くさび(5)
見晴らしのいい丘の上。春になれば一面の花畑になりそうな草たちがある。その丘のてっぺんに小屋があった。低い垣根で囲まれたそこには大きな木が一本横に立っている。木登りするにはちょっと大きすぎるし、皮がザラザラしているから痛いに違いない。
丘を上がって振り返れば、町を一望できるほどの高さだ。さっきの騒動があった場所もはっきりわかる。「きょうかい」という白い建物から、町の真ん中をぐにゃぐにゃと流れる川まで見渡せる。まだこの町に来て半日も経っていないのに、全部知った気になれる。
ほう、とフィンは感嘆の息をこぼして、両手で丁寧にティーカップを置いた。あったかくていい香りがする。草原のにおいでもなくって、セタのお酒のにおいでもない。
この小屋には見たことのないものばかり。かごに入った鶏。束ねられているカサカサの植物。天井をクルクル回るプロペラ。それらを鼻歌まじりにフィンは眺めた。
「あら、それ何の歌?」
とても優しく笑うおばあさん、ジーナ。白髪をきれいに後ろで束ねていて、小柄な人。澄んだ空色の瞳で、白髪によく似合う。きっと昔はお澄ましした大人しい女性だったんだろう。
「これはね、ロゼの友だちの歌だよ」
「ロゼ? その人はお母さん?」
「ううん」
「じゃあ、お姉さん?」
「ううん」
大丈夫。ロゼたちはきっとやって来る。
フィンは何度も二人の無事を思い、「もしも」を考えないようにした。
訪ねてきた神父が彼の両親の名や家を訊こうとしても、フィンは頑として言わず、ジーナの後ろに隠れてばかりだった。しかしジーナに対しては人懐っこい態度を取った。
ジーナは小皿にスコーンを三つ、フィンの前に差し出した。
「いただきます」
朝食もお昼も食べていなかったのだ。おなかの虫が限界にきている。バターのいい香りがさくりと音を立てて口いっぱいに広がった。今はそれこそ笑っているが、教会に連れてきた時はむすっと口を閉ざしていた。知らない大人に囲まれて不機嫌だったのもあるが、おなかを空かしていたのだろう。
「フィン君、よかったらジャムをつけて食べてみて」
「じゃむ?」
スコーンの食べかすを口のまわりにつけて、すでに一つ平らげてしまった。そんなフィンをジーナはほほえましく見ていた。ガラスの小瓶に詰められたそれは鮮やかな紅色をしていて、ひと塊の宝石のようである。ふたを開ければ、果実の甘酸っぱさととろりとした砂糖の甘い香りが鼻をくすぐった。生まれて初めて見る「じゃむ」にフィンは身を乗り出して覗き込む。
「これはね、ラズベリーを砂糖と一緒になべで煮たものなの」
「おいしい!」
破顔して笑う年相応の表情に、ジーナもつられて笑う。
「そう、よかった。ねえ、フィン君はその……ロゼさんとセタさんとずっと一緒に暮らしているのね」
「うん、悪いやつらから闘いながら逃げてるんだ。それで世界中をぐるぐる旅しているんだよ。セタもロゼも強いんだ!」
あっけらかんと答えたが、ジーナにとっては刺激的な発言である。フィンはまるで武勇伝やら昔話に出てくる英雄たちのことを話すかのようだ。しかしそれは少なくとも命が狙われている日々を送っていること。そしてフィンを含めた彼らには家がない。五、六歳の子供が生活できるような環境にはいないことは明らかにしたのだ。まともな食事も、寝床もない。文字や言葉だってまともな教育を受けていないはず。
考え事をするジーナとは逆に、フィンはスコーンを片手に家にあるものをバタバタと取っては見てを繰り返していた。
「ジーナさん、この人はだれ?」
窓辺にある写真立てに背伸びして尋ねるフィン。ジーナは我に返ってフィンににこりと微笑んだ。
「ああ、それは息子よ」
まだ幾分か若いジーナとその横に立っている青年。数年くらい前の写真だ。
「どこにいるの? 『むすこさん』は」
「息子は………八年前に戦争でね、死んでしまったの」
純粋な子供の質問にためらいながらも答えたジーナの表情に、幼いながらもフィンは感じ取った。訊いてはいけないことを訊いてしまったのだと。無理に笑うジーナに、ロゼから聞いたシャルルの言葉を思い出した。
人は本当に辛い時に、誰かが傍にいてあげなければいけない。
「ジーナさんは一人?」
「そう、ね。息子が大事にしていた猫が一匹いるけれど、話し相手にはならないわね」
「まだ、ここにいてもいい? ジーナさん」
「え?」
見上げた彼の目は不思議な色。容姿は少女のそれだが、目はしっかりと男らしさがあったのだ。
「ジーナさんってとってもいい人だし、いいにおいがするんだ」
ジーナはただただ目を丸くした。
少しもひねくれてなんかいない。何人もの戦争孤児を見てきたけれど、こんな風に笑顔を振りまく子どもは多くなかった。文字や言葉は知らなくても、フィンは素敵な人と触れ合って育ったのだと、ジーナは思う。
フィンを風呂に入れ、驚くほど汚れていた服も丁寧に洗った。たまたま子どもの小さめのサイズのシャツがあり、着替える分には困らない。驚いたことに、この五歳の子どもは風呂の入り方はきちんと知っていたのだ。まともな生活をしていないようでも、しつけはされていたようである。ジーナは彼が言う、ロゼとセタンダが一体どういう人なのかが本当に分からなくなってきた。老婆には考えるのは難しい。
「ねー、ジーナさん。タオルがないよう」
風呂場からの陽気な声に、ジーナはぱたぱたとかけていった。
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