逃亡者たちと彼らが目指す場所(4)


 東州クレアンク。

 「州」というのはあくまでヘミスフィアが名付けた、領土を振り分けるための名称だったと、国外に出て全く異なる造形の地図を見た時に気が付いたものだった。この国では「季節と共に」と意味する。

 クレアンクの北西部に位置する港町。かつて貿易で栄えていたというこの町には、面影はまるでない。潮の匂いが霧に混じっている。見上げても曇り空だ。この町にはふさわしいだろう。煙臭い。下水道の臭いも混じっている。そして転がる複数の小さな紙袋。

 とうとうクレアンクにも麻薬が回ってきたらしい。ひとたび戦争を起こせば必ず両国、近隣国は寂れて麻薬は出回るのが当たり前の時世。生活、生きることにすら絶望を感じた人間はすがるようにそれに手を伸ばすのだ。

 路地裏に転がる人間がいい例だ。男か女か、老人か子どもかなんて区別もつかない廃人たち。足にまとわりつく細く骨ばった手を乱暴に蹴り返し、構わず歩を進めた。

「どいつもこいつも」

人の焼ける匂いまでする。ロゼは袖で口と鼻をふさぎ、足を速めた。

 目的地にたどりついたロゼは外れかけた扉をゆっくりと押す。割られた窓ガラスやクモの巣。ほこりっぽい空気。人一人いない寂れたレストラン。経営しているとは思えない。だが強いタバコの白い煙が漂うカウンターに影がかすかに見える。

 紙タバコを咥え、黄ばんだ歯がむき出しの五十代くらいの男だ。見ただけで風呂に入っていないと分かる。

「若いお嬢さんがこんな無粋なところへ何の御用で?」

まるで子どもを食べる魔女が男に変装しているかのようなねっとりとした声。ロゼは目を合わせただけで殴りたくなる衝動を抑えた。それだからいつもセタに注意されるのだ。

「銃弾が余っていないか? 買い取りたい」

男が吐いた息から漂う麻薬とタバコの匂いがつんと鼻をついた。真顔で告げるのは難しい。

「ああ、あるにはあるけれど、モノは何だい?」

「とりあえず出せ。五ミリの八ミリで充分だ」

嫌味なほど口角を上げる男。ロゼはカウンターに金を叩きつけた。

 それでも男は目に弧を描いて笑みを浮かべる。またもタバコの煙をぶわっとロゼに吹き付けた。くつくつと喉の奥で笑う男。できることなら今すぐ頭に風穴を開けてやりたい。

「お前さん、この国のもんじゃないだろう。言葉は習っているようだが、やけに上品すぎるしゃべりだぜ。西の人間かい?」

「いいや、ただの狩猟者だ」

ほう、と男はあごひげをなでる。そしておもむろに銃弾の入っている小箱を出し、ロゼの方へと滑らせた。箱は泥で汚れているが、中身は大丈夫そうだ。裏市場で流れてきたものをそのまま出しているのだと、一目でわかる。

「足りん。この金額相応ではないだろう」

「狩猟者、ねえ。その割にあんたの体から獣臭さは微塵もないみたいだが?」

 男の手がロゼの手元に伸びた。触れる刹那、ロゼはナイフを男の目に突き付けた。

「ならば今、獣臭くなってしまうな。返り血を浴びてしまっては仕方ない」

「——っ、ははあ、あんた、北の人間か?」

国に忠誠を誓い、国のために戦い死ぬことこそがヘミスフィアの生き様であり、全てである。それを犯せば生きてはいられない。

「私はヘミスフィア出身ではない。ただの田舎者さ。北の人間の残酷さはこの比ではないらしい」

適当な嘘をつくロゼの目に男の引きつったニヤつき顔がうつる。これ以上ここに居たくない一心で、小箱を持ち去ろうとした。その手を浅黒くゴツゴツした手で制した。そして、もう一つカウンターの下から小箱を出す。

「八ミリも必要だろう?」

ロゼは叩く勢いで小箱を手にして男を一にらみした。つかつか足を速めて出て行くロゼの背を、男はさも楽しそうに見ていた。

 店の外は中と変わらぬ異臭を放っていた。

「くそ」

 近道をしようと路地裏を曲がれば、また廃人の塊。どの道を通ってもどうせ一緒だ。構うものかと、大股でそこを闊歩した。

 ふと、足元に違和感だ。裾を引っ張られて足がつんのめった。いつもなら「離せ」と一蹴するのだが。

「あの」

 相手は小さい子どもだ。フィンより少し上ぐらいだろう。ぼろぼろの布きれを頭から被り、手入れのされていないぼさぼさの髪。

 一目で孤児だと分かる。

「なんだ」

「あの、これかってください、軍人さん」

子どもがロゼの胸元まで上げた。一般人の格好をしているロゼを軍人と呼ぶのにはすぐに合点がいった。先ほどの男との会話を聞いていたのだろう。

 大きな目、こけた頬。バサバサと傷んだ髪の毛。細すぎる腕は骨ばっている。裸足であちこちすりむいている。今上げた腕だって震えている。いつ死んだっておかしくない。

 おそらくこの店に立ち寄る人に目星をつけていたのだろう。

「これは?」

 子どもが差し出したのはプラスチックケースだ。二個の錠剤が入っている。

「お父さんが、軍人さんなら買ってくれるって。さっきあの店から出てきたから」

 ロゼはすぐにこの薬の正体が分かり、背筋が凍った。どうしてこんなものを子どもが持っているのだ。これは痛み止めというには生ぬるい。

ヘミスフィアが開発した劇薬「GA86」。錠剤の真ん中に刻まれた十字と四角形がその証拠だ。当時不出としたヘミスフィアは資金を得るため、国外へ流通させた噂は知っていたが。これを飲めば長時間に及んで痛みを感じないし、疲労もないという。戦時中においてヘミスフィアで兵士に服用させれば効果的だと、十年以上も前に大量生産された鎮痛剤だ。

それが今になって他国で目にするとは思わなかった。

「軍人さん?」

「すまない。渡してやる金はない」

 子どもはしょんぼりとする。

「だが、これはやる」

「え」

 前の町で農家から盗んだ小さいリンゴ数個を自分のマフラーに包んで渡した。

「あと、これでいいか?」

 加えてチーズと飲みかけだがジュースを与えた。

「うん!」

子どもはぱっと顔を明るくさせて、路地裏を抜けて出ていった。

 本当のところ金はあった。しかし以前、こうしたことが何度もあり、思わず金を渡した。だがそれはその相手の命を奪う形になったのだ。金を持っているということは、同様にひもじい生活を送っている者が狙ってくるということ。取っ組み合いの喧嘩はまだいい。殺してまで奪おうとする奴もいる。

 リンゴ数個くらいなら、とロゼは思った。

 そしてプラスチックケースを胸元のポケットへ押し込んだ。

 あれでも女の子だった。見れば分かる。毎日きっと食べる物を探している。かと言って毎日食べられるわけではない。

 あの子どものこれから先を考えれば、やはり構うのではなかった、と後悔した。

 ほんの少し、情を移しただけで後ろ髪が引かれてしまうのだ。何よりも、昔の自分の姿と重なってしまう。


 街灯の下、二つのサイコロを宙に振り回す男が一人。そして地面に花と蝶の絵を枝でガリガリと描く子どもが一人。なんとも異様な組み合わせである。

 その二人の前を大股で通り過ぎる黒髪の女。

「おいおい」

投げたサイコロを取りそこね、セタは慌てて拾い上げる。ロゼはキッとセタを睨みつけた。どうやらそこらへんで博打でもやってきたんだろう。手にはそのサイコロと数枚のコインがある。彼の博打でほとんど生活していると言ってもいいのであまり嫌味はいえない。

「どうした? 不機嫌だな、ロゼ。痴漢にでもあったか」

ギロリと蛇のにらみ。最早ロゼの必殺技とも言える。すぐにセタは言葉を詰まらせた。

「何でもない。次はどこへ行く?」

フィンがぴょんっとロゼに抱きつき、機嫌を直してもらおうと笑いかける。

「海! 海がいいよ」

 生まれて初めて見た海原の感動が忘れられないのだろう。静寂すぎる町にフィンの元気な声は異様に響いた。

「そうかぁ、海ね」

 若葉色のセタの瞳はどこか懐かしむように細くなる。その下で踊っているのかと疑うくらいフィンは跳んだり跳ねたりしている。

 そんなに海が好きだっただろうか。もともと室内で生活することはあまりなかったから、自然が好きなのはよくわかる。とは言ってもここは港町だ。泳げるようなキレイな浜辺は望めないだろう。

「だったらこの先いいところがあるかもなぁ」

「ホントに?」

「ああ」

「やったぁ!」

どこまでも散歩気分なふたりに、ただため息をつくロゼだった。


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