第40話 さよならに変えても:4 (5/7)

 榊原君は足を組んであぐらをかくと、学ランの前ボタンを全て外し、袖から両腕を抜いてそのまま地面に脱ぎ落とした。ワイシャツの左手首のボタンを外し、袖口を大きく開けて肩まで捲り上げる。

 続いて、私が着ているセーラー服に目を向ける。襟下を通り胸元で結び溜められている赤いスカーフを、彼は無言で掴んだ。先程私を押し倒し力任せに襟を破り開けた時とは真逆の、優しく丁寧な手つきで結び目を解くと、スカーフの片方を引っ張り、襟下から抜き取った。

 剥き出しにした左腕の、膝よりも上……二の腕の中間でスカーフをかけ交わらし、それぞれの両端を口と右手で掴むと器用にきつく結ぶ。そうして縛った左腕を手を下げるように伸ばし、彼は拳を作ったり開いたりを繰り返した。それを数回行うと、今度は右手の人差し指と中指を揃えて、左腕の肘下…内側を押していく。少しずつずらしながら、二本の指でゆっくりと。


 ……病院で見覚えのある動作。



 血管を、探している。




「すごく、慣れてるね」


 異常なほどの手際の良さに、言わずにはいられなかった。


「まあ、自分一人でやる予定だったし」


 こちらを見ないまま手元を止めずに彼は答える。

 それを聞いて、咄嗟に体が動いた。彼の左手首を持ち、指の腹を腕にそえて、同じように血管を探す。

 視線を感じたが何も言わず続けていると、彼は任せるようにあぐらをかいていた足元に右手を置いた。


 先程彼が集中的に押していた部分で、微かに違和感がある箇所にあたり、指を止める。指先に集中すると、やはりそこにはぐにぐにとした太い血管が走っているように感じた。

 彼が言う。


「多分、それ」


 私はなんとなくの場所を記憶し一度手を離すと、膝上に置いていた注射器に視線を移した。本体を持ち、針の部分にかかっている半透明のキャップを外す。初めて持つ注射器に、鼓動が早くなる。



 今更、うまくできるのか不安になった。



 表情に出ていたのか、榊原君が「別に失敗してもいいんだから」と言った。顔を見ると、いつも通りの無表情で「それでもお前が殺してくれるんだろ」と繋げた。


 ああ、こうやって、話せなくなっちゃうんだ。

 私がこれを刺したら、もう……。


 迷いが出始めた私を、彼は見つめたまま言葉を続ける。


「お前がこんなことまでやる義理はないんだから。嫌ならやめればいい」



 私は目を閉じて、深呼吸をした。


 違う。私じゃなきゃ駄目なの。

 私は、未だに、榊原君のことが

 どうしようもなく好きだから。


 だから、……だから、私が。



 目を開けて、榊原君を真っ直ぐ見て、言った。



「ううん、任せて」



 話出そうと彼が口を開けかけたのをわかっていながらも、遮るようにわざと腕に集中する素振りをした。なにか言いたげな空気が伝わってくるも、気づかないふりをする。


 彼は躊躇っている私を見て、気遣うような発言をした。私に"好きな人を殺す"という負担を背負わせないように「嫌ならやめていい」と言った。


 もう、そんなことは言わせない。

 苦しみながらも結果的にはたくさんの罪を犯してきた彼を好きでいつづけるということは、私も同罪なのだと考えていた。彼を自らの手で失う辛さなど、彼に突如奪われた命やその命を大切に思っていた人たちのことを考えたら、どうってことない。

 そして彼をこういう形でしか救うことのできない無力な私にとっては、当然の十字架だ。私が自分で、この愛し方を選んだんだから。



 静かに覚悟を決めて、注射器を右手で持ったまま、左手の親指でもう一度腕の血管を探る。ある程度の場所は覚えていたため、すぐに弾力のある部分に触れた。

 注射器を軽く寝かせるようにして近づけ、針を皮膚に刺す。針先はあっけなく入り、初めての感覚に戸惑いながらも、榊原君は大丈夫だろうかと見上げた。当の本人は、表情を変えることなく針が刺さっている場所を見つめている。


 手元に視線を戻し、集中する。

 どこまで針を刺せばいいかわからず、先程触れていた血管までの距離感を想像する。不安になりながらも、注射器を動かさないように、ゆっくりと薬を注入していく。


「い、痛くない?」


「うん。そのまま全部入れていい」


 言われた通り、注入していく手を止めずに、ゆっくり進めていく。針を刺している周辺が腫れ上がったり赤くなることもなく、順調に薬が入っていくように見えた。手の震えのせいで針がぶれないよう、指先まで力を込めて震えを抑えつける。




「――これは忠告、

 ……遺言ともとってくれていいんだけど」



 不意に、彼が口を開けた。



「あの時一緒に見た、猫の死体」



 その言葉に、頭の中で思い起こされる。

 榊原君と一緒に、初めて帰った日。

 猫の死体。

 片耳が削がれ、お腹は開かれていた、あの、猫の死体。そばにカッターナイフが落ちていたことで、私はあれは人が意図的にやったのだと戦慄した。そして彼こそがその残虐を行った人物だったのだと、部屋で聞かされた。



「腹に枝が何本か刺さってたろ」



 実際に見た姿が、映像として頭に浮かぶ。確かに、お腹の切れ込みに何本か細い枝が刺さっていた。榊原君と一緒に下校した時、目を逸らしては駄目だと思い、勇気を出して近くで見た時に気がついたことだった。

 忘れることのできない光景。



「あれをやったのは、俺じゃない」



 私は手元をそのままに、見上げた。

 彼は変わらず自分の腕に刺さった針の先を見つめながら、続ける。


「確かに俺は猫を殺した。カッターナイフで耳を切り取って眼球をほじくって腹を掻っ捌いた。最後は口にカッターナイフを突っ込んで帰ったんだけど……」


 瞳のみをこちらに向け、私を見る。 


「……帰った"はず"なんだけど。

 それは勝手に抜けるものなのか。

 枝は、勝手に刺さるものなのか」


 彼が何を言いたいのか。それがわかったからこそ、眼光に貫かれたように動けなかった。

 視線に、本能的に感じる恐怖。

 何も言えず刺すような視線に逃げることもできず見上げていると、榊原君は瞳をそらし、また自分の身体に刺さっている針先を見た。



「北村、お前の周りをただ歩いている奴らは、お前が思っている以上に残酷な奴ばかりだよ」



 独り言のように「それが故に、お前は異常者なんだ」と呟いた。



 部屋で聞いた「自分だけがおかしいのではない」「自分は間違ってはいない」と自分自身に言い聞かせるような言葉とは違う、私に向けた言葉。聞きたくない、知らなくていいと見ないようにしていた部分を、引きずり出して突きつけるように。

 彼はずっと、人のそういう部分を見つめていたのだろう。自分が突出しているだけで、そもそも人間には猟奇的で残酷な一面があるのだと。


 そしてそれは……、

 本当に、そう、なのかもしれない。



 それを証明するかのように……あの猫には……。

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