白の神殿(1)

 その軍服はかつて灰と火薬と泥にまみれ、それを誇りとし、軍旗を掲げる。

 戦場にいる兵士の全てがその色を纏い、引き金を引いた。その全てを覚えている。

 その色も誇りも捨てた過去が今、形となって眼前にある。

 敵に向けてきた銃口の先は全て、三人の逃亡者に向けられていた。

 燃え盛る廃屋の炎が辺りを煌々と照らしている。

「セタ……どうしよう、ロゼがっ」

足をおさえてうずくまるロゼを抱きしめて涙目でフィンは二人の名を何度も呼んだ。

「フィン、大丈夫だ。ロゼはこれくらいなんともない」

「でもっ。血が」

 今まで見てきた中で一番の出血だ。

 しかも撃たれたところが悪い。左肩を貫通している。フィンの手前だからか痛みに耐えてはいるが、喘ぐ声が苦しみをひどく訴えている。

 指では数えられない、名も知らぬかつての同士が祖国の言葉で警告をする。

「刀を捨てろ」

嫌な汗が体にはりついた。

「捨てなければお前ではなく、女を撃つ」

 セタは指先を緩めた。

「妙な真似をするな!」

遠くからの銃口はセタではなく、フィンに向けられている。フィンがロゼにすがりついて泣き叫んでいるのだ。しかしその動作は抱きつくというには確かに妙であった。

 その行動に意図に気が付いた兵士の一人がフィンめがけて発砲した。

しかしフィンが見ている間では、物理的攻撃は全て無効になる。

放たれた銃弾は全て弾かれる。

「化け物!」

それを合図に降り注ぐ銃弾の雨。

 セタはフィンの手から握られたモノ奪い取り、栓を歯で抜き取ってそれを投げた。

 重みのあるそれを、手榴弾だと気が付いたとしてももう遅い。それは弧を描きながら、兵士の群がる砂の上へ落ちた。

 兵士の顔を見ることなく、セタは二人を抱えて走った。無数の叫び声とそして、辺り一帯に広がる爆発音。

「———フィン、来い!」

 爆風で舞い上がる砂の中、無我夢中でセタは走った。生ぬるい風が背中を押す。

 まだだ。手榴弾程度の爆発では半分も殺せてない。爆発から逃れた数人の兵士を斬り捨てて、刀を口にくわえて足を速めた。

 賞金稼ぎの奴らみたいな雑魚とは違う。訓練を重ねてきた奴らだ。まともにやっても勝算はない。

 汗ではないどろりとしたものが、肩から背中がべっとりと湿っている。それがロゼの血だと分かると一層足が速くなった。

———浜辺の東には小さな洞窟がある。

 その声がふと蘇った。砂浜を超えた先にある岩肌ばかり。引き潮の時に現れる洞窟があると言っていた。そこは東海岸のバレッドへと続く道だ。

 シャルルは繰り返しロゼとセタに話した。

 覚えていたのはきっと、出会ってすぐに話したことだったからだ。清潔でない壊れかけのベッドで、包帯なんてないからそこらにあった衣服で出血したところはくくりつけられた。戦場を離れてもなお頭に響く銃弾と同士の叫び声の中、奴の声が聞こえた。おとぎ話を信じている子どもみたいにずっと話していた。

 そうだ。目を覚まさないロゼとセタの簡易ベッド間で、シャルルはずっと話していたのだ。

 初めは奴の無神経さに腹が立った。医療学生であることをいいことに、戦場に出ず、ただ布を巻くだけのそいつ。自分は横たわって、体は動かないはずなのに、目をつぶればひたすらに走って、血肉を削る感触を確かめられた。

 だからだろう、憎らしいほどのアイツの話は、次第に羨望に変わっていった。銃を持つより、刀を振るうより、星や草木の名前、知らない国の逸話を知っている方が、ずっとずっと新鮮で、違う世界を生きているみたいで羨ましく、モノトーンの世界にただ一つ色がついたようだった。そして話の最後にはいつも『行ってみたい』と呟いていた。

 崖下にぽっかりと空いた幅二メートルもない穴。落とし穴のようにほぼ垂直に掘られているようだ。この場所を、シャルルは知っていたのだ。

 暗くてどこまでの深さかも分からないそこは、小さい子どもが怖がるのに十分すぎるほどだった。しかもその洞窟は、黒い岩礁のような岩石でできている。転びでもしたら擦り傷ではすまないだろう。満潮ならばすぐに海中に入ってしまうその穴は海水でまだ湿っていた。つまりこの空間は潮が引いた今しか生まれない。

——シャルルは、この場所を知っていたのか?

 フィンはちらりとセタを見たが、セタは追手を警戒していた。異常なほどに緊張している、焦りと緊張が入り混じる揺らぐ瞳に、これから起こりうる恐怖を想像した。

 フィンはまた穴と向き合った。

「フィン」

セタに促され、フィンは穴に足をかけた。崩れた岩が穴の奥へと引きずりこまれるように、音を立てて落ちていく。フィンは小さく息を呑んで穴の凹凸をつま先で確認しながら側面にしがみつく体勢で下りていった。三つ四つと足をかけていくうちに、側面がはしごのようになっていることに気が付いた。これなら順調にいけそうだ。降りようとする最後まで辺りを警戒しているセタは、肩のうつぶせになっているロゼを抱えたまま穴へと入った。

 穴は完全に垂直ではなくわずかに斜めで割と下りやすくなっていた。だが油断をして手を放してしまえば頭からひっくり返って硬く黒い岩に打ち付けてしまう。

 サササッと穴の周りを這いずり回り、足や指を這う何か。海の虫だ。気味悪く見えない分、背中が凍りつくような寒気がする。声をあげそうになっては、距離を置いて下りるセタを見上げる。片手はふさがっているのにも関わらず、フィンと同じペースで下りてくる。

「——セ、タ」

 二度目の寒気。得体のしれないそれがカサカサと辺りを這っているのだ。セタの名を呼んでも応えない。

 むしろその沈黙が速く進めと促しているようだった。

 湿った潮の匂いが一層息をし辛くさせる。

つばを呑みこんで、つま先でつついて足場を確かめた、その時だった。

「うわっ」

足場が崩れふわりと体が浮いた。ずるりとこすれる音が遠のく。

 一瞬頭が真っ白になった。

そして耳元で風を切るような音がして、左手が暖かい何かに掴まれる。

ぶらん、と宙吊りになったフィン。見上げれば、セタがしっかりとフィンの手を握っていた。しかも刀を岩に突き刺して支えて、ぐったりとしたロゼを腿で持ち上げていた。

「セタ」

刀一本で自分を含め三人を支え切るセタの表情は良いものではない。放すまいと必死に持ちこたえている。しかし細い刀剣が人三人を支えても長く持つわけではない。このままでは底が分からぬ穴にこのままでは吸いこまれてつぶされる。この状況では追手に殺される前に死ぬ。

「フィンっ」

もはや腕は伸びきり、セタは持ち上げることすらできない。何より人一人抱えて走り、その状態でこの穴を下りているのだ。油汗が流れ、セタは声を絞り出した。

「小石を投げろっ、何でもいい、早く!」

「え、どこに」

「下だ!」

手を側面に伸ばし、指先で何とか岩に触れる。早く、そしてセタの負担になるべくならないようにそおっと伸ばす。取れたのはどんぐり程度の小石。

「いくよ」

「ああ」

視界から遠ざかる小石は数秒経ってコロリ、と音を知らせた。耳を澄ませたセタは、

「十二メートルってところか」

溜息まじりに呟いた。セタはわずかにフィンの手を緩めた。

「セタ、大丈夫だよ」

「馬鹿いうな」

手を放して、と言う前にセタはそれを遮った。また手に力がこもる。

 刀が外れてしまう。

 生ぬるい液体がぽたりと額に垂れた。汗ではない。ロゼの血だ。気を失っているロゼの血が垂れたのだ。

「フィン、舌噛むなよ!」

セタはわずかな足場を蹴り上げる。三人の体は重力を失ったかのようにふわり、と浮いた。返事をする間もなくセタはロゼとフィンを両腕に抱え込み、刀のつばを足に引っかけた。

「わっ」

 刀を平行にして足をその上に乗せる。

ガガガガっという岩を削る破壊音とともに、バランスをとりながら勢いよく下っていく。

落ちる、落ちる、落ちる!

トロッコに乗るよりも激しく揺れ、さながらロープの切れたエレベーターの浮遊感だ。

 底までの距離を知るために小石を投げたのだ。わずかに笑みを浮かべるセタの横顔を見ながらそんなことを考えた。

「でっ」

軽かった体が急にずしりと重くなり、舞い上がった髪がばさりと下りた。ぐしょりと泥と水のつぶされる音がする。

 底についたのだ。

「ふう」

セタはようやくいつもの飄々とした表情に戻った。

 冷や汗がどっと出て、走ったわけではないのに胸が速い。

 セタはフィンを下ろし、ポケットからライターを出して火をつけようとするが、オイル切れのようで、火花ばかりがカチカチと出るだけ。

「ちっ、やっぱり買っておくんだったな」

 有り金は全て武器に投資してしまったのだ。

 すると今現れたかのように巨大な横穴がぽっかりと空いていた。まるで三人を誘うように待っていたように続いている。

「行くぞ」

ロゼを背に抱え直してセタは進む。それに続いていつものようにフィンもついていく。

 黒い岩礁は光に照らされ、海水の含んだそれはてかてかと艶を帯びていた。

 フィンはロゼの傷跡をしっかりと見ていた。

 やわらかい肌に黒ずんだ血の塊がロゼの体の中から這い出てくる。別の生き物がロゼの体に居座っているようだ。

 額から流れる汗を袖でぬぐう。

 唇は紫色で息も荒い。

 ロゼは依然目を覚まさない。

「弾は入っていない。貫通したみたいだな。応急処置しかできないが。まあ、いつも応急処置だけどな」

 血の塊を丁寧に拭きとって清潔な包帯で巻く。そんなことはできない。

 傷口を裁縫用の糸で縫い、ロゼの上着を止血がわりにきつく巻くだけだ。

 肩を撃たれただけかと思ったが、ろっ骨近くにも銃弾で撃たれた後があった。それを見つけたセタは自分の服の袖をちぎり、丁寧に巻きつけた。

 ロゼの体は決してキレイなものだとは言えない。アザはもちろん、火傷と切り傷が腹部付近にあるのは目立った。さっきの騒動で傷口が開いたと思われるものもある。

「気づいてやれなかったな」

セタはそう呟いた。

 そしてロゼを一瞥すると、しっかりとフィンを見た。緑色の瞳に吸い込まれるようにフィンは魅入った。鮮やかな若葉色は朝露を含んだ新芽のようだ。オレンジ色の懐中電灯に照らされているからか、瞳が潤んでいるように見えた。

 儚く切なげでどこか嬉しそう。その目をフィンは知っていた。ジーナと同じ目だ。

 フィンはそんなセタの目にざわりと不安がよぎる。何かをあきらめたかのようで。

近づいてくるセタをフィンはただ見ていた。

「フィン」

いつも以上の時間。流れる時間を楽しむようなセタ。呼びかけたセタに、フィンはあえて応じなかった。

「今から言うこと忘れるなよ」

セタは懐中電灯をフィンに渡し、フィンの両手ごと包んだ。大きくて暖かい。細かい古傷が浮き上がっている男の手である。

「このまままっすぐこの洞窟を進め。そしたら四つの出口があるはずだ。だけどそれに惑わされるなよ。また横穴があるからそっちを選べ。この洞窟よりも狭いからよく探せよ。

そこをずっと進め。どこまで続くか分からないが、でかいバレッドがあるはずだ。そこでロゼと待っていろ」

 じゃあ、セタは? セタはどうするの?

 言葉に出なかった。不安な気持ちだけが目に映る。代わりにセタは小さく笑って、フィンの頭を撫でた。

「いいか。相手は確かにごっついおっさん共だが、お前みたいな子どもをすぐに射殺することはないはずだ。だから逃げ切れないと思ったらすぐに降伏しろ」

「こうふくって?」

「そうだな。手を上げて、その人たちの言うことを聞く。攻撃はするな。逆らうな。たとえロゼが殺されても、だ」

 セタの言葉に、フィンは頷かなかった。

「いいな」

 念を押してもフィンは頷かない。目も合わせなくなった。

「ロゼを頼むよ」

それについてだけ、フィンは頷いた。

「………」

「………」

 天井から垂れる水がピチョン、と水たまりを作っている音がする。

 二人の間には長い静寂が流れた。懐中電灯のオレンジ色の光がチカチカと不安定だ。

「フィン」

セタは沈黙を破り、困ったように笑った。

 立ち上がると同時に、フィンは俯いたまま飛びついた。足場が安定していないのに飛びつくものだからセタはよろめいた。

「ど、どうした?」

鼻をすする音がした。フィンは泣いているのだ。

「フィン」

 フィンは分かっているのだ。今からセタがしようとしていることを。

「フィン、俺は」

「どうして!」

今までにない大きい声だった。強く重い、全てをぶつけた声だ。うわん、と洞窟内に響く。ただ驚いてセタは返答ができなかった。普段大人しいだけにこんな声を出せるとは思っていなかったのだ。

 フィンは涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げた。わずかにセタは目を細めた。

「フィン」

「どうして? 一人であの人たちと闘うの? そんなことしないで、一緒に逃げよう!」

わんわん泣くフィンに「そうだな、できれば俺もそうしたいよ」と告げ、「でもな」と続ける。フィンの肩をそっと離した。小さいフィンの肩は本当に折れてしまいそうなほど脆い。雪のように白くて無垢だ。

「あいつらはすぐにここに追いつく。誰かが囮にならなきゃいけない。ロゼが俺と同じ立場でもきっとそうする」

 フィンの大きな瞳に若葉色の瞳が映る。

 セタの脳裏によぎったのは、数年前の友人との決別。

「逃げ続けた代償だな。ここで落とし前つけなきゃいけない」

 セタはフィンから離れ、壁にもたれるロゼに近づいた。

「起きろ、ぐーたれ」

 そして頭を叩いた。

「いたい」

 掠れた声で、揺れる頭を押さえながらロゼ目を開けた。

「腹と肩に穴空いても歩けないことないだろ?」

「血を流し過ぎた。クラクラする」

「泣き言は聞きたくないぞ」

「うるさい」

ロゼの目はうつろで、言葉を発する度に顔を歪めた。

「てき、はどうした?」

「…………」

その質問にセタは答えず、もと来た道を戻った。彼の背にあるのは、愛用してきた刀一本のみだ。

 かつん、かつんと石を踏み潰していく音だけがした。

懐中電灯の光が届かなくなった。

その時、フィンが自分を呟き呼ぶ声がした。空耳かもしれないし、幻聴かもしれない。

それでも振り返ることはなかった。

そして何故かふっと笑みがこぼれた。

シャルル、俺は自分でも幸せ者だ。こんな時代に生まれておきながら、こんな生活を強いられておきながら、着いてきてくれる奴がいた。俺の身を案じてくれる奴がいた。

それだけで十分だろ?

戦う前に自分の人生について語るなんて縁起でもないかもしれない。それでも今、本当にそう思ったんだ。

俺の「しあわせ」はたとえ手足ちぎれてでも守りたい奴らがいることだ———。


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