第6話 正治の魔法

「フウ。フウちゃん……」

「フウ……」

 翌早朝、フウは、花岡たちの尽力も空しく、田中夫妻に見守られながら息を引き取った。

 しかし何故か、『夜間救急動物病院はなおか』の職員たちの目の光は、去ったばかりの夜よりも強い。

 花岡らは今さっき田中夫妻に、荒れた自宅から通帳や印鑑、パスポートの入った金庫が盗まれており、今回の治療費を当分払うことができないという話を聞いたばかりであった。

「佐々木さん。兄さんを起こしてきてくれますか」

 そう言う花岡は何故か、何の生活反応も示さないフウの体にタオルを巻いた保冷剤を当て、その上から毛布を掛けて、息の無いマズルに湿ったガーゼを優しく乗せている――。

「はい」

 一晩中フウに付きっきりだった佐々木は、そんな様子など微塵も見せずにきびきびと歩いて、処置室を出ていった。

「志賀くん。兄さんの付き添いを頼んでもいいですか」

 花岡は、今度は薬品棚の扉をあちこち開けながら言う。

「うん。もちろん」

 台に寝ているフウの遺体の前、美沙子と祐一の隣に座って二人と一緒に泣いていた志賀は、涙をぬぐって頷く。

「少し時間がかかると思いますが、大丈夫ですか」

 花岡は聴診器を首に掛け直しながら、志賀の、田中夫妻よりもぐちゃぐちゃの顔を覗き込む。

「うん。さっき、いっぱいお昼寝したからね」

 志賀は真っ赤に泣き腫らした顔のまま、やけにごつい両手を握り締めてガッツポーズをする。

 いつ、どんな時でもすやすや眠れるのは、志賀の特技である。

「そうですか。でも、眠たくなったら佐々木さんを呼んでくださいね。佐々木さんは、今からお休みになりますから」

 変わらず忙しく動き回る花岡に、志賀は「大丈夫っ!」と笑顔で頷いた。

 その時、鼻の曲がるような臭気が、狭い処置室の清潔な空気に取って代わる。

 処置室にはいつの間にか正治がおり、まだ吐瀉物としゃぶつの汚れが残っているフウの遺体の背中を、あかまみれの指先で撫でている――。

「ちょっと兄さん、寝る前にお風呂に入るって、昨晩固く約束したでしょう」

 花岡は溜息をいて、正治の汚い手をフウから引き剥がす。正治はもちろん手だけでなく全身が垢だらけで、それを何でできたのかも分からない染みだらけの部屋着に包んでいる。

「それに、なめ子にはお留守番をしてもらうとも約束しましたよ。なめ子は夜行性ですし、犬ではないのですから、そんなに連れ回されたら疲れてしまいます」

 花岡はもう一つ溜息を吐いて、正治の首に掛かっている、唯一清潔感のある箱型のポーチに目をる。

「なめ子はお風呂入らないもん」

 花岡の話を聞いているんだかいないんだか、正治は、首に掛けた、なめ子専用おでかけポーチをうっとりと撫でる。

 ポーチ上部のメッシュの隙間から何かが動いているのが見えないことからして、なめ子は眠っているらしい。

「なめ子はその代わりに、脱皮をするでしょう。兄さんは脱皮ができないんだから、お風呂に入るんです」

 花岡は医療用ガーゼで兄の顔の汚れをどうにか拭こうと奮闘しながら、正論を言う。

「ぼくも脱皮できるもん!」

 正治は急にかっと目を見開いてそう叫ぶと、汚い部屋着のズボンに両手を突っ込む。

「ほら!」

 ズボンから出てきた正治の手は、薄い何かをつまんでいるが――。

「そんなものを人様ひとさまに見せるんじゃありません!」

 正治に負けない大声で言った花岡は、正治の背中を押して、一緒に処置室から出ていった。

「花岡せんせーはね、汚い正治お兄ちゃんをお風呂に入れに行ったよ。たぶん二分くらいで戻ってくるよ」

 志賀がにこにこと解説する間に、職員用扉の外を「それは医学的には脱皮とは異なるものです! それにそのにおいじゃあ、田中さんにご迷惑がかかるでしょう!」「くさくなんてないよ。なめ子はぼくをぺろぺろしてくれるもん」「兄さんのせいで、なめ子の嗅覚もおかしくなっているんです!」という声が遠ざかっていくが、愛するペットをうしなったばかりの田中夫妻に、兄弟コントを笑う余裕は無い。

「あのね、今は悲しいけどね、大丈夫」

 志賀は手を伸ばして、太い指で美沙子と祐一の涙を順番に拭く。

 昨晩初めて会ったばかりの志賀に顔を触られたのに、美沙子と祐一は不思議と不快な気分にはならなかった。

「正治お兄ちゃんはね、魔法が使えるの」

 魔法――。

 いくら志賀に言われても、美沙子と祐一は納得できるはずがない。

「あっ、違うよ。魔法って、おならのことじゃないよ」

 勝手にぶんぶんと手を振って注釈を加える志賀を、美沙子と祐一は怪訝けげんな顔で見る。

 一晩中、愛犬のために力を尽くしてくれたスタッフたちだ。その上亡くなったばかりの愛犬が目の前にいるとあっては怒りこそ湧かないが、さっきから脱皮だの魔法だのおならだの、意味が分からない。

「とにかく、正治お兄ちゃんがいれば大丈夫なの」

 志賀はぽんぽんと自分の膝を叩きながら、自信たっぷりに言う。

「あのね、今から車に乗って、フウちゃんのおうちに行くよ。そしたら大丈夫だからね」

 今から、うちに?

 田中夫妻は顔を見合わせ、回らない頭で、フウの亡くなった原因の医学的な調査か何かだろうと結論付け、力なく頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る