第3話 二人:2 (2/2)
一年前の夏。猛烈な土砂降りの日。灰色の重苦しい雲から落ちてくる雨粒は、地面を容赦なく叩きつけていた。バケツをひっくり返したようなとはよく聞くけれど、本当にそんな感じ。
どうしようもない外の様子にため息を吐きたくなるのを堪え、家を出る。軒下なのにも関わらず細かい雨粒に濡れながら、私は傘を差して、週に二日通っている塾へ向かった。
傘が意味を成さない程の横殴りの雨。歩くたびに靴の中敷きからじゃぶじゃぶと水が溢れてくる。ベタベタな髪の毛が張り付いて、雨粒を吸った服が重い。天候も状況も気分も、最悪だった。
こんな中、本当に塾に行くの?自然災害レベルじゃない?
休校にならないかな。……ならないよね。
頭の中でぶつぶつ文句を言っていると、雨で白くもやがかかる視界の端に、不自然な人影を見つけた。傘を差して道路の脇にしゃがみ込んでいる。無地の深い灰色のパーカーと、ジャージのような緩いシルエットの黒い長ズボンを履いていた。
男の子……だろうか。顔は傘で隠れていたが、体格から見るに、私とそれほど年齢は離れていない。
この嵐の中、何をやっているのだろう。
こんなところでしゃがんでいたら、地面に跳ね返った雨粒でかなり濡れちゃうんじゃ……。
気になって遠目から様子を見ていると、傘を差した彼は、足元にある小さな黒い毛布を撫でているのがわかった。その毛布に目をこらすと、思わず息を飲んだ。
……――毛布じゃない。猫だ。
猫を撫でているんだ。
その正体を知った瞬間、締め付けらるような痛みが心臓に走った。こんな激しい雨に殴られて、体力を消耗しているのではないだろうか。そもそもこの雨の量、あんな小さな鼻で、まともに呼吸はできているのだろうか。
私は猫のことが心配になり、その場から離れられずにいた。
彼はどうするつもりなのだろう。彼があの場から離れたら、猫を家へ連れて帰ろう。塾にも親にも、後からなんだって言えばいい。
彼は暫く優しく撫でていたが、猫を片手で掬い上げるようにして抱き上げると、唐突に立ち上がった。その時に見えた、横顔。前髪が黒く光っていた。猫に構っている間に濡れてしまったのだろう。彼自身はさほど気にしていないらしく、雨を拭うことすらせずにそのままどこかへ歩いて行ってしまった。
彼は、猫を保護したのだ。
私は暫くその場から動けなかった。さっきまでの最悪な気分も、塾のことも、頭から抜けていた。代わりに彼の横顔が頭の中をいっぱいにする。
ただただ、かっこよかった。
雨粒で艶っぽく光る乱れた髪、整った横顔、優しく撫でる手、どこか大人びた眼差し。
でも、どこか、見覚えのある……。
そしてその「彼」の正体を知ったのは、次の日学校の廊下ですれ違った時だった。その子の胸元には「榊原」と書かれた名札が、安全ピンで留められていた。
私を貫いた衝撃を、今でも忘れない。
小学校は違ったし、中学一年生の当時もクラスが違ったことから殆ど接点がなかった。せいぜい廊下ですれ違ったりクラス合同の授業で一緒になるくらいで、彼の顔も朧げに認識している程度だった。それでもなんとなく勝手に受けていた印象は、やはり目つきの悪さと無表情な部分から、冷たそうな人、怖そうな人だと思い込んでいた。
そんな榊原君が、土砂降りの中自分が濡れるのも顧みず、猫を助けたのだ。それは私がときめくには十分なギャップだった。廊下ですれ違い彼の顔を認めた瞬間、胸が高鳴った。思わず振り返り、遠ざかっていく背中を呆然と見つめることしかできなかった。
そして、私は彼を一瞬で好きになった。榊原君の事、何も知らないけど……。でも凄く、凄く好きになった。
そんな想いを抱えつつ、私は中学二年生になる。そしてクラス替えの時に私を襲った更なる衝撃。なんと、私は想いを寄せていた彼と一緒のクラスになれたのだ。それを知った時、私は全力で友達に抱き着き、全力で神様にお礼を言った。
同じ空間で過ごし、普段の彼を見ているうちに、私の想いは更に強くなっていく。彼は他の男子には無い、暗さとはまた違ったどこか落ち着いた雰囲気を持っていた。近くで他の男子が騒ぐ中、静かに本を読む。そんなクールで大人びた部分に、どんどん惹かれていった。
人と距離を置いているのは間違いないはずなのに、話しかけられれば当たり障りのない返事をいくつかして、……なんだか、うまくやり過ごしているように見えた。人に対して喧嘩腰になったりおどおどすることもなく、淡々と、堂々と、自分のペースで行動する。猫みたいだなと思う。
そんな彼と、一年生の時はきっかけもなかったので全然喋ることができなかったけれど、今はクラスが一緒になった。私は今度こそ榊原君にアプローチをすることに決めた。
……のだけれど、それでも結局勇気が出せずに、今の今までずっと眺めているだけだった。
――でも、今日は違う。
理科の授業で一緒のグループになれたのも、会話ができたのも、全部チャンスなんだ。これを逃すと、もう二度とやってこないかもしれない。だって、こんなことある?たまたま道端で一目惚れして、それがまさかの同じ学校で、次の学年では同じクラス。で、今日は同じグループワーク。初めてまともな会話もできた。これは運命なんだ。
……あぁ、待って。初めて話せたから舞い上がってるだけかな……私……!
でも今はもう二学期の中間だし、もたもたしていると冬休みになってしまう。
だから、今日。今日こそは、絶対に連絡先を聞こう!
私はポケットに忍ばせた小さいメモ用紙をきゅっと握った。
榊原君に視線を移すと、彼は解剖を終えた鮒を食い入るように見つめていた。私が話しかけても目線は鮒。心なしか、彼の頬が染まっているように見えた。か、可愛い!と思いつつも、素っ気無い返事に少しヘコむ私。
暫く鮒を見つめていた彼は、突然、視線を私に移した。一瞬目が合い、私は恥ずかしさから咄嗟に目を逸らす。視界の端にいる彼に集中すると、どうやら私の外見に注目しているようだった。彼の視線が名札に止まる。
私の名前……覚えてくれたかな?
胸の高鳴りを感じながら勇気を出して榊原君へ顔を戻すと、彼は興味がなさそうな表情で私を一瞥し、また視線を鮒に戻してしまった。
私より、鮒に興味があるの……?で、でも、それでもいい!!きっと今ので私の名字、覚えてくれたよね。少しずつでいいから、榊原君に私の存在を知ってもらいたい……。
……とかなんとかドキドキしながら考えていると、彼が「これ」とハサミを差し出してきた。突如血塗れのハサミを近付けられ、思わず「ひっ」と声が出る。恥ずかしくて消えたくなった私をよそに、冷ややかな目をしながら「洗って」と再度ハサミを近づける。
正直こんなハサミを洗いたくはなかったが、私だけ何もしないというわけにもいかないし何より榊原君から渡されてしまっては、断れない。私は顔を引きつらせながらもハサミを洗った。
何故か彼は「かっさばいたじゃん」というのを口実に片付けを殆どしなかった。いつもこのような実習は淡々と手早くこなしているのに、珍しい。
結局、授業が終わるまで彼は席を立たなかった。
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