くさび(4)
突風が舞い上げ、木々がごうごうとうなる。
生ぬるい強風がゴロゴロと空に響く雷鳴を呼んだ。ロゼは壁にもたれて乱れた髪を抑えて空を見た。枯葉や古紙が飛んでいく中、青白い閃光が雲の内側でのたうち回っているのを黙視した。ぴしゃっと雷光が走ったと思えば大粒の滴がポツポツ降ってきた。風と同じで冷たくはない。
町に忍び込めた頃には、大雨に変わった。雨のしのげる場所が簡単に見つかるわけもなく、服にじわりじわりと染みていく雨と水を吸って重くなっていく革靴にみすぼらしさを感じた。雨はあっという間に道に水たまりをつくり、ロゼは延々と続くえんじ色の石畳の上を歩いていった。時折光る雷と吹きつける風の中、ようやく見つけた雨をしのげる場所。それはさびた屋根のあるベンチだった。色がはがれた青いベンチにはぐにゃりと曲がったくぎがとび出ていた。昔はバス停だったようだ。文字が流れてしまった時刻表が柱にまだ残っている。
ぐっしょりとぬれた頭と足。自分の体温と雨水が混ざり、足がむずがゆいような不快としか言いようのない状態になっていた。顔を流れる雨水は目元で交わり、頬を伝って手元へ落ちた。
ここにフィンはいるのだろうか。
とめどなく降る雨と水が石畳をはねる音だけがロゼには届いた。歩き回って疲れた体がとても重い。体の何かが削がれたような感触だった。
濡れた髪にふわりと何かが被さった。重い瞼を開け、ロゼはおそるおそる顔をあげた。警戒なんて全くしなかった。隣にどっかりと腰を下ろして、タオルを被せたそいつは白い煙をくゆらせてぼうっとしている。
ロゼは黙ったままセタの鮮やかな若葉色の瞳を見た。この天気の中ではその若葉色は異様に映えていた。同じ色でも今のロゼとは違う、生きている目だった。
「ちゃんと拭いとけ。風邪ひくぞ」
一日に何度もタバコを吸うセタを見たのはいつぶりだろうか。彼は寒さをしのぐ黒猫のように丸くなっているロゼを横目で見ていた。
「どうして連れてきた」
その一言で十分に理解ができる言葉だった。二人の脳裏によぎったのは真っ赤に燃える炎が町を覆ったあの日。白い赤ん坊を抱えて、路上に止めてあった車を盗み国道を下っていった。友人の死を受け入れることができないロゼは何度も何度もセタに尋ねた。どうしてこんなことになったのかと。どうして逃げなければいけないのかと。それでも友人が血まみれになって「逃げろ」と言ったのだ。
「なんで私を選んだ」
「そんなこと私が望んでいるとでも思ったのか」
「どうしてこんなに逃げ続けなきゃいけないんだ」
完全な八つ当たりだ。子どもが喚くのと変わらない。それでも変わらずセダは虚空を見つめて煙を吐くだけ。ロゼはとうとう襟を掴みあげて叫んだ。
「答えろ!」
分かっている、今こんなことしていたって無駄だってこと。
離れることがこんなに辛いなんて、知らなかったから。
手放すべきじゃなかったのだ。
ゆっくりとセタの目線がロゼへと移る。セタの瞳にはしっかりとロゼの瞳が映し出されていて、麦色の髪は滴で雨上がりの穂のようだった。
ロゼは言葉を詰まらせた。手の力が抜けてわずかに開いた口がふさがらなかった。
こんなセタを見たことがなかったから。
彼の左目からは透明の滴が伝っていた。雨ではなく温かい滴だ。泣きわめくことのなかった彼の初めての涙だ。戦場でも、シャルルが死んだ時も決して涙を見せることがなかったのに。
「俺は後悔している」
お前を連れてきたことに———。
声は震えていた。
あの日から何度も思い返した。友人の言葉とはいえ、正しかったとはいえないだろう。ロゼだって女だ。本当なら今頃結婚でもして子どもを生んでいたかもしれない。それでも彼女はついてきた。他に道などなかったから———。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます