くさび(3)
祖国、ヘミスフィアの言葉。
難しいとされる唇の閉じ方まで完璧に、この男はやってのけた。
「あなただってここの言葉をしゃべるのです。別に不思議ではないでしょう」
またもヘミスフィアの言葉だ。勘弁してくれ。鳥肌が収まらない。ロゼとだって交わす言葉は東州のそれと決めて話していたのだ。
ヘミスフィアではスパイの潜入を確かめるための、この唇の動き一つで敵か味方か判断する手段にする。国の言葉を話せない者は国を汚すものとして、問答無用で射殺されるのだ。
だが、この神父なら問題なくパスできるだろう。
「不思議そうですね。でも私はずっとこの土地で暮らしているのです。ヘミスフィアの人間ではありません」
「だろうな」
気味悪がっているセタのためかは知らないが、神父はやっと東州の言葉に戻した。銃を向けられるよりも冷や汗の量が多かった。追手か? いや、それならば行き交う人への馴染みの挨拶の示しがつかない。
「すみません。驚かすつもりはなかったのですよ」
神父はセタにまた座るように促した。
「ふざけやがって。早く本題に入れ」
そうしましょう、と神父は答えた。
「十年前、南州出身の私は当時まだ神父ではなく医療関係者で、戦場には衛生兵として出ていたんです。コスタレイカの中央部の野営地です。そこであなたの姿を見ました。銃弾の雨の中、忽然と立っている悪魔の目のような男です。大勢を前にしてもひるむことなく、敵の腕を斬り落としていく青年兵が………。それもその青年兵はわずか十数歳で戦場において先陣を任された期待の新人だったとか」
神父は庭にふと目をやった。セタは鼻で笑う。
「それが俺か?」
「ええ。当時はその常軌を逸した任務に対する執着心を、そして一切の隙も与えない残虐性を、我々は恐怖していた。これがヘミスフィアの兵士であるのか、と。そしてその青年兵はその任務遂行後、こちらが極秘に扱っていた軍港ノールをたった一人で制圧した。火薬庫に武器倉庫、兵糧まであったそうですから。あれには大打撃を受けたと聞きました」
いくつも遂行したうちの任務の一つだ。多すぎる戦果故に、思い出しようがない。
「覚えていますか? あなたのあの任務。野営地を殲滅するのではない。捕らわれた自国の兵を我々ごと殲滅することが目的だった。救うのではなく、情報漏洩を最小限にするために隠ぺいした。違いますか?」
「それで? 殺された仲間の敵でも討とうと、涙ぐましい復讐劇でも始めるつもりか?」
神父の胸元には不自然にふくらみがあった。銃であることは間違いないが、どうして撃たない。撃つ機会ならいくらでもあったはずだ。ひょろりとしていて明らかに虫も殺せないような男の撃つ弾だ。容易に避けられる自信はある。神父もそれを分かっているはずだ。一撃を外せば当然反撃に合い、眉間に穴が空くのがオチだと。
「まさか、私は曲がりなりにも神父です。人を殺すことは、神を冒涜するも同じこと。それにこれは護身用です。捕まえれば一生遊んで暮らせるほどの賞金が課せられている指名手配犯の前で、丸腰で登場するわけにはいきません。お許しください」
これは会話ではない。尋問だ。
医療関係者? 笑わせる。対峙して分かる。この淀みのない会話はあまりにも慣れすぎていた。
各地に散らばる南州の諜報員だ。
「しかし今のあなたは敵味方から恐れられた兵士の目ではない。人の親のそれだ。お子さんでもできたのですか?」
ペースを崩さずに確信をついてきた。やはりフィンを人質としてどこかに監禁しているのだ。居場所も分からず、この事態をロゼに伝えられなければ手も足もでない。
迂闊だった。神職は特殊な性質故に疑われにくい。
敵は賞金稼ぎや祖国の追手だけではない。彼らもまた敵を見抜く目を持ち、フィンという異質な存在の登場に警戒すべき体制を常に整え構えていた。ヘミスフィアに繋がる全ての情報に目を向け耳を傾ける。そして老婆が連れ立った子どもがそれに繋がると見抜き、見事にエサで獲物を釣ったのだ。
「どうして警備兵を呼ばない?」
「あなたをこの場に留めるのに必要なものは武力ではなく情報だと判断しました」
セタはフィンの状況を想像した。冷静さを保てと脳が指令を送っても鼓動が速くなる。
「失礼。私はあなたを脅したいわけじゃない。交換条件としましょう。私はあなたに二、三質問があるだけなのです」
あえてセタは紅茶には手を付けず、湯気が空気中に溶け込むのを眺めていた。
神父の目がぐっと狭まり真剣になった。
「数年前、ヘミスフィアの研究施設が爆発した。これは事実ですか」
「ああ、数年前に確かにあった。おかげで町は火の海だった」
忘れもしない。今でも鮮明に覚えている。シャルルの死、そしてフィンと出会った日だ。
「いいえ、町への被害は爆発の割に甚大ではなかったと聞いています。ですが、その研究所が生体実験施設だったというのはご存じですか? それに政府が支援をしていたというのは?」
「…………」
沈黙するセタに、ふむ、と神父はあごをなでて首を傾げた。
「つまりあなたはその現場にいたにも関わらず結果を知らない、というわけですか」
「もう十分だろう。あんたらの方がよっぽど詳しい」
神父は否定せずにうつむいた。そして数秒を置き、質問を続けた。
「まだ、ヘミスフィアは生体実験を続けている。これは確かな筋から聞いた情報です」
ご存知ですか? と、神父はゆっくりと丁寧に彼は言う。だがセタにとっては大きな衝撃だった。じんわりとその言葉が脳に刻まれる。
「————知らねえ」
拳が震えた。それは怒りに似た感情だと、セタは解釈することで鎮めようとした。
「捕虜になった南州の民間人が数名、実験体として使用されているらしいのです。その実験に欠かせない何かを彼らは隠密に探している、と。これはあくまで噂ですが、火のないところに煙は立たない。それは、まるで虱潰しをするかのように」
神父の語調がだんだん荒く、速くなる。
「あなたは研究所の事件の後に国を抜けた。そうでしょう?」
やめろ。
「なら知っているはずだ。彼らは、ヘミスフィアは一体何を作るつもりだ」
やめてくれ。
「あなたは知っているんじゃないか? 何か重大なことを、あなたは———」
「いい加減にしろ! 他人になんでそこまで言わなきゃならねえんだ!」
思わずか、それともわざとか今となってはどうでもいいが、セタはヘミスフィアの言葉で叫んだ。セタにとってあの忌まわしい過去の言葉で。
それでも神父は理解できたのだろう。閉口し、目でにらみつけるだけだ。
何かが切れたようだった。セタの口は止まらない。
「いいか、俺は国を捨ててから他人は信用しないようにしてきた。お前みたいに好奇心で近づく野郎がいるからだ! 俺はもうあの国とは関係ねえ!」
軍? 生体実験? もうどうでもいいことだ!
戦果も名誉も祖国も捨てて逃げた俺に何の関係がある?
セタは相手に背中を向けてもお構いなしに大股で庭を突っ切った。だが、神父は慌ててセタの後を着いてきた。
ハエみたいに絡んできやがって!
「白い子供なら、東の山道を超えた丘の、ジーナというご婦人の家に預けている。彼女はとある女性にその子供を渡されたと証言している」
ロゼが窓からフィンを渡したという婆さんだ。
「迂闊だな。俺がそいつを刺し殺すとは思わないのか?」
「ええ。何故ならあなたは優しい目をしている」
「———は?」
セタはこれまでになく動揺した。言われたことのない言葉の響きに疑問しかない。
「あなたはその子供の前で残虐なことはできない」
しかし神父の目は真面目そのもの。
「———っは、はは。勝手に言ってろ、馬鹿な神父。後悔するぞ」
セタは踵を返して、教会を去った。ぽつりぽつりと雨が降り出した。気が付けば太陽はすっかり灰色の雲に覆われていた。
「あなたは自由になったつもりかもしれないが、それはただ逃げているだけです。あなたの故郷は、もうすぐおちる」
最後の神父の言葉に、安堵と愛国心が残る不安が入り混じった複雑な気分になった。矛盾な気持ちを抱えたまま、雨宿りしながら路地裏を歩いた。
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