第7話 現場

「るうらら、ぷうらら、うららいら~」

 可愛かわいらしい水色の軽自動車の車内に、運転手の志賀の歌声が響き渡る。

 助手席でむすっとしている正治からはふんわりと柔らかな石鹼せっけんの香りがしているが、なるほど、これがあの悪臭だったら、狭い車内にいる志賀と美沙子と祐一は窒息していただろう。

「田中さーん。あのコンビニエンスストア屋さんのところを左で合ってるー?」

 田中夫妻は、志賀の口から発せられた『コンビニエンスストア屋さん』という謎の単語に首を傾げつつも頷き、以降の細くて複雑な道を案内するために、後部座席から身を乗り出す。

「ここはぐで……」

「あのカーブミラーのところを右……」

 瀟洒しょうしゃな住宅街を進む車が田中家に近付くにつれ、サイドミラーに映る正治の顔が険しくなっていく。――その顔を隠していた無精髭が綺麗に剃られ、髪が撫でつけられてみると、確かに獣医師の弟に似ているのであった。

 イベントやゴミ出しのポスターが貼られた町内掲示板を過ぎた所から、正治の顔はさらに険しくなる――。

「ここです……」

『夜間救急動物病院はなおか』を出発しておよそ二十分。祐一が暖かな色合いの小さな一軒家を指差して言うと、水色の軽自動車はゆっくりと速度を落とす。

「駐車場には入らないで」

 正治は緑色がかった窓越しに、ささやかな家庭菜園と芝のドッグラン、レンガ敷きの駐車場が行儀よく並んだ庭を睨んでいる。

「はーい」

 志賀は慣れた様子で返事をすると、二階建ての一軒家の敷地の前、道路の端に車を寄せて、エンジンを切る。

「到着、とうちゃーく」

 静まり返った車内から真っ先に志賀が出ていき、後部座席のドアを外から開けると、田中夫妻の家なのに「どうぞ、どうぞー」と二人を案内する。

「素敵なおうちっ! ね、正治お兄ちゃん!」

 扉の無い門を抜け、一番にずかずかと駐車場へ入った志賀が、後ろから来た正治を振り返って嬉しそうに言う。

 正治は返事もせずに、シャッターの閉まった一階の窓を見つめている。

「窓が、割れていまして……」

 美沙子は恐る恐るといった様子で、正治に説明する。

 昨日から色々なことが起こり、今は何故なぜか自宅に、動物病院の看護師と獣医師の兄が来ているのだ。困惑して当然である。

「昨晩、病院から戻ってきてから気付いたんです。それで、戸締りができないので、シャッターを閉めっぱなしに……」

「破片は」

 正治は、今度は窓の下に設置された小さな縁側えんがわを見ている。その板の上には、ガラスとも分からない白い砂のようなものが少量残されているだけである。

「中に沢山あります。昨晩、踏みそうで危なくて」

 言いつつ祐一はスマートフォンを出し、昨晩、正治に言われた通りに撮影した写真を見せる。

 室内の窓際を映したその一枚だけでも、酷いものであった。

 裏のガラスが割れて開いたままになったクレセント錠の下、粉々に割れたガラス片の上に、裂けたソファかクッションの残骸、千切ちぎれた犬用のぬいぐるみやおもちゃ、田中夫妻の服などが散乱している。そしてそれらは全て、糞便ふんべん嘔吐物おうとぶつらしき茶色いものにまみれている――。

「ガラスが下で、ごちゃごちゃが上」

 喋り出したのは、志賀である。

「つまり、誰かが外から窓を割って、鍵を開けて入って、キッチンでインスタントコーヒーをベーコンに巻いて、フウちゃんにあげて、コーヒーが効き始めるまでの間に二階の金庫を盗んで、コーヒーが効いて暴れるフウちゃんにおうちを散らかしてもらって、盗んだことや証拠を誤魔化ごまかした。――でしょ? 正治お兄ちゃん」

 志賀は子供のように柔らかな髪を揺らして、正治を見上げる。

「恐らく」

 正治はそれだけ言うと、不意に田中夫妻と志賀の前から消える。

 ――否、正治は地面にいつくばり、駐車場のレンガに顔面をくっつけている。

 なめ子の入ったポーチは、ひっくり返ったり地面に激突したりしないよう、片手でしっかりと抱えられている――。

「すごい! 正治お兄ちゃん、匂いで犯人が分かるの⁉」

 志賀はぱちんと手を叩いて感激する。が――。

「分からない」

 正治は地面に顔をくっつけたままもごもごと言う。

「分かんないのかあ」

 志賀は素直に、がっくりと肩を落とす。

「でも、なんかくさい」

 正治はまだ地面に顔をくっつけたまま、すんすんと鼻を鳴らす。

「ん? 臭い?」

 志賀は田中夫妻と共に、あちらこちらを見回して空気の匂いをぐ。

「臭くないよ? いつも一番臭いのは正治お兄ちゃんだよ?」

 正直な志賀の言葉を聞いているのかいないのか、正治は一人で「あ!」と大声を上げる。

「なあに? どうしたの、正治お兄ちゃん?」

 正治は志賀の問いには答えず、がばっと立ち上がる。

「正治お兄ちゃん?」

 志賀は、どこか遠くを見つめたまま動かない正治の顔を、心配そうに覗き込む――。

「なめ子がウンチした!」

 きょとんとしている志賀と田中夫妻をよそに、正治は慌ててなめ子専用おでかけポーチのファスナーを開ける。

 シルクワームが大好物であるなめ子の糞の独特の香りが、大きく開口したポーチの口から、周囲にかすかに漏れ出る。

 正治は、なめ子専用おでかけポーチの中に手を突っ込みかけて――。

「ああん! 素手すでで取ってポッケに入れたら、昇に怒られるよう!」

 何度もペットのふんの片付けをした経験があり、ペットの糞をさほど汚いとは思わない田中夫妻でも、それはそうだろうと思うのであった。

「ねえ志賀くん、取って、取ってよう! なめ子のウンチ、取ってよう!」

「はいはーい、取るよーう。なめ子ちゃん、いい子っ。正治お兄ちゃん、いい子いい子っ」

 志賀は地団駄を踏む正治をなだめつつ、腰のナースポーチからちり紙とビニール袋を取り出して、てきぱきとなめ子の糞を片付けるのであった。

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