白の神殿(10)
ヴァイスに潜伏していれば彼らは訪れる。
死んだと思われた、まして裏切った兵士が身を隠しながら彼らの逃走経路を確保する準備を整えていたなど予想だにしていなかっただろう。正規の連絡手段通り、クラシック音楽のラジオ番組を使い招集をかけている。その中で流れる三分二十秒のワルツ。目的地までの最短のルートを用意していたことは明白だった。ランディは治療費を差し引き、純銀製の勲章を売り払い、古いチャーターを手に入れるように医者に頼んだのだ。
もうすぐ夜が明ける。地平線の向こうが明るく染まり始めた。日が昇っても二人が来なかったら、行っていいと言われた。もちろん、フィンには聞こえないように、だ。
見つかるまいと、盗んだチャーター船は神殿の死角に入る離れた窪みに停めた。
「ランディ、あれが船?」
「ああ」
柱の陰からこっそりと船を伺う。
波にちゃぷちゃぷと揺れる船。
どうやら兵士たちはいないと見ていいだろう。
「ランディ」
「いいか、俺が先に見てくる。お前はここで待っていろ」
「ううん、ランディ。僕はあの船に乗らないよ」
「何言ってる!」
「セタとロゼってホント忘れっぽいなあ。僕耳がいいんだよ。ナイショ話なんて聞こえちゃうんだからさ」
聞こえていたのか。
二人が夜明けまでに戻って来なければ、フィンとランディだけでも逃げることになっていた。フィンはそれを分かった上で二人を待つというのだ。
だがここでランディも引き下がるわけにはいかなかった。
「先に船に乗って待っていればいい。そうすれば二人が来た時にすぐに出られる」
フィンは船ではなく、元来た道の遠くを見た。その向こうに二人がいるのだろう。
「あの二人のことだもん。喧嘩してここの場所忘れちゃうに決まってる。僕がここで待っててあげる」
フィンは目を細めて穏やかに笑う。
「そんなのんびりしていられないぞ」
そもそも全員で逃げ切れる保証はない。少なくともあの二人が生きていられるのは、奇跡に近いだろう。その二人が元敵であったランディにフィンを託すのは苦渋の決断であっただろう。だからこそ無下にしたくはない。
「ランディごめんね。でももし僕だけ助かっても嬉しくないし。今まで二人の言う事ばっかり聞いてきたんだから、わがまま言ってもいいよね」
ランディは片腕の拳を強く握った。
「この状況で甘ったれたこと言うな! あの二人はな———」
「お願いだよ!」
声も体も震えていた。目からはあふれんばかりの涙が溜まっている。
フィンはよく泣く。けれど泣き虫ではない。育ての親とも言うべき人たちが、今銃弾の雨の中に晒されていると思えば、子どもにとって当然の反応なのだ。
「分かった」
ランディは折れて、フィンをわずかに見やった。
フィンは船を見ている。それも首をかしげて、不思議そうに。
「ランディ、音がする」
嵐の中、潰れた兵士の声を離れた距離から特定できたフィンの聴覚だ。ランディは身に染みてそれを理解している。
「どんな音だ」
そう言われたフィンは、更に難しい顔をした。涙目のせいか、苦しそうに見える。
「カチカチって」
フィンが言い終わる前に、ランディはフィンを担いで屋内へと走る。そして柱の陰へと滑りこむ。その瞬間だった。
船は爆音と爆風と共に弾け飛んだ。
ランディの「伏せろ」と言う声もかき消す大爆発だ。船体の破片が飛び、ランディはフィンを覆うようにしてかばった。
フィンとランディは崩れるようにして爆風を浴びた。わずかな熱にフィンは目を見張った。残る爆風とチリの中、ランディの腕の中からほんの少し見えたのは、炎に包まれながら沈んでいく船だ。
「船が!」
二人が駆け寄った時には、飛び散った船の残骸と、海の底に呑まれていく船体だ。どろりとガソリンが流れて、そこに引火して海の上をチロチロと炎が走る。
誰かが船を爆発させた。
ヘミスフィアの兵士たちの仕業だ。
「くそ、やられた!」
ランディは行き場のない拳を振りおろし、片腕でこめかみを抑えた。
フィンはただ茫然と沈んでいく船の様を見ていた。白亜の船体が、ずぶずぶと姿を消していくその有様に、震えた。
ぶるりと悪寒が走る。
フィンは、考えを巡らせるランディにふと目をやった。
「ランディ!」
黒く太いモノがランディの首を掴まんと、闇から飛び出してきたのだ。
「逃げて!」
フィンの声空しく、ランディの首はその黒いモノに捕えられてしまった。
喘ぎ、呻くランディを軽々と持ち上げる黒いモノ。
ガーリングだ。
「ランディ!」
「動くなよ、小僧」
ガーリングの冷ややかな声に、フィンはびくりと震えた。じわりと染み込む恐怖。心臓から指先までの筋肉が全て固まったように思えるほどに。
「動けばこの男の首をへし折る」
この人だ。
二人をずっと苦めることができるのは、この人しかいない。
草原の上で昔話をしてくれたこと、怪我した時に「よく我慢した」って頭を撫でてくれたこと、長い砂の道を空色の車で、飛べるような速さで走ったこと。どこかの町で聞こえた歌を大声で歌ったこと。
そんな思い出を黒い手で、簡単に握りつぶすことができるのは、この人しかいない。
命だって紙をくしゃくしゃにすることと同じくらい、躊躇うことはないんだ。
「安心しろ。この男は簡単には殺しはしない。離反者には、それなりの罰を与えなければいけない。むしろ褒めてやろう。一時とはいえ、上官を欺いたその度胸を」
ガーリングは口角を上げる。きっと彼の目には自分とランディの苦しむ顔が映っているのだろう。
ランディの潰されかけた喉から絞り出された声。言葉になっていないそれを、無意識のうちに、フィンは拾い上げた。
———手を出すな。
それはガーリングに対してではなく、フィンに向けられたものだった。ガーリングには気づかれていないその声と、目配せ。
ガーリングの手がごき、と鳴る。
次の瞬間、フィンは悲鳴に近い叫び声を上げた。
ガーリングの太い指が、ランディの顔にねじ込まれた。光を映す、目に。
ドロリと頬を伝う赤い血が、背後の海の色に嫌に映えた。
わずかな音でさえも拾えるフィンの耳には、目玉をえぐられた音、血の噴き出る音、そしてガーリングが喉を鳴らして喜ぶ声まで入り込む。
拒絶や恐怖に近い黒いモノが、フィンの腹部へと流れてのたうち回る。そんな感覚に陥った。叫ぶことをままならい小さい子どもは、嗚咽を漏らさぬように口を手で抑え、ランディを見つめた。
未だ首を絞められているランディは、笑っている。苦悶と好機が入り混じった顔だ。
ガーリングよりも小柄なランディの足がするりと、大男の首に絡みつく。
黒い風。
フィンの横を通り過ぎるそれは、血と鉄と火薬の匂いを纏っている。
「あああああ!」
雄叫びと共にそれはガーリングの背に飛びかかる。黒ネコのように身軽なそれは、刀を大男の背に突き立てた。ぼろ布と血を纏い、血を降らせる。
フィンの中で渦巻いていた恐怖は、叫んだ声と共に打ち消された。
「ロゼ!」
安堵で声が上がる。
ロゼは刃を抜き、二手を放とうと大振りにする。しかしその隙に、ロゼはランディと共にガーリングに蹴り飛ばされた。二人は重なりあうようにして石畳の上に、転がった。
負傷しているのにも関わらず、あの大男の蹴りはそれを感じさせない強さだった。
フィンは今すぐにでも駆け寄りたかった。けれど、ロゼたちとフィンの間にはあの男が立っている。迂闊に動けば捕まるのは目に見えているのだ。
ガーリングは刀傷に苦悶の表情など見せず、何事もなかったかのように、ごきりと太い首を鳴らした。銃を両手に持ち、銃口を向ける。
「問おう、ランディ・ポートマン。何故そいつらに手を貸した?」
ランディはロゼに支えられながら立ち上がり、えぐられた目を抑えている。しかし残った目は恐怖ではなく、怒りに満ちていた。
血は頬を伝い、石畳に赤い模様を作っていく。
「何故? わかりきったことをきかないで頂きたい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます