 ある人に悲しい思いをさせたことだった。シャルルとの死に別れのような時の喪失感にも似ていた。

 雲一つない晴天の下、三人は歩き、ただ会いたい人の元へとゆっくりと進んだ。

 消えない後悔、そして会いたい人がいる。

 彼女はまるで戻ってくることがわかっていたようだった。「おかえり」と優しく笑って、そして泣き崩れた。嬉しくて泣いてくれたのだ。

 ロゼは張り詰めていた体の力が抜けて、ジーナと共に泣いた。

 それからジーナは三人を家に迎え入れてくれた。

 無茶をして怪我をしたことを叱り、また戻ってきてくれたことにありがとう、と言ってくれた。お礼を言うべきは私たちなのに。

 セタは山で荷運びや伐採をし、ロゼはジーナの家でひたすら家事を覚えた。洗濯物のたたみ方、食べやすいように小さく野菜を切るコツ、埃を綺麗に拭き取る掃除の仕方。

 ジーナは根気よくロゼに教えてくれた。出来の悪い娘ができたと言ってくれる。

 季節は巡り、二度目の冬を越えた頃。ロゼは家から出られなくなった。それは女性に生まれた者にとっては喜ばしい不自由さだった。

「ロゼ、お昼にしましょう」

 ジーナは出会った頃よりも元気に、そして若々しくなったように見えた。

「はあい」

 昼時を告げる鐘が鳴る。

———シャルル、お前にもこの幸せを知って欲しかったよ。

 


 鐘が鳴り、席を立つ。

 静かだった教会は、子どもの声で騒がしくなった。

「おい、後でな!」

「腹減った! 夜になったらいつもんところな」

一番前の席で神父の話を真剣に聞く白髪の少年に、数人の少年が声をかける。

「うん、今度はマッチちゃんと持ってきてよね、ディック」

「わかってるよ! じゃあ、あとでな、フィン。遅れるなよ!」

 ツンツンとした黒髪の少年ディックは、フィンの頭にチョップした。マールとエリックはふざけながらそして生徒をかき分けて教会を出て行った。

 生徒はあっという間にいなくなる。

 今日は鎮魂祭だ。

 授業はお昼まで。

 あれから七年。フィンは十二歳になった。変声期を迎え、声が低くなった。背も随分と伸びたし、力もついた。セタとロゼは名をそのまま、だが北の人間であることは口外しなかった。

「帰らないのか、フィン」

 さっきまで生徒の前で歴史について教鞭を取っていた神父が、フィンに声をかけた。

セタはひどく彼を毛嫌いするけれど、フィンはこの神父が好きだった。

「カルヴィン神父」

 フィンは教会の真ん中にある、女神の像を見上げた。

「どうした?」

 彼は数年経っても姿が変わらない。男性なのに髪を長くして綺麗にしているし、相変わらず丁寧な語りをする。

「ヘミスフィアってどんなところ?」

 セタとロゼが服用した薬は、二人の体に大きな後遺症を残した。

ロゼは右手が石のように指一本も動かせない。

セタもまた、視神経に障害が出た。時々、目の前が真っ暗になるのだという。

「二人はそれを受け入れているんだろう?」 「うん」

 セタとロゼは神経を麻痺させる薬を服用し、あの日戦い生き延びた。生き延びて、今を生きていて、例え腕や光を失っても、それも本望だと。

「ランディも同じこと言うんだ」

「噂の軍人様か?」

「うん」

「大人ってのは大体そういうものだ」

 治してもらおう。

 フィンは幾度となくカルヴィンに告げた。しかし肝心の二人は「これでいい」と嬉しそうに言う。だから、フィンもそれ以上言葉を繋げない。

「新聞で見たんだ。写真だけど」

 悲惨なものだった。

「あの国は、戦争がなくても人が死んでいく」

「そっか。二人は僕に綺麗なものばかり見せてくれていたんだってわかったんだ」

 フィンはかつての日々を一つ一つ、大切に思い出す。

目覚めた時、フィンにはもう特別な力はなくなっていた。

視覚も聴覚も常人と同じになった。斥力はあの日あの海の中で失った。

どうしてだろう。

きっとシャルルさんが最後のプレゼントをくれたのかもしれない。普通の人生を歩ませてくれるような、奇跡を。

「カルヴィンには、先に言っておくよ」

 フィンは教会に響き渡る大きな声で叫んだ。

「今度は僕が二人を守る」

「そして僕はいつか二人の故郷に、僕の生まれた国に行く。僕が大きくなった頃には、二人も戻れるような国になっているよね?」 いつまでも幼い、白く美しい夢。

「ああ、そうだな。連れて行ってやれ」

 


 ああ、今日は目の調子がいい。

 だが倒れたら面倒だから暗くなる前にさっさと帰れとローウェンは乱暴に言う。適当なのか心配してくれているのか分からないが、きっと両方だ。

 セタは家路についた。

 鉈を置き、ジーナの家の前で一服する。

 この一服というのはタバコではない。単なる休憩だ。タバコはあの日以来吸っていない。

 その理由は———。

 ドタバタ家の床を揺らす音、そして叱る声。

「服を着なさい!」

「ヤダ!」

「ヤダじゃないわよ! こういうところ本当にセタそっくりね!」

「サラ悪くないもん!」

 タオルに包まれた小人とそれを追うロゼ。小人は水を滴らせ、タオルの下は裸だ。いやかぼちゃパンツだけは履いているようだ。一方のロゼはワンピースの袖を洗濯バサミで抑え、頰を紅潮させている。

「サラ、ロゼが困っているだろ? 服着なさい」

 戸を開け、靴の泥を落としながらセタは小さく叱る。

 しかしタオルの小人は首を横に振る。

 そしてまたロゼと追いかけっこをし、テーブルの下を走り回る。

「あらあら。またやってるの?」

「ジーナさん、サラを捕まえて! この子また泥んこになって遊んできて!」

「サラお風呂嫌い! スカートも嫌いだもん!」

 サラは隙を見て玄関へ走った。小さい体でドアノブを動かし外へと転がり出てしまった。

「サラ!」

 ロゼは声をあげて追いかけるが、それをセタが制した。

「俺が行くよ」

 セタはロゼの頭をぽん、と撫でた。ロゼは子供っぽく口を尖らせ、任せたわ、とつぶやいた。

 サラはタオルに包まれたまま、木に登っていた。

 何と器用なことをするのだ。

 そして数メートルはある木の上にまで上がり、木の上で座り込んだ。

「やれやれ」

 このじゃじゃ馬は誰に似たのだろうか。セタはため息をつきながらも、少し微笑む。

「あれー、サラどこに行ったんだろうなあ」

 わざとキョロキョロと見渡した。

「どーこかなー?」

すると、サラは木の幹を伝いするすると降りてきた。

「サラ、ここだよ」

 サラはセタのズボンの裾を引っ張った。

「やあ、よかった」

 サラはセタが見えていないと思い、しょんぼりとしている。

「サラのこと見えてる?」

「ああ、見えているよ」

 セタと同じ小麦色の髪。ちょっと髪のクセがあるのは子供だからか。そしてロゼとセタと同じ若葉色の目。

「よかった」

 にしし、とイタズラっぽく笑う顔。

 タバコをやめた理由は、一つの命だ。


丘を登る。

帰る場所へ。

サワサワとなる草を踏みしめ風を浴びながら。

振り返れば、これから生きていく世界の色。

雪を被ったままの山、風に流され速くはしる雲。

遠くに見えるブドウ畑、教会。 


「おかえり! フィン!」

 我が家から飛び出してきた小さい子ども。フィンは腰に飛びつかれ、受け止められず倒れてしまった。

「わ、サラ!」

にししと笑う幼い家族。

 そして、彼女と同じ若葉色の目の、大切な二人。

「フィン、おかえり」

「おかえりなさい」

 フィンはサラを抱えてジーナが待つ家へと向かう。

「ただいま!」


逃げ続けた先にあったもの。

後悔と絶望と、そして一つの幸福。

これが、僕の。

僕たちの————。


————逃亡の記録の物語。


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逃亡見聞録 白野 大兎(しらのやまと) @kinakoshirakawa

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