花の名前(6)
朝日が差し込むより早く、三人はオレガノ家を出た。
書置きも、気持ちばかりの謝礼金も、何も残さずに。
南洲を目指すために公道を進む方へと賭けた。当然待ち伏せがあるリスクは承知の上。いつも通り、セタの刀はジャケットで隠れるように背中へ忍び込ませ、ロゼの拳銃はブーツの中へ。姉妹に別れを告げたいと、フィンは珍しくわがままを言ったが、聞き入れることはできない。フィンもそれは承知の上だったのか、それ以上は何も言わなかった。
体調はだいぶ良くなったが平熱にはまだ戻っていない。
朝もやに包まれた庭を通り抜けて、公道へと続く山の上り坂の標識を見つけた時だった。
「おい」
ロゼは思わず胸元の拳銃に手を伸ばし、フィンを背後に隠した。しかしその声の主に、緊張はすぐに解かれた。
ライナスだ。
しかし昨晩までの呑気な子煩悩な父親ではない。怒気を含んだその姿に、セタとロゼは違和感を覚えた。
「起こしたのなら悪かったな。それとも気が変わって治療代でも欲しくなったのか?」
先回りされては接触を避けようとした意味がない。セタの遠回しな皮肉な物言いにライナスは不機嫌に答えた。
「隣町までなら送ってやる。検問所を超えるには通行証が必要だ」
付いてこい、と踵を返して裏庭に止めてあるトラクターへと三人を同乗させた。
*
徒歩で公道を目指すよりも余程速く、トラクターは山道を進んでいく。ライナスの助手席にはセタ、三人掛けの後部座席にはロゼとフィンが座った。フィンは眠気に負けて、ロゼの膝を枕にして夢の中だ。
荒い運転だったが、フィンは起きない。
昨夜まで陽気でえらくお喋りだったライナスは終始無言だ。それは違和感でしかない。
夜明けを告げる朝日が山に差し込む頃、ライナスはようやく口を開いた。
「あんたら、人を殺したことあんのか?」
「………」
肯定も否定もせず、セタとロゼは互いに示し合わせをするように口をつぐんだ。
この男には、バレている。
「誤魔化す必要はないさ、今更。ダリアはな、気づいていた。あの子は賢いからな」
———あんたらが、北の人間だと。
セタは一般人の、何の効果もない脅し文句に苦笑した。
「だったらどうする? 行き先を変えて俺たちを国境の警備兵にでも売るか? あんたの娘の腹を膨らませる程度の小遣い稼ぎならできるだろうぜ」
セタは煙草に火をつけた。胸ポケットにライターをしまう時、指の長さ程度の薄いナイフを取り出し、バックミラーにぶら下がる人形の接合部に投げて落とした。
「ハンドルから手を離したらこれが目に刺さるかもしれないぜ」
「粋がるな、まだガキのくせして。俺は、どうもしねえよ」
ライナスは落ち着いた口調で、セタから煙草を要求した。
「なら、俺たちをどこへ連れていく気だ」
「その前に訊かせろ。何でこの国にいる? お前らは何に、どうして追われている?」
問いつめるライナスと閉口するセタに、我慢ならずにロゼは二人の間に入り込んだ。
「それは私たちが訊きたいくらいだ!」
なるほどな、とライナスは一人勝手に納得した。
山道からはティクシ川が遠くに見える。ライナスはその向こうを見るように促した。
川辺の一帯が木も生えず、家屋も畑もない。ただの平野が広がっていた。
「収穫する手前の野菜、麦。それを育てた大地をあんたらは焼いた。兵士になった俺の身内や友人も戦争で死んだ。あんたらのどちらかが殺した中に、いたのかもしれねえな。北の砲弾が降ってきたせいで、食糧庫一帯が燃えた。その川の向こうの二つ隣の町はもうない。食糧難に陥って、大半が飢え死にしたからだ。川を渡りさえすれば食料はあった。だがこの川一つ隔てているだけで、俺たちの町メテオールはその町を見捨てることにした。自分たちの家族でさえ満足に喰えていないのに、他の町の面倒まで見切れるわけがねえ。北が攻めたせいで、俺たちは見えない殺人鬼に成り下がったんだよ。わかるか? 転覆した船と、ミモザと年も変わらねえ子どもたちが………。小枝みてえにやせ細った死体が川に打ちあがっていた時の、俺たちの気持ちが!」
船を漕ぐ気力すら、子どもたちには残されていなかった。メテオールだけではない。ティクシ川沿いにある全ての町が、食糧難に陥ったその町を見捨てた。結果、町と呼べる場所ではない廃墟と化した。
抑えていたライナスの怒りの矛先は、かつて北の兵士であったセタとロゼに向けられた。走行していたタイヤが悲鳴をあげて急停車する。
「ダリアが言っていただろう。メテオールは旅人を手厚くもてなす。だが、旅人はもてなしても、近くの町は見捨てる町だ! そういう町にあんたら北が貶めたんだ!」
ロゼが拳銃を出す前にセタは左手でそれを制した。ライナスは運転席から乗り出し、セタの胸倉を掴んだ。
「お前らはどんな思いでこの町で作られたパンとスープを口にした? 母親を、戦争の煽りで失った子どもたちと同じ飯を食ったあんたらはどんな気分だった? どうなんだ!」
「………かよ」
セタの声はライナスの怒号にかき消された。だが、セタは躊躇わずに二度告げる。
「知るかよって言ってんだ、おっさん」
「———この野郎!」
ライナスの拳はセタの頬に叩きつられ、車体は大きく揺れた。
「————っ」
二秒遅れてロゼは銃口をライナスのこめかみに突き付け、ライナスは顔を引きつらせて笑う。
「俺を撃つのか? 北の人間らしいじゃないか、なあ」
「————っ、違う!」
ロゼの脳裏に浮かぶ少女たちの姿がよぎった。
「ロゼ、拳銃を下ろせ」
「………だけど」
「いいから、下ろせ」
セタの口調はどこまでも冷静。むしろいつも以上に穏やかにロゼは聞こえ、銃を下ろした。
「ライナス。あんたが俺たちを恨むのは当然だ。
だが、俺は警告した。関わらない方がいいと。そしてあんたらは無駄な好奇心と偽善心で俺たちを自宅へ招いた。そして俺たちの正体が分かった途端、北への恨みを蒸し返して八つ当たりだ」
「………」
「分かるぜ、あんたの望みが。俺たちが泣いて謝ることだ。それで何もかも戻るならこの世界はもっと単純だ」
「てめえ!」
ライナスはまたセタの胸倉を再度強く掴んだ。セタの若葉色の目が上空から獲物を狙う鷹のようにライナスの目を捉える。そしてその手にナイフを握らせた。
「どうした、やれよ」
「………なんだと?」
「だがあんたはできない。結局あんたは俺を殺す勇気と度胸がないからだ。妻を救いたかったなら、隣人を殺してでも食料を奪うべきだった。対岸の子どもの死体を見たくないなら、自分で泳いででも助けの手を差し伸べるべきだった。その後悔を、晴らせよ! 今、ここで! 俺を刺せば、元通りになるんだろ!」
「くそおおおおおおお!」
ライナスはナイフを振りかざした。
「————セタ!」
「……………」
助けなければ。無視しておけば。
こんな苦々しい思いをこの男はするはずはなかったのだ。
ナイフは座席シートに刺さっただけ。
「どうしたの、もうついた?」
寝起きの子どもの声が、張り詰めた空気を打ち破った。
*
東州南部へと続く検問所を超えて、賑やかには程遠い、人よりも牛の方が余程多い町だ。牧草と牛糞の匂いでいっぱいの平原に、数十を超える牛が道路の真ん中を横断したせいで、検問所を超えた先は乗用車で大混雑であった。
フィンは今度もライナスと二人きりで別れの挨拶をしたいとわがままを言いだした。
「お別れだな、坊主」
「うん。ありがとう、ライナスさん。ダリアさんとミモザにはお礼が言えなかったから、後でライナスさんからありがとうって言っておいてね」
「ああ、約束するよ」
「うん、約束!」
フィンは照れながらも小指を出して、ライナスと指切りをした。
「なあ、坊主?」
「なあに?」
「お前は、幸せか?」
五歳児には難しい質問だった。フィンは首を傾げて、自分なりに答えを出そうと必死に言葉を繋いだ。白い子どもは、アメシスト色の大きな目にライナスを映した。その目は真夜中の星のようであり、暗がりの中の我が家のランプの美しさそのものだ。
「前にもね、同じこと二人は聞かれたんだって。『しあわせ』は、セタとロゼもよく分からないんだ。だから僕はまだ子どもだし、すぐに大きくなるけど、大きくなったら分かると思うんだ。でも大人の二人も分からないから大人になっても分からないかもしれない。ねえ、ライナスさんは『しあわせ』を見たことあるの? どんな色してた?」
「どう、だろうな。だが、お前にも分かる日が来るんじゃないか」
「そっかあ」
そこでライナスはようやく気が付いた。あれらはまだ、何も知らないのだと。
かつての北の殺人鬼たちは、幸せどころか生きる意味も、人として当たり前に享受できる営みも知らないのだ。初めから理解できるはずもない。自分が知らなければ、失った者の痛みなど到底わかるはずもないのだから。
「いつかね、『しあわせ』は僕が二人に教えてあげるんだ! だって僕は二人にいっぱい教えてもらったからね!」
内緒だよ、とフィンは口元に人差し指を立てていたずらっぽく笑った。
ライナスは最後に「達者でな」とフィンの頭を撫でた。
いつか訪れる未来を無邪気に願う白い子どもを前にしては、底に積もった怨恨が溶けてしまう。
ライナスから渡されたパステルカラーの包みには、昨夜の残りのバケットが入っていた。丁寧に包まれたそれに、ロゼは自分と同じく花の名前の少女たちの笑顔を思い出した。
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