幻の方が都合が良かった

 いつか狂うだろうとは思っていたが、結局の所まぁ自分は健全なまま生きて適当なタイミングで死ぬだろうとも思っていた。狂うのも死ぬのも、きっと案外体力が必要だし。


 だからその女を初めて見た時、自分は意外と根性があるんだなと感心すらした。生き汚いとすら思った。


 女は丸テーブルに肘をついて、窓越しに外を見ていた。外に何があるという訳でもない。

 窓の前は1メートルあるかないか程度の空間しかなく、その向こうは灰色のビルが建っている。かろうじて陽の光が入るタイミングはあるが、それ以外の時間は常に薄暗い。女の黒い髪の毛は腰の辺りまで長く伸びて、まるで幽霊画のようだった。シャープな横顔。頬には長い睫毛の影が落ちている。


 カウンターキッチン越しに女を見詰める。指に挟んだ煙草はとっくにフィルターまで灰になっていた。不意に腹筋が引き攣った。――自分が笑っていると気付いたのは数秒経ってからだった。


「はは」


 正気のまま狂うというのは予想外だった。自分は正気だという事はわかっていた。

だって、あれが幻覚だという事がわかっている。幻覚を見て幻覚だと判断できるという事は、つまり自分は正気なのだろう。笑いが止まらない。


 女は振り向かない。ただぼんやりといつまでも外を見ている。


「考え事でもしてるの? そこに何か見える?」


 幻覚に声をかける。正気の沙汰ではなかった。けれどここには自分と幻覚の女しかいないのだから、幾らでも何だってしていい。

 女は答えなかった。薄く笑っているように見えるが、視線の先にはただコンクリートの壁があるだけだった。


「鳥でもいる? それとも虫かな?」


 気安く声をかける。煙草を流し台に放って蛇口をひねった。新しい煙草に火を点けて、深く吸い込む。煙が目に沁みた。

 潤んだ瞳を守ろうと咄嗟に瞼を閉じて、次に開いた時には女はいなかった。始めからそこにいなかったように。

 ただ無機質なテーブルとイスだけがあった。


 それから、女は気紛れに現れた。

 誰の気紛れかと言えば、この場合自分の脳みその、だろうか。

 キッチン、ベッドルーム、玄関の全身鏡の前で髪の毛を整えている事もあった。随分生活感のある幻覚だ。私はそれをぼんやりと眺め、時に話しかけた。返事がくる事はなかった。


「今日は仕事で後輩がミスしてさ、それでカバーすんのに駆けずり回って、もうへとへとで……」


 言いながら紫煙を吐き出す。彼女は今日はソファで脚を投げ出して寝ている。


「それで、ご飯でも行きましょうとか言うわけ。こっちはアンタのミスのせいでくたくたで、今すぐ帰りたいのにさ。ご飯食べてくださいって、最近会う奴みんなそればっかり言って、どんだけ太らせたいんだよって。笑えるよね」


 低く喉の奥で笑う。煙草を消して、新しい煙草に火を点ける。


「前に進みましょうとか、言うの。私のことなんだと思ってんだろうね。いや普通に毎日ただ生きてるってゆーか、毎日」


 毎日、ただ、ただ、生きて。


 ふと壁にかけられたカレンダーが目について、薄目でそれを見る。3月。捲られる事のなくなった、3月で止まったままのカレンダー。


「カレンダー、捲らないとね。ていうかもう、必要ないか。……」


 そう言いながら顔を上げると、ソファで寝ていた女が座ってこちらを見ていた。

 幻覚と視線が交わる。何か言おうとしたまま、開いたままの口。女は笑っていた。愛しい。愛しい。そう語りかけるような、柔らかな微笑。何も言わなくたってわかる。愛されている事。ただ幸福だと、毎日、毎日、その笑みを見るだけで思った。


「……まって」


 カスカスの声が出た。


「カレンダーだって必要ないって言ったのにアンタが欲しいって猫の奴買ってさ。私はインテリアとか拘りたいのに景観合わないって。このテーブルとかどうすんの。私がこんなキラキラした部屋に住んでるのやばいじゃん。アンタがさ、選んで、だから私」


 女はただ笑って、一瞬切なそうに眉を寄せた。唇が開いて、何か言っている。


 私には聞こえない声で。


「アンタはさ、幻覚じゃん。だってさ、幻覚じゃないと」


 私の脳みそが作り出した、まぼろしじゃないと。


「そうじゃないなら、もう会えない……」


 声が震えて、崩れ落ちそうな体を必死に支えた。何とか笑おうとして、失敗した。多分酷い顔をしている。


 幻覚が何か言っている。


「やだよ……待って……」


 ごめんね。


 言い聞かせるように、唇がゆっくりと動く。やだ、やだ。子供のように泣く私に、彼女は声にならない言葉をかける。


 愛してるよ。


 そんな事は、言われなくたって知ってる。


 毎日、毎日、顔を見るだけで、愛されている事がわかった。その目で見つめられるだけで。微笑みかけられるだけで。


 世界で一番幸福で、アンタに誰よりも愛されてるって。


 彼女が亡くなってから、四十九日。


 私はやっと泣けた。

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