花の名前(5)


 夜も深まり、ミモザはお気に入りの絵本をフィンに読んであげると寝室に案内した。ミモザの寝間着を借りたフィンはすっかり女の子のようになってしまい、ミモザの玩具だ。セタとロゼは助け船を求めるフィンに「似合ってるぞ」とからかい、ご立腹だ。

 ダリアはロゼを連れだって、裏庭に増設されている風呂場へと向かった。

「クレアンクの都会じゃあ、あちこちに政府反発運動をする若者がいるって話だが、あんたらもそのうちの一人なのか?」

 ライナスと二人きりになったセタは、飲み比べに付き合わされていた。最近では飲める若者が町に少なくなってきているらしい。

「いや、そういうのではないが。軍人下がりの傭兵たちがいる地下都市で育っただけだ」

「じゃあ、あんたらどうして追われていた?」

「銃で撃たれる覚えはないが、連れのケツを触った野郎に拳を喰らわせた腹いせで、かな」

「はは、そいつは豪快だな!」

 適当な嘘と冗談を交えて信憑性を持たせる言葉を、セタはつらつらと述べた。持っている武器と看過できる理由の示し合わせが出来ればいい。どうせ一晩だけの付き合いだ。多くの情報を伝える意味がない。ライナスは次々にボトルを開けていく。

「下の子、ミモザはな、母親の顔を知らねえんだ。あの子を産んですぐ、肥立ちが悪くて死んだのさ。当時北の奴らが攻めてきて、クレアンクのお偉い共はこの町の食料や薬を根こそぎ持って行っちまった。家内は娘たちにどうにか腹いっぱい喰わせてやりたくて、自分の分を削ってた」

 今日食べたスープのレシピは彼女たちの母親が残したが、戦時中は再現できず、母は栄養失調で他界。自分にもっと甲斐性があって稼いでいれば、家内を死なせることはなかったのに、とライナスは悔やみながら酒を煽った。

 この町の遠く、東州北部を焼失。東州の数少ない軍事施設に乗り込み、襲撃した光景がセタの脳裏をかすめた。いつも通り、耳に届く上官の命令に従い、施設の見張りを数人斬殺。最上部に時限爆弾を設置して予定通りに撤退。爆撃機が勝利の旋回をする中、待機していた輸送機から赤黒く燃え上がる一帯を見下ろしていたあの日を————。

 交戦から月日も場所も遠のいた今でも、戦争は続いている。

「だからよう、あんたも彼女を大事にしろよ。当たり前にいることが当たり前じゃないんだからな………」

 ライナスはその言葉を言い残し、いびきをかいて夢の中へと落ちた。


 木製の小舟に小さい穴を開けて栓をして、暖炉の火で温めた湯を注ぐ。井戸のようなポンプでくみ上げるそれは、二、三度動かすだけで自動的にお湯が流れてくる、無駄のない画期的なものだった。見たことのないボートの再利用方法だとロゼが口にすると、ダリアは驚いていた。ダリアは近隣の町以外、出たことがないのだという。

裏庭に灯された玄関のものとは違う暖かい色のランプの下、お湯が溜まるまでの間、ロゼはダリアに髪を切ってもらうことにした。ロゼは椅子に座ってダリアに背を向けた。

他人に刃物を持たせて首筋を晒すなどあり得ない。ロゼは思わず懐の拳銃に手を伸ばしかけた。

「私の名前は母が付けてくれたんです。父さんが母さんにプロポーズの時に渡した花束なんですけど。母さん、本当はマーガレットが一番好きで、父さんは間違えて買ってきてしまったんだって。全然似てもいない花なんですよ!」

 ロゼはされるがまま、少女の話に適当に相槌を打った。

「妹はお婆様の好きなお花の名前。父さんは私たちが生まれた日に庭に植えてくれたの」

 初めて知る草花の名前にロゼは戸惑った。銃声で銃の種類が当てられても、植物や動物の区別はつけられなかった。そんなものは今まで気にも留めていなかった。

「ロゼさんはどうしてそのお名前なの?」

「………」

 覚えてもいない知らない自分の名前の由来。名付けた人も知らず、考えたこともなかったから疑問も当然ないまま。

「発音は違いますけど、私たちと同じで『花の名前』ですよね?」

 初夏に咲く、赤や白、黄色、珍しいものには紫色もある、匂いも素敵な初夏の花だとダリアは教えた。

「私の家のももうすぐです。つぼみが膨らんでいるから、あと数日したら今年一番のが咲きますよ」

 玄関の横、アーチにかかる棘のあるツル性の花。

「綺麗な花には棘あるって言いますから、ロゼさんにはぴったりですよね?」

「………」

 ダリアは戸惑い黙るロゼに、それでもにこやかに話を変えた。この年頃の時、ロゼはこんなにもおしゃべりだったかと首を傾げた。

「ロゼさんは世界中を旅しているんでしょう?」

「———ああ」

 好きで旅をしているわけではないが、結果として傍から見ればそうなるのだろう。ロゼはダリアに調子を合わせることにした。

「あと数日あれば見られると思うんですが。まだこの町にいるんですか?」

「いや、明日には出る。あまり長居はしたくないからな」

「そう、ですか。じゃあいつかこの町にまた来てください。この町には秋にもお祭りがあります。春の妖精には双子の妹がいて。秋は実りを祝福するお祭りなんです」

 そう言った彼女の手が急にぴたりと止まった。

 首筋に残る傷跡、火傷。手足にも。日常生活を送っていればつけようもない、会って間もない女性の傷の多さにダリアは息を呑んだ。



 ライナスがソファで眠り、フィンも姉妹と同じ寝室で寝かされた後、ロゼはセタと小屋の外へ出た。示し合わせるわけでもなく、当たり前のように、それは習慣のように。

 セタは片手でも器用に煙草に火をつけた。その光だけが辺りを灯している。

「あれは賞金稼ぎじゃない」

「だろうな。連中ならあそこまで効率良く回れない」

 あの無駄のない統率力。躊躇いのなさ、そして無茶な深追いはせず、じっくりと攻めて追い詰める判断力。視認できた人数は数人程度だが、遠距離から狙撃してきたポイントを思慮すればその倍は配置させていたはずだ。

「北、だろうな」

 セタの言葉にロゼは苦笑いした。

「何言ってる。そんなはずはない。あいつらは三年も追って来なかったんだぞ。それに今、あそこはさらに北方へ侵略している。北海を超えた島国に軍艦を向かわせたはずだ。どうして今さら」

「俺にも分からない。だが俺を撃った奴の銃の刻印をはっきりと見た」

 何度も見上げ、何度も掲げ、灰と塵の中でその刻印の旗が上がる度に勝利を確信した。過去には見るだけで高揚したはずのその刻印を目視することは、今や死を宣告された気分になった。その刻印がある銃口は、かつて敵に向けてきたそれは、自分たちに向けられるとどうして予想できだだろう。ロゼには分かる。彼らに銃口を向けられるという恐怖が。狙撃手にとって銃弾を外すという行為は死に直結する。自らの位置を告げるものと同じリスクを背負うのだ。故に、ヘミスフィアの狙撃手にとって一発一中は絶対。失敗は許されない、その精神力と集中力も武器にしなければ生き残れはしないのだから。

 彼女も名手であったがそれはあくまでも外の世界において。ヘミスフィアの中では彼女を上回る狙撃手など幾人もいる。その彼らに狙われる恐怖は、撃たれたセタでさえ計り知れない。

 セタはわざとロゼの顔に向けて煙を吐いた。

「今さら、か。俺たちに執心する理由はわからんが、わかったところですることは変わらない。捕まえて、懲罰房に戻す理由なんてない。苦しまずに削除するのみ、だろう」

 そう言われてロゼは得心した。国外逃亡を許さず、懐かしの祖国はその事実を消すのみなのだ。

「左手で幸いだったな」

「馬鹿言え。俺は両利きだ」

 そう訓練された。

「これから………どうする。ここの川沿いの地形は逃げるには不向きだ」

「川を下る。山道は使わない方がいい。何より痕跡を残しやすいからな」

「だがそれは奴らも読んでいるだろう。川下で待ち伏せされたら逃げようもない」

「ならどうする? 残されたのは公道だけだ。ここから何キロあると思ってる」

「もうここもバレているかもしれない。やっぱり今晩にでも」

「何でそうお前はいつも焦りすぎるんだ。あいつらはそれを狙っているんだぞ」

「………わかってる」

「いいや、わかってない。いいかロゼ。ここは北とは違う。俺もお前ももう………」

 軍人ではない。

数年経っても染みついて取れない、命令を受ける義務と生きる意味。

 それを「洗脳」というものだと知ったのは本当に最近だった。外の世界に出て知ったことだった。飼い主に馴らされた犬が、主人が躾ける鞭を見るだけで座り込む。例え飼い主がそこにいなくても、犬は鞭を見るだけで命令を待ってしまう。まるでかつての自分たち。

 北の兵士に関わってしまえば、すんなりと命令を受け入れてしまう自分がいるのではと、ロゼはその恐怖に震えていた。かつての躾けられた犬に戻そうと、影が忍び寄っているのだ。

「今でも夜眠るのが怖い時がある。朝起きて銃を取って着替えて、整列しなければと、立ち位置を忘れていないか、備品は失くしていないか。それが、ないと不安で」

「———俺もだよ」

 セタは煙草の灰を落とし、右手でロゼの頭を引き寄せて自身の方に押し付けた。

 その二人の会話を聞いている少女のことを、二人は気が付かなかった。


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