第3話 清水さんと美術の授業②
僕が美術室に着いた時には授業が始まるまであと一分くらいしかなかった。俊也は意図していないだろうが、授業に間に合うか間に合わないかのギリギリなタイミングで恋バナを終わらせてくれたらしい。席に着くと、生徒たちは授業が始まる直前だというのにまだざわついていた。聞くつもりがなくても周りの人の話し声が耳に入ってくる。
「本当に清水さんって髪黒くしたんだな」
「なんで染めたのかお前知ってる?」
「知らない。友達にも聞いてみたけどみんな知らないって言ってたよ」
どうやら話題の中心は清水さんのようだ。芸術科目は二クラス合同で行われていて、普段は別クラスの生徒も一緒に授業を受けている。うちのクラスでは数日経ち落ち着いてきた清水さんのイメチェン騒動も、他のクラスの人からすれば新鮮なニュースであるらしい。
(清水さんは大丈夫かな?)
こっそり清水さんの方を見る。美術の時の席順では清水さんの席は僕の席の斜め後ろに位置している。清水さんは周りが自分の話をしていることが分かっているようで、そこまで機嫌はよくなさそうだ。席が少し離れているから今はフォローのしようもない。どうしようか悩んでいるとドアが開き美術の先生が入ってきた。
「なんか今日はみんないつもより活気にあふれてるな。授業始めるから今からは少し静かにしてくれよ」
先生はなぜ生徒が騒がしかったのか分かっていないみたいだ。ただそのことを気にすることもなく授業を開始しようとしていた。
「今日は最初に教科書を読んで、その後に絵を描いてもらう。何を描くかについてはその時に言うから。まずは教科書を読んでいくぞ。教科書の二十三ページ開いてくれ」
先生はそう言うとそのページに載っているいくつかの絵画の解説を始めた。この美術の授業では生徒が当てられて教科書を読むことはほとんどなく、僕たちはただ先生の話を聞くだけだ。淡々と続く先生の解説に集中力が少し切れてきた時、後方から殺気のような何かを感じた。気配の出所を探るべく、先生に気づかれないようゆっくりと後ろを向く。そこには他の生徒が教科書を見ている中でまっすぐこちらを睨んでいる清水さんがいた。
慌てて首を前に戻し教科書に目を移す。さっきから感じていた気配はどうやら清水さんからのものだったようだ。僕は清水さんになぜ睨まれているのだろうか。
(睨まれてると思ったけど、清水さんたまたま僕の方を見ていただけなのかな?)
先生の話を聞いているだけのこの時間は少し退屈で、教科書から目を離してしまう気持ちも理解できる。周りをボーッと見ていた時に僕が振り向いてしまったのかもしれない。
僕は真相を確かめるため再び後ろを見た。清水さんは先ほどと変わらず鋭い眼光で僕を見つめていた。清水さんと目が合う。すると清水さんは目を大きく見開いたかと思えばすぐに視線を逸らした。
(勘違いではなかったけど、なんで清水さんは僕の方を見てたんだろう?)
思い当たることがないか考えてみる。清水さんとした会話はいつもと変わらない日常に関してのものだけだ。話をしている時も清水さんに特に変わった様子はなかった。それよりも後となると、さっきしていた恋バナくらいだけど……。
もしかして清水さんは僕と俊也がしていた恋バナがうるさかったから目が覚めてしまいイライラしているのではないか。それなら僕を先ほどから睨みつけていたことにも納得がいく。
(まだ清水さん怒ってるかな?)
もう一度後ろに目をやると清水さんはなぜか頬に両手をつけていた。視線は下を向いていて、心なしか顔が先ほどより赤いように見える。目が合った時から今までの間で清水さんに何があったのだろう。僕が疑問に思っていると頭に軽く衝撃が走った。前を向くと先生が僕の目の前に立っていた。
「おーい本堂。さっきから後ろ見すぎだぞ。一応試験に出るかもしれないんだからさ、先生の話は聞くふりだけでもしててくれ」
「す、すいません」
美術室にドッと笑いが起こる。先ほど走った衝撃は先生が僕の頭に教科書を乗せたせいだったようだ。先生も笑っていて本気で怒っているわけではないみたいだけど。
「分かればよし。次から気をつけるように。さて教科書の今日の分は読み終わったから、授業の最初に話した、今日描くモデルについて説明していくぞ」
清水さんを気にしているうちにいつの間にか絵画の解説は終わっていたらしい。先生は教室の前にあるスペースに戻ってから説明を始めた。
「今日は二人一組になって、残り時間を使ってお互いのことを描いてもらう」
先生がそう言うと他のクラスの生徒が手を挙げた。
「先生質問いいですか?」
「どうした? いいぞ。言ってみてくれ」
「さっき二人一組で描くと言いましたがペアになるのは隣の席の人とですか?」
確かにそこについて先生はまだ説明していなかった。確かに隣の席の人と組むのが一番簡単なペアの作り方だろう。先生は頭をポリポリ掻いている。何か考えているらしい。
「先生?」
質問した生徒が待ちかねたのか先生に声をかける。
「よし決めた。今日は自由にペアを作っていいぞ。友達とでもいいし他のクラスの奴とでも問題ない。ペアを決めたら隣同士になるように席に着いてくれ。それでは全員起立!」
先生のその発言が終わったと同時に、美術室内にいる生徒全員が立ち上がる。
「制限時間は五分。その間にペアを決めてくれ。決められなかった奴らは五分経ったら俺が強制的にペアを作っていくからそのつもりで。それでは荷物を持ってペア作り開始!」
その言葉と共に生徒たちが一斉に動き始める。友達がここにいてすぐにペアになれた人、知り合いがおらず周りをキョロキョロしている人など、人によって様々な動きを見せている。僕は後者で、ペアになってくれる人の当てがなく困っていた。
(このままだと知らない人とペアになって描くことになるなぁ)
それでもいいかなと思い始めたその時、後方から足音が聞こえた。振り返って見るとそこには清水さんが立っていた。
「なあ、なんか清水さん、本堂のことさっきからずっと睨んでたけど、本堂何かしたの?」
「違うクラスの俺が清水さんのことを知るわけがないだろ。関わり合いにならないようにとっとと離れようぜ」
「そうだな。本堂、ご愁傷様」
周りにいる他の生徒たちは何かコソコソ言いながら僕と清水さんから露骨に距離を取り始めた。清水さんは口を開きそうな様子がない。僕は自分から聞いてみることにした。
「もしかしてまだ怒ってる、清水さん?」
「怒る? なんのことだ?」
どうやら先ほど僕を睨んでいたのは寝ていたところを起こされてイライラしていたからではないようだ。ではなぜ僕は睨まれていたのだろう。まあ怒っていないならいいか。
「僕の勘違いだったみたい。それでどうしたの清水さん?」
「……本堂、お前ペア決まったか」
「まだ決まってないよ。清水さんは?」
「いや、まだだ」
会話が止まる。清水さんは何を僕に伝えたいのだろう。清水さんを見てみる。先ほどまで僕を見ていたはずなのに、今は全然違う方向を見ていて目が全然合わない。
「あと二分切ったぞ。まだペア組んでない奴は急げよ~」
先生が僕らにそう呼びかける。思ったより時間はないようだ。どうしようかと思っていると清水さんの姿が目に映り、あることが閃いた。
「まだペアいないなら僕とペアになってくれない?」
ペアになるのは誰でもいいと思っていたけど、知っている清水さんがペアになってくれる方が僕としては嬉しい。
「な、なんでお前とペアを……」
「やっぱりダメかな?」
それなら仕方ない。時間はないけど他のクラスメイトを当たってみるしかないか。
「待て。ダメとは言ってない。ちょっとなんというか心の準備が必要だったというか……。と、とにかく私も知らん奴とペア組まされるくらいなら知ってるお前と描く方がいい」
「それならペア組んでくれるの?」
「ああ、まあお前がそこまで言うなら」
そこまで必死にペアを組んでほしいと言った記憶はないけれど、組んでくれるならそれに越したことはない。
「ありがとう。よろしく清水さん」
「おう」
清水さんと隣同士になるように席に座る。教室と同じ位置なのでなんとなく落ち着く。
「時間になったぞ」
先生が美術室を見回す。それにつられ僕も周りを見るが余っている人は見当たらない。
「どうやらみんなうまくペアになったみたいだな。それじゃあ始めていくか。最初にどちらが先に描くか決めてくれ。時間かけずにパパッとな。制限時間は三十秒だ。スタート!」
先生はそう言うと、手をパンと叩いて時計を見始めた。
「清水さん、先に描きたい? それとも後からがいい?」
「どっちでもいい。お前の好きにしろ」
正直、僕も順番はどちらでもいい。でも清水さんもそうなら僕が決めてしまおう。
「それなら僕が先に描いていいかな?」
「ああ」
先生が時計から目を離す。どうやら三十秒経ったみたいだ。
「決まったか? そしたら最初に描く奴はスケッチブックを用意してくれ。後から描く奴は机からイスを少し動かして、最初に描く奴の方に体を向けてやってくれ。描く時間は十分間だ。描かれる方は十分間も止まってなくちゃいけないから、楽な姿勢にしてた方がいいぞ。準備できたら始める」
先生がそう言い終わると生徒の半分はスケッチブックをめくり鉛筆を用意し、もう半分はイスをペアの方に向けて動かしポーズを決めていた。
僕もスケッチブックの白紙のページを開き、美術用の鉛筆を筆箱から出した。清水さんを見ると既に僕の方を向いた状態で座っていた。他のモデルになる生徒がみんな手を膝に置いているのに対して、清水さんは腕を組んでいた。ついでに言うと足も組んでいる。
「清水さんは手、その位置でいいの?」
「こっちの方が楽なんだよ。……お前は膝に手置いてた方がいいのか?」
清水さんが少し不安そうに、僕にしか聞こえないくらいの声でささやく。
「そっちの方が楽なら僕もそれでいいと思うよ」
「そうか。ならいい」
声にはあまり出ていないけど、清水さんはほっとしているように見えた。
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