花の名前(4)
船は加速し、時折流れに任せて、川を下っていく。
町を三つ過ぎたところで、終着点の二つ前の田舎町で降りた。メテオールと呼ばれる、縦に切り開いた小さな山に家をなだらかにいくつも積み重ねた町だ。すでに夕刻で、オレンジ色のランタンがいたる家の玄関に灯っている。基本は白やクリーム色の壁に、暖かいその色はとてもよく映えていた。家屋に並ぶオリーブの木や、トウカエデは淡色の家屋を色鮮やかにしている。昔、異国の作家が書いた物語に登場する町のモデルになったのだとか。
「ちょっと待ってろ。荷馬車取ってくるからよ」
ライナスは船着き場から急ぎ離れた。
セタたちは酒屋のライナスに同行する形となった。ロゼは目を覚ましたものの、やはり本調子ではなく、歩くこともままならなかった。負傷しているセタでは、二人を抱えて動くことも、移動するための足を捕まえることすらもできなかっただろう。
流石に敵もかなりのスピードで進む船に飛び乗ってまで、同乗しようとは思わなかったのだ。しかし己の手際の悪さにセタは内心で舌打ちした。
ライナスの荷馬車に揺られて病院に辿り着いた。閉店間際であったが、ライナスの説得で年老いた医者は渋々診察した。
フィンとロゼの診察の間、セタは気になっていたことをライナスに質問した。
「あんた、得体のしれない俺たちをどうして気にかけるんだ?」
純粋な疑問だった。手間である上にデメリットしかないはずだ。
「馬鹿か。怪我人、子ども、女。気をかけない方がおかしいんだ。まして、自分の怪我より女子供の安否を確認したのはお前だろう? 事情は分からねえが、あんな必死になるなんざ、どう見ても悪人じゃねえ」
三十年近くも商売をしていると、人を見る勘が備わってくるのだとか。
理解はできないがセタは納得したふりをして、医者に呼ばれて腕を診てもらった。すると顔をしかめて髭の男を叱りつけた。
「オレガノ、あんた応急処置をするならもちっとマシにできんかったのか?」
「俺は酒屋だ! 文句言わずにさっさと治療してやれ、くそジジイ! 俺は血が苦手なんだよ!」
ライナスは気分が悪くなったのか青ざめて、早々に部屋を出た。ようやく腕に埋め込まれた銃弾を抜いてもらい、医者は無駄に幾重にも包帯を巻いた。
荷造りせねばとセタは荷馬車に戻ったが、そこには深紅の長い髪をした十五歳くらいの少女がライナスと話していた。ライナスと同じ青色の瞳をしており、すぐに血縁者だと理解した。明瞭ではきはきとした声音である。
「お父さん、そちらの方は?」
「ああ、成り行きでちょっとな」
「世話になった。礼はできないが………」
「お、おい。まさか今からまた移動すんのか? 坊主もあんたも安静にしておくべきだ」
「………」
しかし、時間がない。敵は川とそれなりの距離を置いているとはいえ、いつここに辿り着くのかわかったものじゃない。そしてここまで関わってしまった者を看過するほど間抜けでないと身に染みてわかった。
深紅の髪の少女はライナスの娘だった。彼女はセタに近づき、医者に乱暴な言葉遣いをしていた父親に育てられたとは思えない程、丁寧に挨拶をした。
「私は、ダリア・オレガノと言います。ここから少し上りますが、行く宛がないのなら、私の家にいらしてください」
「そうだぜ、遠慮するなよ」
ライナスは当然のように娘の意見に同意した。
「この町では旅人を手厚くもてなさせと、昔からよく言われております。それに今から宿を探しても、店じまいしているところがほとんどですから見つからないでしょう」
セタとロゼは顔を見合わせて、首を傾げた。結局は自分たちよりも十近くも幼い少女に流されて、オレガノ家に招かれることになった。
*
オレンジ色のランプの照らす、狭く急な道を、荷馬車に揺られながら、セタとロゼはオレガノ家の家路についた。フィンの熱は下がらないが、数時間前より呼吸が安定している。医者に処方してもらった薬草汁が効いたのだろう。ロゼはフィンの汗を拭いながら、目を離せずにいた。
かつてこのメテオールには、多くの船乗りたちが訪れたのだという。山岳地帯でありながらティクシ川を上ってまで求めたものがあった。この地域特有に生息する果物で熟成された果実酒。さらに歪な形の曇りガラス仕様の酒瓶と、町のシンボルである果実のイラストのラベルは同じものが二つとなく、酒の強さを誇る船乗りたちにとって、酒瓶とラベルの量は一種のステータスだったらしい。
しかし最盛期から数十年経った今は、船乗りたちの足はだいぶ遠のいた。時代と共に衰退していく酒作り業。そんな中、ライナスは祖父から受け継ぎ、酒蔵を残して作り続けているのだという。
「それでも昔の船乗りの爺さんや、祭りがある町では高値で売れるからな。酒瓶もラベルもメテオール製さ。酒瓶の口の形が花びらみたいな切り口だろう? それが美しい程酒瓶自体にも値がはるのさ」
「もう、お父さんったら。お酒の話ばっかり。この町にはランプが多いでしょう? ランプがついている家は船乗りを歓迎しますというシルシになるんです」
なるほど。凝っている家はオレンジだけでなく、桃色や水色のステンドグラスをあしらえて地面を宝石のように映していた。
ダリアはランプの店で働いており、オリジナルや記念品を求める観光客や、大きな町に出店している土産店に提案をしに行くこともあるらしい。
「随分と船乗り贔屓なんだな、この町は」
「そりゃあ、そうさ。この町は大昔、水害に見舞われてな。川が氾濫したせいでメテオールは陸の孤島になっちまった。そこへ船乗りたちが名乗りを上げて物資や食料を運んできてくれたってわけさ。川を挟んだ向こう側の町より、この川の流れつく先にある、遠い町と海原で生きる船乗りたちが先に動いたんだ。それからずっとこの町は船乗りをもてなす義務があるっていうことさ」
そうライナスが誇らしげにそして饒舌に語るのも当然で、彼の祖母の父が当時の船乗りの一人だったのだという。
オレガノ家を迎えるのは、玄関に吊るされている淡い紫色のランプの光。夜空の中で輝く星のようなそれは、フィンの瞳と同じアメシスト色をしており、セタもロゼも不思議と引き寄せられた。そしてほのかに漂う香ばしい匂いは疲れた体と空腹を刺激する。
「おかえり」
ダークブラウンのログハウスの重い扉を押して迎えたのは、ふわふわとしたブラウンの髪をしたサイズに合わない赤いエプロンを着た少女。ダリアの妹のミモザである。
「おう、ただいま」
ライナスはミモザの頭をぽん、と撫でて来客の事情を手短に説明した。父と娘以上に警戒心が欠如しているミモザは、ふにゃりと笑って自己紹介をした。髪の毛同様、ふわふわとした口調で眠気を誘われる。ぐったりとしたフィンを見つけると、「あら大変」と一人前の口調で急いで暖かい毛布を運んできた。
ミモザは働く父と姉に代わり、家事全般を任されている。暖炉の上に飾ってある写真にある女性の姿がない。この家に母親と呼ぶべき人間はいないのだ。
庭で取れた野菜が籠に吊るされ、花は乾燥して瓶に詰められていた。
食卓に並べられた食事。テーブルとイス。カラフルな糸で織り込まれたクッション、タペストリー。船乗りだった曽祖父の形見のオールが壁に高く飾られている。
宿をとることはあっても、他人の家にこうして入るのは初めてだった。ただ眺めるだけだったそこの内側にいるという違和感に、セタとロゼはどうしていいか分からず玄関に立ち尽くしていた。
「席にどうぞ。丁度春祭りで市場にあったお肉があるので、今日は豪華ですよ」
気を利かせたダリアに、二人は言われるままに席についた。
どうして疑いもしないのだ。金銭目的で近づいた強盗や人攫いだと思われても当然なのに。特にライナスは追われている場面を目撃しているはずだ。それにお節介を焼いて娘たちを危険に晒そうとまでしている。間抜け以外の何物でもない。
フィンを連れているから警戒しないだけとは思えない。
正面に他人が座って食事をするのは、士官学校以来だった。
鳥のダシをベースにした野菜スープとロース肉。砕いたクルミが入ったバケットと濃厚なチーズ。どれも味わったことがない。特にスープは空腹をじんわりと満たしていく。
ミモザはフィンよりも三つ上の八歳で、ダリアは十五歳。フィンが自分たちよりも幼いためか、積極的に世話を焼いた。ミモザが面白がってスープをフィンの口元にまで運んだ時には流石のフィンも「ひとりでできるよ!」と顔を真っ赤にして抵抗した。
「この寒空の中で雪遊び? そりゃあ風邪引くぜ、坊主!」
がはは、と大声でライナスはワインボトルを開け、ロゼとセタのグラスにどぼどぼと次いで自分はボトルでラッパ飲みをした。
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