嵐の森と負傷兵(2)

 フィンは走った。

 泥水だらけの道を抜け、林に乱立する木の根を超えて。まるで巨大なオオカミが鳴いているかのような風の音。体を持っていかれて幾度か頭を枝にぶつけた。

 もう少しなのだ。声がだんだんと近くなる。

 膝より下は泥でぐっしょりとして冷たい。それでもやむことなく風と雨が吹くものだから、体温はどんどん奪われていく。目の前は木、木、木。走っても、走ってもそればかり。ただ闇雲に走っているだけだ。フィンはそう感じた。

 一人になることはなかった。いつも二人がいてくれた。手を引っ張って、時にはおんぶしてくれた。いつも甘えてばかり。

 けど今は、たった一人。前を行く人も、後ろから見守ってくれる人もここにはいない。

 立ち止まり、辺りを見回した。冬場でもないのに息が白い。

 ぶるりと震える体を抱きしめて、フィンは蹲った。走って、走って肺が痛い。容赦なく叩きつける雨をしのぐ場所もない。

 声がするんだ。今、彼に気が付けるのは自分一人だ。それにジーナの言う救助隊は連れてはいけない。助けを求める彼の言葉は、この国の言葉ではない! 

 ロゼとセタがいた国の言葉だ。

 この国は二人の故郷とは仲が悪い。絶対に会わせたらいけないのだ。

 フィンはまた立ち上がり、耳に届いた声を頼りに走り出した。もう寒い、冷たいというよりも痛い。

 どこまでも続く森の中を、フィンは走った。よろめきながら、つまずきながら。

「うわっ」

とうとう足がもつれて地面に倒れこんでしまった。泥水が体全体にべっとりとついてしまい、右の膝小僧は服の中であるにも関わらず、ずるりと皮がむけてしまった。じわりと赤い鮮血が服に染みこんでいく。

 激痛で顔を歪めても、フィンはまた走った。右足に力が入らずひょこひょこと不安定な走りになる。

 血まみれ泥まみれ。

 こんなになってもフィンには少しも屈辱的な感情は湧いてこなかった。まだ幼いからかもしれない。

 ああ、そうだ。半年くらい前に同じようなことがあった。賞金稼ぎから身を隠すために煙突のような狭い配管を通ったことがあった。黒ずみやらヤニやらがベトベトとついていて、何より呼吸がし辛かった。フィンは左足の太ももをざっくり切ってしまった。飛び出た針金のような鋭利なものに引っかけたのだ。血がなかなか止まらなくて、ロゼは一生懸命に止血してくれた。セタは危険を冒してまで薬屋に盗みに入ってくれた。

フィンは泣かなかった。それをセタに褒められたのを覚えている。

よく頑張った、と。

 フィンは足を止めて、ふと足元を見た。

 これ以上先はない。地盤が緩んでいたのか、岩がごっそりと崩れてなくなっている。そこに雨が降ってきてさらに規模が増したのだろう。

 フィンは崖の下をおそるおそる覗き込んだ。崩れないように、木にしがみついて。石を投げいれたら瞬く間に転がり落ちてしまうほどだいぶ傾斜がきつい。そこにはフィンが探していたものがあった。二人の男。一人はうつぶせになっていて頭から血を流している。フィンは目をつぶり深呼吸をした。フィンの聴力は集中すれば近場の人間の心臓の音まで聞こえる。だが、うつぶせの男からは何も聞こえない。もう手遅れだ。

——そしてもう一人。

 岩が体に乗っていて、仰向け状態で呻いている。

 フィンは遠回りをして降りられそうな場所を見つけた。木をつたい、根に足をかけてようやく降り立ち男の元へとひょこひょこと走る。

「………」

男は苦痛で顔を歪めていた。印象的な白とブラウンの混じった短髪。目は濃い灰色をしている。

 フィンは動かずにじっと男のなりを見ていた。顔は泥だらけで鼻と額にべっとりと血の跡がある。


 男は動かない、気配を感じたのか、男は目を開けた。

そして負傷したその男は、息を呑んだ。

 白い、子ども。

「ねえ」

奴は我らが祖国、ヘミスフィアの言葉で冷たくしゃべった。

「助けてほしい?」

雪のように白い髪がフードからのぞく。


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