くさび(1)
爆炎と黒煙に包まれた首都から離れ、絶命した友人を置いて逃げた数時間後のこと。
塗装された夜の国道をガソリンが切れるまで走り、セタのこめかみに銃口が突き付けられた。
「セタンダ・マクリール中尉! 今すぐ戻れ! 軍規違反だ!」
「俺はもう軍規は信じねえ。軍が何をした? 国が何をしてくれた? いいか、シャルルは死んだ。死んだんだぞ! これがいい証拠だ。あいつは………あいつが死んだのはこのガキが原因だ」
「軍規を守らず何が軍人だ! 今すぐ引き返し上官に報告すべきだ!」
「いい加減分かれよ、ロゼ!」
「——っ」
「軍規を犯して誰が俺たちを裁く? 誰が処罰する? ここにはいないんだ! お前の頭で考えろ!」
「……だが」
「国は、あいつらは、戦い以外のことを教えてくれたシャルルを俺たちから奪った。三か月ぶりに会う約束をして、その結果がこれだ!」
「シャルルは軍務を全うしただけだ!」
「あいつは殺されたんだ!」
「それはあいつが軍規を犯したから……」
「本心か?」
「当然だ! あいつは」
「なら、どうしてお前は泣いている? あいつが死んで当然なら、どうして」
「泣いて、なんて」
「よく聞け、ロゼ。これからは、俺たちにできることを考えよう。この子を失うことはあってはいけないんだ」
ロゼは涙を流しながら、柔らかく白い子どもを強く抱き、生まれて初めての友人の死を悔やんだ。
*
白い子どもの手を離してしまったのは、これが初めてではなかった。
逃亡生活三年と四か月。子どもがようやく歩け、少しは会話らしいものができるようになった頃。立ち寄った町で、ほんの少し目を離した隙にいなくなっていた。
数十分経ってようやく見つけて安堵したのも束の間。
白い子どもは路地裏で、蹲って泣いていた。
そしてそこから少し離れた路地裏の奥の騒ぎと聞き、人だかりを目撃して理解した。
移動式人形劇に魅せられ釣られて、町の子どもたちと同様に広場に座り込んでそれを嬉々として見ていたのだろう。だが、今、人形劇の押し車は木端微塵になり、集っていた子どもたちも泣きわめいている。何があったか尋ねてもフィンは答えない。
しかし子どもたちは人形が破壊されてしまったから泣いているわけではないと、セタとロゼは理解した。数々の町を、人を見て、匂いをかいできたから分かる。
白い子どもの衣服に僅かに散っている血痕は、彼自身のものではない。まして町の子どもたちのものでもなかった。
人攫い。
人身売買を目的としたありふれた戦時中に横行する生業の一つだ。
いかにも子どもが好みそうな遊びや劇や玩具、菓子をエサに攫うことは珍しくない。旅芸人を装えば尚更。そうして釣られた子どもたちの中でフィンだけがいち早く事態に気が付き、連れ去ろうとする人攫いに、力を使った。
「また、へんなちからが出ちゃって………男の人たちが、かべにふっとんで、それで」
「そうか」
制御しきれない不思議な力は、子ども自身にも掌握できていなかった。
「ロゼ、ぼく」
「いや、目を離した私が悪かった。言わなくていい。よく耐えたな」
「ばけものって何?」
「……」
「おとなのひとたちが言ってた。ぼく、ばけものなんだって」
セタはフィンを抱えて、目立つその白い髪にフードを被せた。
「フィンはフィンだ。ばけものなんかじゃない。俺は本物のばけものを見たことある」
軍旗の下に、命を狩る化け物を私たちはよく知っている。
*
いくつもの煙突から吹き散らす黒煙と、十数キロも続く工場。東州の果てに位置する工業地帯にまでさしかかった。大陸有数の貿易都市。
それも北が攻め落とす二十年近く前の話である。かつては各地から雇われた労働者たちの住まいも今や廃屋となっている。
何度目の逃走だろう。
ロゼは盗んだ車の助手席にセタを詰め込み、線路沿いに走らせた。
しかしその後ろには追手の気配すらない。
「奴ら、どうしてここまで追い詰めておいて、私たちを取り逃がす? 目的は私たちじゃないのか」
「案外、根性がない奴らなのかもしれないな」
いてて、と負傷した肩を抑えてセタは苦笑した。弾は貫通していたし、止血剤は打った。しかし交戦することは厳しいと言わざるを得ない。
ロゼはアクセルを強く踏み込んだ。
他国で姿を晒したくないのか。それだけの理由のはずがない。
「だがはっきりした。俺たちはとんでもないことに首を突っ込んだ」
セタは煙草を吹かした。
「どういう意味だ」
「俺たちはただの亡命者、反逆者じゃなかったってことだ。五年前からな」
セタは手にある煙草を握りつぶした。
——フィン。
万が一捕まった時も大人しくしているようにと常日頃から忠告はした。暴れてもいけない、抵抗してもいけない。ただ従いなさい、と。だが、強靭な大人の力の前で、非力な幼子一人に何ができるだろう。
「——くそっ」
焦燥だけが、ロゼの中に渦巻いた。
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