金星と地球

 壁にぶつかった花瓶が派手な音を立てて割れた。そこから少し離れた壁際で、怯えた表情を浮かべる女を見下ろす。


 私はもう一度

「ふざけてるの?」

と繰り返した。


 彼女――祥子は何も言わない。否、言えないのだ。もう一度口にすれば、次に割れるのは花瓶ではなく自分の頭だとでも思っているのかも知れない。


 喉の奥が詰まって、頭痛がした。


 感情の爆発が体のあちこちでおこっている。震える指先で。大き過ぎる鼓動で。荒れる呼吸で。私はそれらを確かに実感しながら、けれど抑える術もなく、ただじっと彼女を睨み付けた。


「……ふざけてない」


 祥子は震えながらもそう言って、青い顔のまま私を見上げた。


「ならもう一度言ってみせてよ」

「…………もう、別れたい。もうあなたの恋人ではいられない」


 僅かな躊躇いの後、祥子は言い含めるように言った。耳鳴りがした。私はテーブルの上にあったグラスをもう一度壁に投げつけた。先ほどより祥子の近くで割れたそれに、彼女は明らかに動揺した。

 頭の中に冷静な自分がもう一人いて、ああ、もう少し左に投げなければいけなかったなと思った。祥子の綺麗な顔に傷でもついたら大変だから。


「許さない」

「……話を聞いて」

「私を愛してると言った癖に。誰よりも愛してると言ったじゃない。毎日一緒に眠って、毎日キスして、同じ食卓を囲んだでしょう。どうして今更そんな事を言うの。私に抱かれたその体で、次は誰に抱かれるって言うの」

「ねえ、お願いだから……」

「絶対許さない!」


 大声を出した拍子に、涙がぼろりと一粒零れ落ちた。そこまでしてやっと私は気付いた。私は怒っていて、けれど同じだけ悲しいのだ。この喉の奥が狭くなる感じ。泣きたいのに、上手く泣けない時の息苦しさ。


「――ッ」


 気付いてしまったらもう我慢はできなかった。次から次へと涙が出てくる。祥子が慌てて駆け寄って、私を抱き締めようと腕を伸ばした。


「いや……ッ別れるって言ったくせに」

「ねえ私たち、別れたって一緒にいられるよ」

「……そんなの違う、そんなの、私が欲しいものじゃない」

「私の愛が欲しいんでしょう? 誰よりもあなたを一番愛しているのに、わからない?」

「じゃあどうして別れるなんて言うのッ!」

「それは……」


 祥子は言い淀んで、一度ぐっと唇を引き結んだ。言うべきか躊躇っている。でももうここまできて、これ以上酷い言葉があるのだろうか。


 私を捨ててどこかへ行く癖に。私はそれが一番恐ろしいのに。


 沈黙していたのはそれ程長い時間ではなかった筈だ。けれどそれが一生続くかと思った。むしろ一生続いた方がマシだった。

 しゃがみこんだ私の背にそっと腕を回して、祥子はハッキリと言った。


「それが一番正しい形だから」


 こんな関係は、間違っているから。


 それは私と祥子の共に過ごした時間も、交わした愛も、全て無に帰す言葉だった。


「泣かないで……セックスしなくても一生一緒にいられる。恋人じゃなくても。あなたとなら唯一それができる。世界で一番愛してるよ。……恭子」


 泣き崩れる私の前で、祥子は一切涙を見せなかった。ただ、慰めるように背を叩いていた。キスをするでもなく、優しく。それが正しい姿だと、私に言い聞かせるように。


 水も花もなくとも、花瓶は花瓶なのだ。グラスのように水を飲む事はないし、ペンを差して置く事もしない。割れた花瓶は元には戻らない。


 私たちはどこまでいっても女同士で、姉妹で、どれほど体を重ねても、どれだけ全てが互いに馴染んだとしても変わらない。


 フロントで名前を記入する時、ショッピングで自分の代わりに相手に服を合わせた時、他人から必ず言われる呪いの言葉が私たちを明確に表す。


 血肉も魂も分けたのに互いを愛してしまうなら、初めから一つで産まれてこればよかったのに。


 祥子はいつまでも私の背を撫でてくれたけれど、もう二度といつかのように涙を唇で受け止めてくれる事はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

少女短編集 水飴 くすり @synr1741

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ