白の神殿(12)
殺意だった。
ロゼに刃が向けられた瞬間、フィンの腹の底から冷えた。包んでいた物が無理矢理剥がされるような。冷たいものを感じた瞬間、それが誰のせいなのかわかった途端、体は勝手に動いていた。
ガーリングに向かった衝動だった。
海の中は酷く冷たい。
男とフィンは海中でもがいた。男はフィンを引き剥がそうと。
フィンはありったけの力で底へとガーリングを押しやる。
ぎしぎしと、体が叫ぶ。
————いなくなれ、いなくなれ、いなくなれ!
ぐんぐんと濃紺の海底に男が沈んでいく。
冷たい青色に、男が飲み込まれ、フィンの目には暗い海底だけが見えた。
これで、もう。
フィンの口からはもう息は出なかった。
喉の中は海水で満たされていく。
ゆらゆらと揺れる水面の光の中に、小さい泡が上っていくのが見えた。
ああ、なんて綺麗なんだろう。
二人にも見せてあげたい。あの夢はこの景色だったんだ。
心臓の音が消えていく。
とくんとくんと鳴る心臓と、さざなみが遠のいていく。
手も足ももう動けない。
それでも、フィンは手を伸ばした。上へ上へ。
アメシスト色の目に映ったのは、果てない道を歩く三人の姿だった。
もしもこの世を変えるそんな力があるのだとしたら、それは特別なものなんかじゃない。こんな力が無かったら————。
そんな想像を何度繰り返しただろう。
*
ここはどこだろう。
遠く遠く空の向こうまで、草が生い茂っている。草原だ。
風が流れて、さわさわと草が鳴る。
晴れた空、浮かぶ雲は風に乗って流れていく。
「セタ? ロゼ?」
見渡しても二人がいない。どこに行ってしまったんだろう。
「ここに二人はいないよ」
男の人の声がした。後ろを振り返ってもいない。
「誰?」
「君の名付け親だよ」
声はまた後ろから。また振り返れば彼はいた。真っ白な服、メガネ。灰色の髪。柔らかい笑顔。ああ、この人は———。
「シャルル、さん?」
「そうだよ、フィン」
初めて語る気がしない。久しぶりに会う友だちのようだった。
笑うと目が垂れる。体はひょろりと細い。
セタたちから聞いたとおりの人だ。
「君を迎えに来た」
フィンは思い出した。海に沈んで、溺れたのだ。体の体温を奪っていくあの冷たさと、肺が潰れていく音がした。
でも今は苦しくないし、冷たくない。
太陽の光が暖かい。風は涼しい。
「ここはどこ?」
シャルルは困ったように笑った。
「僕がここにいるってことでわからない?」
見たことのない場所。二人がいない世界。迎えに来た、今は亡き、二人の友人。
「僕は、死んだの?」
「今まさに死のうとしているんだ」
シャルルは草原の中に立つ一本の木を指差した。青々とした葉を茂らせ、さわさわと鳴らしている、大きな木。
「あの木の向こうに行ったら、もう戻れない」
「シャルルさんは、僕を連れて行くの?」
フィンはシャルルに会えた嬉しくもあり、怖くもあった。だからシャルルに近づけない。
「ああ、そうだよ。僕はフィンを迎えに来たんだ。それが今の僕のお仕事だから」
フィンは下がらない。むしろシャルルに一歩、二歩と近づいた。
乳白色の目に、かつて小さい命を逃すためだけに自分を犠牲にした恩人とも呼ぶべき人がいる。柔らかく笑い、言葉で遊ぶ。この人がどうやって二人と過ごして来たかがわかるようだった。
「僕はずっとシャルルさんにききたいことがあったんだ」
「なんだい?」
風でシャルルとフィンの髪が靡いた。
「どうして一緒に逃げなかったの?」
「どうして僕を逃したの?」
————どうして、
「一緒に逃げる、か。そんな選択肢は考えなかったな。僕は自分で世界を見たいと口ばかりだった」
シャルルは自問自答をしているようだった。
「僕はね、君が大事だったから逃したわけじゃない。あの時、僕の一番はセタとロゼだった。二人を失うことが怖かった。もしも二人を救う力があるのだとしたら、その力を持つ人がいるのだとしたら。フィン、君しかいない。君しか二人を救えない。そう直感したんだ」
「それは、僕の変な力のこと?」
「違うよ。それは君自身の力じゃない。じゃあ逆に聞こう。フィンはセタとロゼが強い人だと思うかい?」 フィンは素直に頷いた。
「どうして強いって思った? 戦う力があるからか?」
フィンは首を傾げた。
「僕が知っているセタは、冷たい男だった。自分の剣術にだけ陶酔し、血に塗れることが至上の喜びだと。ロゼは誰にも関心を持たない人だった。だから仲間が死んでも泣くこともない。いつも火薬の匂いをまとわせていた」
彼らは弱い人間だった。
「君が変えたんだ」
「君自身が二人を強い人へと変えたんだ。僕にはできなかった。それが君の力であり、そして守る力は二人の力になったんだ」
フィンは首を横に振った。答えは知っているんだから。
「僕じゃないよ」
「シャルルさんとの約束を、二人はずっと守ってたから」
———逃げろ。
その言葉を信じてここまでやってきたんだ。ここまで逃げて来られたんだ。
シャルルは指先で小枝をくるくると回している。
そして空を見上げた。風のざわめきに耳を傾け、虚空を見つめている。
「フィン、君に分かるかい? セタとロゼは今、一番苦しんでいる。君を失うという苦しみを前に絶望しているんだ」
彼には聞こえているのだろうか。
聴覚のいいフィンには風が草原を撫でる音しか聞こえないというのに。
————ざああああ
地平線の彼方から訪れた風は、シャルルとフィンの前に吹き荒れる。フィンは思わず目 瞑った。
風が吹いているのに、名付け親たる彼の声がはっきりと聞こえた。
「君はまだ死ぬべきじゃない」
それはまるで————。
「また二人を救ってくれ、フィン。そして僕の代わりに生きて欲しい」
祈りにも近い、願いだった。
風は止まない。草原がまるでフィンの鼓動のように動いている。
「シャルルさん!」
まとわりつく風を払うように、フィンは踏み出す。背を向け、風を割って立ち去るシャルルに、届くように叫んだ。あらん限りの力で————。
目頭が熱くなった。でも泣かない、泣くものか。
「僕、二人が大好きだ! 二人が好きなシャルルさんも!」
シャルルはくるりと振り向いた。
「あはは、知ってるよ! フィン、二人にも伝えてくれ。こっちに来るにはまだ早いってね。俺が待つのはしわくちゃになって年を取った二人さ。笑って泣いて、愛する人を作って———。僕の代わりに君が二人を幸せにしてくれ。そして二人に愛されて大人になるんだ。大人になり、君がまた節目に立つ頃、僕の言ったことを思い出すだろう」
さあ、あとは幸せへの道だけを進むのだ!
風が足元から湧き出てきた。
「ありがとう、フィン。あとは頼んだよ!」
シャルルは笑っている。フィンもつられて笑った。
「うん!」
目の前が真っ白になった。強い、強い光に包まれる。
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