第63話 言葉にしなくても分かること
俺はあいつだけにはこんな自分を見せたくなかった。
醜く腐りきってしまった俺の心をあいつだけには見せたくなかったんだ。
背中からは千里の温かさと温もりを感じることが出来ていた。
それは俺にとってこの上なく嬉しいことであったのと同時に悲しみに溺れている自分がいた。先ほども言ったように俺は千里こんな自分を見せたくなかった。だから返事をするまでかなり時間が掛かってしまっていたんだ。
「千里……」
千里のあまりにも優しい温もりを感じ取りながらも俺は思わず目を瞑ってしまう。
こんな自分を見られたくなかったというのに俺は千里から貰えているものに喜びを感じてしまっていたのだ。ああ、だからか……。だから俺は千里と言う人間に光よりも明るい何かを感じ取っていたのだろう。
でも……でも駄目なんだ千里。
俺は今この場で千里を受け入れることなんて出来ない。
「ありがとうな千里……」
「もう大丈夫?」
千里は俺から離れることはなかった。
俺が安心できるようになるまで離れないようにしてくれていたのだろう。俺その優しさに光よりも眩しいものを感じ取り、竜弥という男かがどれほど千里に甘えてきたのかが分かってきて悔しさすら感じてしまいそうになってしまう。
分かっている。
千里は俺に対して優しさというものを配り歩いている訳ではない。あの馬鹿お人好しが言うような俺に対して当たり前なことを当たり前にやっているだけだと……。だからこそ甘えてはいけないと拳を握りしめる程に思ってしまうんだ。だから俺は千里にこれ以上甘えない為にもお礼の言葉を述べてこの状況から離れようとしている。いつまでこの状況でいたら彼女に甘えてしまいそうになるから。
「ああ……大丈夫だ」
本当は大丈夫じゃない。
大丈夫じゃないがそれでも俺は千里に頼りたくないと言う気持ちでいっぱいいっぱいになっていたのだ。彼女に頼ってばかりの自分だった頃には戻りたくない。あの日自分が何も出来なかったという無常さを呪う度に心臓が疼いて仕方ない。
きっと自分のことを許すな、許すなと言っているんだろうが俺は最初から自分のことを許すつもりなんてものはない。死後の世界というものがあるのかは分からないがどうせ俺は天国にも地獄にも行くことはできないだろう。懺悔するべき罪が多すぎるのだから。
「……大丈夫じゃないよね」
千里が不安そうな表情で俺のことを見つめている。
こういうふうな返し方をしてくるのはなんとなく気付いていた。先ほどまでの俺の声が聞かれていたのもあって千里は俺のことが心配でしょうがないんだろう。俺が反対の立場で女子トイレの前で声を荒げている千里の姿を見れば心配でしょうがないのは間違いないはずだ。
……俺にはきっと「大丈夫じゃないよね?」なんて返すことはできないだろうけど。
勇気もないクソ野郎の俺には……。
「変なところを見せて悪かったな千里……。でも心配すんなって俺はこの通り元気だろ?」
今の竜弥というものをあいつの体の中や周囲から眺めていることは多かったが、あいつの真似をして喋るつもりはなかった。俺は俺の時代の俺として喋りを続ける。あいつになるつもりはない。
「……そうかもしれないけど」
それでも心配で仕方がないようだ。
無理もねえだろ、さっきまで俺がずっと手洗いで声を荒げていたのを聞いていたから。本当は怖いかもしれない、俺のことを心配してくれてるのかもしれないと考えると俺は本当に自分という人間の弱さに打ちひしがれてしまいそうになるが今此処でそんな姿を見せたりしたら千里を余計心配にさせてしまうだけだ。
心配か……。
そうだよな、此処は……。ちゃんと千里が心配にならないようにしてあげないと駄目だよな。今千里は俺のことが心配で心配でしょうがねえんだ。だったらその不安を取り除いて上げればいいんだ。
「心配すんなって……俺はもう大丈夫だから」
千里の頭に手を当てて、俺は擦りつけるようにして撫でると千里は満更でもないような表情を浮かべている。俺はこの感覚に覚えがある。声が出なくなった千里のことを初めて見たとき、俺は「ごめんな」と言いながらも彼女の頭を撫でてた後に彼女の頬に触れていたのだ。
俺はあのときと同じように頬に触れると、千里は少し嬉しそうに俺がそっと彼女の頬に手を触れると、その瞬間、彼女の表情がわずかに緩み、目元には優しい光が宿っているように見えていた。
もしかしてと淡い期待をしながらも俺は彼女の頬の柔らかさと温かさが指先に伝わり、心臓が一拍、強く鼓動する。彼女が少しだけ顔をこちらに向け、唇が控えめに持ち上がったような気がしているのを見て俺は反射的に手を放そうとしてしまうが、彼女が俺の手を掴んで「続けて」と言わんばかりに嬉しそうに微笑んでいるその姿を見て、俺はあの日のことを思い出しながらも俺自身も口元が緩んでいたような気がしていた。
『ありがとう』
あの日、俺は俺の病室に来てくれた千里に対して「ごめんな」と何度も泣きながら繰り返すように呟いていた俺に対して千里は「ありがとう」と言ってくれたんだ。あいつは喋れるはずもなかったからあのときは気のせいだと思っていたが、あれは妄想なんかじゃなかった。
───あのときだってそうだ。
『ありがとう』
喋れない千里は少しでも俺の苦労を癒そうと水族館でのデートを誘ってくれたのだ。
思いもよらない提案に俺は赤面しながらも彼女の提案を受け入れて俺は次の日水族館へと向かい、水槽を見ているときも『ありがとう』と言ってくれていたような気がしていたのだ。
俺の幻聴と考えれば、簡単なことなのかもしれない。
でも……でも……ずっと気になっていた。千里はあの日、あのとき……本当に「ありがとう」と言っていたのかと……。あの二つの出来事が気になって仕方ない俺に対して千里は微笑むような笑みから頬が少しだけ赤らみ始めていた。まるで心の奥にある喜びが外へとあふれ出すように、彼女の表情は柔らかく輝きを増していき、彼女はにっこりと笑っていた。
その笑顔は暖かくて、純粋で、まるで日の光そのものだった。
俺は……樫川竜弥という人間の人生を滅茶苦茶にするために生まれてきたのだと今まで思い込んでいたが千里と三年ぶりの再会を得て俺はやっぱり彼女のことを諦めることなんて出来なかった。頭の中ではどれだけどうでもいい、どうでもいいと思い込み続けていても拒絶に変換することは出来なかったんだ。
だって今の目の前にいる綾川千里はこう言ってくれているのだから。
「ありがとう」
言葉と言う人の口から簡単に出てしまうものが響くということは俺は知っている。
彼女のありがとうと言う言葉が俺にとって救いの言葉のように思えてしまっていた。彼女に頼ってばかりではダメだと頭では分かっていても彼女と居るだけで自分の心の傷が癒されていくような気がしていたんだ。
「懐かしいね竜弥……。病室で竜弥に面会したとき竜弥はアタシにごめんって言いながら言ってくれたのを見てアタシがありがとうと言おうとしていたんだけど……伝わってる訳ないよね」
彼女は本当に声を出していたんだな。出せるはずもなかったはずの声が何故出せていたのかは分からないけどきっと千里の口から発せられた何かを通じて俺に伝わっていたんだ。水族館のときだってそうだ。あのときもきっと千里は俺にお礼の言葉を伝えようとしていたんだ。
「お前は俺のことを……いや……こっちこそありがとう」
千里には聞こえないように小声で言うと千里は俺の口が動いているのを見て首を傾げていたが、「なんでもねえよ、心配すんなって」と伝えながらも俺はちゃんと立ち上がった。
「恵梨と香織には謝っておいてくれ……」
俺は彼女から背を向ける。これ以上彼女に甘えている訳にはいかない。
彼女の笑顔を見て改めて俺は彼女の笑顔と彼女の芸術のように綺麗な横顔を守りたいと思えてしまった。もう俺はあのときの気持ちを味わいたくない。
なにより、彼女が俺のことを「竜弥」と呼んでくれたのも嬉しかった。俺は恵梨にも香織にもそして……目線で「竜弥じゃない」という目線を向けていた琉藍にも否定されていたのは少し悲しい気分になっていたが何処か安心していた自分もいて怖かったからこそ嬉しかったけど俺は本当に千里に甘えたくないという気持ちがあった為、俺は千里には見えないように千里の頬に触れてない手の方で握り拳を作り、改めて此処で誓うことにして目を瞑り始めるのであった。
「……それで復讐するの?僕」
目を瞑った先には俺達がいる精神世界。
普段は四人だけが存在する世界であるが、今は……。
「俺の体でいったいなにを……」
今この場には今の樫川竜弥も存在している。
宿主が此処に来るのは誰かが宿主の体を乗っ取っている場合ぐらいしか本来ありえないのである。それこそあり得ないことでも起きない限りは……。
「駄目だ、復讐なんてことは……!許し合うことが大事なんだ……!」
「僕もそう思う……。正直あの人のことは今でも許せないけど……それでも復讐なんかしたら結衣が悲しむよ!!」
一番最初の俺の人格は復讐に対して肯定的なところを見せている為、二人は説得しようとしている。ボウリング場での一件、あいつも復讐肯定側の人間の為、怒りの導線に火がついてしまったんだろう。
「……なぁ、高校時代の俺はどう思うんだ?やっぱり……殺したいのか?俺を刺した犯人と……母さんのことを……」
「お前は……?お前はどうなんだ?今の俺……」
「俺は……母さんが居なければこんなにも怯えたような性格にならなかったのかもしれない。あの犯人を俺が殺しておけば千里を悲しませるようなこともなかったのかもしれない。そう考えるほどあの日何度も戻れればと思うことがあるほどに……」
「そうか……」
分かっていた。
分かっているつもりだった。亜都沙や……恭平と一緒に行ったスカイツリーで起きたあの現場を見た今の俺は怒りを露わにしていた。怒りの灯火がついたあの姿を知っているからこそあいつがまだ母親のことを恨んでいるのは分かっていたしあの犯人のことを恨んでいるのも知っていたんだ。
「……どうするんだ?復讐するのか?」
「いや、まだ他に確かめておきたい事がある……」
「もしもし俺なんだが……」
現実世界に戻って来た俺。
千里はあの後、安心したかのようにボウリング場に戻って行った。俺は今は戻ることはなく、ボウリング場の外である人物に電話をしていた。あいつに電話をするのは久しぶりだった為、何処か緊張めいた気持ちがあったものの俺は電話に出た相手に対して詐欺めいた言葉を返す。
「久しぶりだな……」
「結衣……」
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