白の神殿(2)
日付を超える時間。満潮になれば、あの穴は海水に呑まれる。それまでにフィンたちがバレッドに辿り着いていれば誰一人として二人を追えなくなる。あの神殿は自然現象に守られた場所なのだ。潮が満ちれば道が塞がり、神殿へは荒れた海を探さなければならない。海岸線から神殿が見えないのは、見えない時期だからだ。波が激しくなる初夏は、岩と白波に紛れて、十数キロ離れた白亜の神殿は目視できない。潮が引き、凪が訪れるという条件が揃わなければ目の当たりにはできない。
どっぷりとした暗闇の浜辺の中で待ち構えるいくつものライフル。その全てが自分に向けられている。
互いに夜目が利く場合、無駄な光など邪魔でしかない。
「おいおい。こおんなにいたのに、たった三人の逃亡者を捕まえられないっていうのは、おかしいな。我が祖国の兵士ともあろう男たちが……」
ざっと見て百数人。
なるほど。これ以上の数で移動していたのなら、すぐに目につく。この時に合わせ、各地でバラバラに捜索していたのを呼び戻したのだろう。
「女子供はどこだ?」
度胸のある兵士がじりじりと近寄り、威勢よく尋ねる。
「さあね」
潮風が麦色の髪をなびかせ、目が手に持つ刃のごとく光っている。
「自分たちで探せ。それがお前らの仕事だろうが」
その含み笑いを、低く唸るのびた声が遮った。
「その必要はない」
兵士たちの輪を外から割って闊歩する大男。葉巻の煙が潮風に吹かれていく。体格の良い長身に偉そうに生やしたひげ。顔に刻まれたしわと細かい傷に、セタは眼を鋭くして嫌悪感をむき出しにした。模範的と言えるヘミスフィアの軍人だ。
コイツが執拗に三人を追いかけまわしていた犯人というわけだ。嫌味にも奴はヘミスフィアの言葉ではなく東州の言葉を使ってきたのだ。
「あんた、何者だ?」
セタの問いに、男は喉を鳴らして笑う。
「私の名はガーリング。貴様には感謝するよ、ハリスの臓器を裂いてくれたおかげで、私にも鉢が回ってきたのだから」
こんな無骨な男がヘミスフィアの軍にいたとしたら、忘れるはずはない。
「今更偉そうなおっさんが出てきても、代わり映えしないぜ。それとも下っぱには任せておけなくて、そわそわして出てきちゃったとか?」
チュン、とセタの頬を銃弾がかすめた。
「汚い口でしゃべるのはあのガキのことだけにしろ、小僧」
血がだらりと垂れた頬を手でぬぐい、セタは再びガーリングを睨む。
「だったらこっちの質問にも答えろ。あんた、誰だ? 何のためにフィンを追う?」
「君の友人の上官だった者だ」
シャルルの上官………?
シャルルが属していた研究所にこんな気迫のある男、しかも軍人が関わっていた?
「もう一つの質問にも答えろ。何でフィンを追う? どうせ俺をここで殺すのなら全部話せよ」
セタは刀を構えた。腰に隠していた折り畳み用仕込み刀も左手に構えた。
ガーリングはにやりと笑う。暗がりでも分かるくらいにはっきりと笑う。
まるで話したがっていたかのようだ。きっとロゼがいたら迷わず撃っていただろう。
「あの子供……。お前は一度も不思議に思わなかったのか?」
セタに銃口を向ける兵士へ待機の合図をして、ガーリングは一歩、二歩とセタに近づいてくる。
「はるか遠くのものが見え、聞こえ、何より物理攻撃を跳ね返すあの斥力。そのすばらしいあの力を二つ三つ持つ超能力者が何人もいるかと思ったか?」
気味が悪いとはこのことだ。この男の目が恍惚としている。
「あの視力はスコープなしで遠方の相手を撃ち落とせる。あの聴力は敵の機密情報を聞き出せる。あの斥力は銃弾をくらってもものともしない。まさに最高の兵器だろう?」
「何が言いたい」
その言葉に、ガーリングは鼻を鳴らして笑う。
「数年も手間を取らせるとは………。あの男、シャルル・レイジアが被験体を連れ出し、研究所内の実験情報を全て灰にしなければ、こんな苦労はしなかった」
セタの中でざわりと血が騒いだ。
「どういうことだ? あの爆発はあんたら軍人が起こしたものだ。シャルルはそれに巻き込まれただけだ」
だらりと嫌な汗が流れた。始まりの真相が語られようとしているのだ。
ガーリングは顎髭をさすり、ゆっくりと瞬きをした。
「我々の任務は貴様ら逃亡兵の命の、矮小なものではない」
「『楽園計画(プロジェクト・エデン)』。大陸平定のため八十五年前に立ち上がった国家プロジェクト。ありとあらゆる科学の知識をプロジェクトにつぎ込む、我が祖国の希望そのもの。無論、秘密裡に始動し存在を知る者はごく限られた軍人のみだ」
セタは歯を食いしばり、笑みを浮かべるガーリングを睨みつけた。
「そう、シャルル・レイジアもその一人」
「私はあの男をよく知っている。研究熱心で、何より計画に積極的だった。あの男がいなければ、子供は胎児のまま死んでいただろう」
「しかし奴はあの夜全てを捨てた。情報、遺伝子の組み合わせ、出生までの成長過程。ありとあらゆる情報を気まぐれで灰にしたのだ。これがどれだけの損失を我々に与えたのか貴様には想像もできまい」
「あの子供、あれは百十八番目。残されたたった一つの研究成果なのだよ」
「楽園計画(プロジェクト・エデン)』の成果は尊い犠牲と過程に生まれた副産物『絶えぬ加護を(アナスタシス)』。あれは役に立っただろう、マクリール元中尉。あれは八十六番目の神経から作られた。しかしその様子ではまだ服薬していないのだな」
「何の、ことだ?」
「その薬の本当の名だ。巷ではGA86と呼ばれているようだが?」
「————な、に言ってる?」
セタは内ポケットを抑えた。情報の洪水にセタの思考は追いつかない。
友人の死も、よく知る薬も、全てふざけた計画に繋がるっていうのか?
「あれは作られたのだよ、マクリール元中尉。最先端たる我らが祖国の科学の知識と技術の結晶。あれが生まれる過程で生まれた失敗作でさえ成果だ。死こそが大いなる恩恵を与えてくれる! もはや薬などただのキャンディだ! あれなどなくとも我らが祖国は勝利する! 最高の兵器を手に入れるのだからな!」
まだ見ぬ、歪んだ勝利に酔う男の姿がそこにあった。狂い笑いをする男の声の中、セタは混乱の中にある、亡き友の真実を拾い上げた。
「——なんで」
セタは目を伏せた。
どんな思いで、お前はフィンを造った?
人間兵器だなんて、お前が一番、心から憎むものじゃないか!
いや、だからこそ。ありとあらゆる情報を——。つまり、シャルルは自分自身もそこに含めたのか?
自分で自分を殺した。
血を流しながら、消えていく命を感じながら満足気に死んでいったシャルル。
フィンを逃がすために自分自身も犠牲になったのだ。
セタは積みあがった百十七人の子どもたちの遺体を想像した。路地裏に積みあがるゴミのように———。
死ぬ必要はなかったはずだ。一緒にあの時逃げていれば。
自分の無知に無性に腹が立った。
何が友人だ。シャルルの気も知らないで、ただ言うとおりに逃げただけだ。
実験に必要な何かを探している———。
あの神父は戯言を吐いたのではない。広大でくだらない構想のための実験に必要なモノ、それがフィンだったのだ。フィンの遺伝子だったのだ!
ガーリングのハンドシグナルで一斉に兵士たちがライフルを構える。
セタは、上官に言われるがままライフルを構える兵士たちを見渡した。
「笑えるな。何のために銃を握っているんだ、お前ら。どうして分からない? どうせあの国は亡びる。永遠の繁栄? 祖国の勝利? ガキ一人を手に入れることで祖国が勝利するなんて本当に思っているのか!」
誰一人彼らは答えない。動揺もしない。
気づかないのだ。くだらない思想に呑まれたままでは、前線に立つのが自分ではなく、幼い子供たちになることを。
彼らはかつての自分と同じ、シャルルに出会う前の自分だ。世界を知らない、ただ引き金を引き、目の前の敵を斬り落とすだけの肉体だ。死の間際にさえ、つぶやく大切な人の名を持たない無機質な何かだ。思考を失い、命令のみ動く。
「我ら祖国がどれほど荒んでいるか。戦力を回復するためにもあの子供は必要なのだ」
「フィンの体から情報を取って、同じような力を持つ子どもを何百、何千と作ろうっていうのか? ふざけるな!」
「何を今更。たかだか一兵士が、窃盗を悔いることのない逃亡者風情が、倫理観を語り説法するな!」
「あまりにも単純で無計画! 祖国がそこまで落ちたと思うと胃が攀じきれそうだ!」
なんと無意味な問答だろう。
こいつらは知らないのだ。子どもが成長するにはどうしたらいいのか。
受精して生まれて、それで「おしまい」ではない。やたら泣くし目が離せない。やっと立てるようになったらちょろちょろと動くし、しつこく訊いてくる。
「話は終わったか、セタンダ・マクリール元中尉。言い残すことがあれば貴様が息の根が絶えるその間だけ、異国に染まったその舌で敵国の神に祈るがいい」
自分の陶酔で煮詰まったガーリングの相貌が光る。
「ああ、そうだな」
セタはふ、と目をつむった。
瞼の裏に浮かんだのは黒髪の女と白い子ども、二人の寝顔だった。
「俺たちのしてきたことは、間違いじゃなかった!」
小さく白い固形物を喉に流し込んだ。
ガーリングが手を下ろす。一斉に引かれる引き金より速く、セタは駆け出す。
広大な白い砂浜に、いくつもの銃声と血しぶきが飛び交った。
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