嵐の森と負傷兵(7)
日も沈み、太陽を浴びてカラカラに乾いた薪をしまって、洗濯物を取り込んだ。こ
夕日を浴びた丘にわさわさと涼しい風が走る。目を瞑って深呼吸すれば日の浴びた草の匂いが鼻孔をくすぐった。近くに水辺は見当たらなかったが、蛙の鳴く音が窓越しから聞こえてくる。丘を下って行ったあたりに大きな池があるという。
夕食を食べ終わり、フィンは日没と共に眠りについた。ちょっとやそっとでは起きない深い眠りだ。組み立て式のベッドを置いた寝室からフィンの寝息が聞こえてきた。
夜は涼しい風が吹く。小窓を少し開けるとふわりとカーテンを揺らして夜風が蛙の鳴く音と共に通る。野宿に慣れているフィンにとってはそれが心地いいのだろう。
フィンが眠りについた途端、ロゼは視線をセタに向けた。
彼女が何を言いたいのかはっきりと分かっている。フィンが眠りにつくまで待って、待って、とうとう限界がきたはずだ。
嵐の森の中で何があったのか。
「さあさ、そんな難しい顔してないで、紅茶でも飲みましょう」
夕食の後片付けを終えたジーナは紅茶の入ったポットを持ってきた。
ジーナがいたのでは森であったことを話すのは気が引けた。
それを感じ取ったのか、ロゼは大人しく引き下がり、ジーナに愛想よく礼を言った。
この生活を夢だとするならば、現実には引き戻されたくない。単なる逃避にすぎないが、まだ味わっていたいのだ。この普通の人間に与えられる温かい空間と時間を。
部屋の明かりは消されてテーブルにあるランプだけになる。昔、シャルルが目を盗んで闇市で手に入れた他国の写真集に似たような色彩があったはずだ。
ぼんやりとした明かりを灯すランプ。空色のテーブルクロスの上にあれば、遠い昔の写真を想起させてくれる。何十年も前、戦前のヘミスフィアには昔ながらの風習があった。血生臭くなく、銃器の音も戦闘機の影すらもない、まだ川に魚が泳いでいた頃のこと。ロゼやセタの親が生まれるよりも前のこと。
シャルルが見せてくれた本には、夜の大河に火のついた蝋燭を何百と流して、海にたどりつくまでその火が消えるのを皆で眺めるのだとか。昔の技術で、蝋燭の火はオレンジだけではなく、青白いものから緑や紫まであった。それはまるで空にある天の川をひっくりかえしたようだった。写真で見ただけでも飽きることなく眺めていたのだから、本当に見た人は一生忘れることはできないだろう。六年に一度、死んだ人を悼むためのもの。
ジーナはマグカップに紅茶を注ぎ、そこにたっぷりのミルクをまぜた。
紅茶なんて品のいい飲み物はヘミスフィアにいても飲む機会はない。腹を壊すか壊さないかの水道水を飲んでいたのだ。
「あちっ」
優雅に飲むジーナと違い、普段の二人の飲み方はほぼ一気飲みかラッパ飲み。上手にすすれずに、何とか溢さずにカチャカチャと音を鳴らして飲むのが精一杯だ。二人は同時に口からマグカップを離した。
「そういえば、セタさんの服の袖に血がついていたんだけど、怪我でもしたの?」
ジーナは心配そうに見つめるが、向かいのロゼは疑いの目を向けている。
「フィン君の服にもついていたのよ。でもフィン君は怪我してないって言うからてっきりセタさんの血がついちゃったものだと」
ここで白を切るのは至難の業だろう。そうすればジーナはやせ我慢していると思うだろうし、ロゼは戦闘があったのだと解釈する。
「言え、セタ。私たちに何を隠しているんだ」
ロゼの目は獲物を狩るそれだ。このままでは頭から紅茶をかけられそうだったので、セタは一息ついて口を開いた。
「この話を聞いたらお前怒るぞ。絶対に怒らないって約束できるか?」
ロゼは渋々頷いた。ジーナは二人を交互に見て不安そうに見つめている。
「俺がフィンを追いかけてかけつけた時、岩の下敷きになっていた男を助けようとしていた。その男は左半身が潰れかかっていて、腕を切断しなけりゃならなかった。そんで俺はフィンの要望どおりに腕を斬って、傷口を縫い合わせた。正確に言えば、中の骨を削って皮膚を繋いだ」
ロゼはしばらく考えて、真意に気づき、目を大きく開いた。
「その男は奴らだった」
「——っ! お前、そいつを逃がしたのか! しかも手当をしてやっただと!」
イスから立ち上がり、ロゼの語調は一変した。
「お前さ、さっき怒らないって約束したばっかりだったろ?」
やれやれと呆れた溜息をついたセタに、ロゼはぐっと言葉を呑んでふてくされながら座りなおした。まだ何か言いたいようだが、ジーナの手前だ。これ以上は彼女を怖がらせてしまうだろう。
「聞き出せた情報もある」
「だが、そいつが生き延びて同士に知らせればここの場所が……」
ロゼの言葉にジーナの表情に動揺が走る。彼女からすれば相当に危険な話であるのだから当然だ。セタはジーナに向き合った。
「俺たちは自国の兵士に追われている身だ。だが他国に手出しは……」
「ちがうわ、私が言いたいのは……」
ジーナは目を伏せて、ゆっくりと話した。
「私が心配しているのはフィン君やあなたたちよ。離れることはないわ。この町には隠れるところはたくさんある」
「無駄ですよ」
相手はヘミスフィア。彼らを前に潜伏することは危険なのだ。
できればセタもロゼもフィンも、この町を離れたくはない。ジーナともう少しいたい。だがちょっとした欲は身を滅ぼすことを、セタとロゼは痛いほど分かっていた。
しかしやはり幼すぎるフィンにとってもこの逃亡生活はあまりにも過酷だ。
「でもたった三人にどうして執着するの? フィン君は子どもだし、あなたたちだって、亡命しただけでしょう?」
「俺たちが逃亡者だからです。あの国はそれを許さない。だからジーナさん、お願いがあります」
躊躇わず、まっすぐと見つめてセタはジーナに告げる。
「フィンを、預かってもらえませんか」
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