第43話
川口さんに
パティシエさんたちも戻ってこないので、焼き菓子売り場に行こうという事になり個室を出た。
すると先ほどアキラたちが来た時は喫茶スペースにお客さんがたくさん居たのに、もう誰もいなくなっていた。
「あれ?さっきまでお客さんがたくさん居なかったか?」
「ええ。このお店は閉店時間が19時で、こっちの喫茶スペースは18時半でおしまいなのよ」
アキラが呟くと、吉野さんが答えてくれた。
スマホを見ると、いつの間にか19時近くになっている。
「あー、またお店の人に迷惑かけちったよ…」
「まあ今回は仕方なかったと思うよ」
「おじさんたちは気にしてないよ〜」
「風香が大声出したりするから…」
他にお客さんがいるといけないので、小さめの声で話しながら入口の方に向かった。
ちょうど川口夫妻がテイクアウトのお客さんの応対をしているところだった。
常連さんなのか、にこやかな様子で何か話している。
接客の邪魔になってはいけないので、ケーキのショーケースを覗いてみた。
予定より遅くなってしまったので、母上様に賄賂の一つも用意した方がいいだろうか。
そんなことを考えていたが、ショーケースにはもう何も残っていなかった。
やはりかなりの人気店らしい。
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「「…ありがとうございました。またのご来店を心よりお待ちしております」」
最後のお客さんを送り出した川口夫妻は、扉に掛けていたプレートをひっくり返し『CLOSED』に変えると、窓のロールカーテンを下ろした。
他のスタッフさんの姿は見えない。
奥で閉店作業中なのだろうか。
トシロウさんがアキラを見て困った顔をした。
「お待たせしてしまったね、真島くん。存分に選んで欲しい。と言いたいところだったんだけれど、あいにく焼き菓子セットもあまり残っていなくてね」
ふと見ると焼き菓子のディスプレイに布がかけられていた。
さっき見た時はある程度はお菓子の箱が並んでいたが、閉店前の駆け込み客にでも売れてしまったのだろうか。
巫女さんも売り切れで買えないこともあると言っていた。
「あ、そうだったんすね。なんか遅くまでお邪魔しちゃってすいませんでした。また改めて……」
「いやいや、お得意様に頼まれて取り置いた商品がキャンセルになってしまってね。これなんだが、君のご用向きに合えば購入してもらえると助かるんだが、如何だろうか」
そう言って一つの大きな化粧箱を取り出してきた。
中を見るとフィナンシェやマドレーヌ、ダックワーズにスティックケーキやマカロンなど豊富な種類のお菓子が詰め合わせれている。なおかつアキラの注文通り、全てきちんと個別包装された状態だ。
しかし、明らかに数が多い。30個なんて優に超えている。
絶対にお高いセットだ。
アキラが買おうとしていたクッキー30枚入りとはレベルが違う。
「すいません。ちょっと予算に合わないので、また改めさせてもらっていいっすか」
「そうかい?残念だなあ。これは今だけ3000円のセットなんだ」
「…そんなわけないじゃないですか。絶対6000円以上するヤツっすよ」
「取り置き期間が長くてねえ。賞味期限があと2週間しかないから、今日売れなかったら廃棄するしかないんだよ」
「そうなの。だからちょうど誰か買ってくれるお客さんがいないかしらって話していた所なのよ」
ニコニコしながら話す夫妻の様子にアキラがちょっとゲンナリしていると、川口さんに肩をポンポンと叩かれた。
「賞味期限間近のタイムセールなら仕方ないね〜。さーマジマジー、大人しく3000円払うんだ〜。あとラング・ド・シャも買ってくんでしょ〜?。あと1000円追加ね〜。あ、トシロウおじさん、ラング・ド・シャもお買い上げなので、1000円の缶の詰め合わせを1個お願い〜」
「おお、風香ちゃん。じゃあすぐに持ってこよう」
トシロウさんはそう言うと、焼き菓子のディスプレイの布をめくってゴソゴソしていたが、結構大きめの空色の缶に猫の絵が描かれたものと個別で何枚かクッキーを持ってきた。
これも、缶のサイズがさっきアレンくんと見た1000円で売られていたものと明らかに違う。
これ絶対に、在庫あるのに布かけただけだ。
もう隠し方が雑すぎて、疲れてきてしまった。なんの茶番だ。これも田中のいう所の、『自分がしでかした結果は受け入れろ』なのか。
とりあえず、帰りたい。
「……もういいです。今回だけはご厚意に甘えさせていただきます。ありがとうございます」
誰かに後ろからまたポンポンと肩を叩かれた。
顔を向けると吉野さんがにっこり笑って言った。
「奇遇ね。そのラング・ド・シャ、サキも大好きなのよ。ええ。心配しなくても大丈夫。賞味期限は2週間以上はあるはずだから」
「…トシロウさん。……申し訳ありませんが、そのラング・ド・シャ、同じモノをもう一つお願いしても良いでしょうか」
トシロウさんが笑ってもう一箱持ってきた。
レジに行き、一万円札で支払う。お釣りとして五千円札が一枚返ってきた。
アキラの手から一枚の紙が旅立っていき、代わりに同じような紙が新たに財布に舞い降る。とてもよく似たサイズと印刷の紙なのに、半分の価値しか無いのはなんでなのだろう。
さっき見た価格プレートの表示金額は、外税で1000円単位がほとんどだった。
この店ではもう消費税もどこかへ行ってしまったらしい。
アキラが資本主義経済の不思議について思いを馳せていると、ブリジットさんからクッキーを手渡された。
「なんだかお疲れみたいね。そんな時には、このラング・ド・シャを食べてね。はい、試食よ」
ナベちゃんと吉野さんと川口さんも同じクッキーをもらっている。
見てみると、中央が少しくびれた細長い楕円形のクッキーだった。
「…あれ?このラング・ド・シャって葉巻みたいに巻いてるヤツじゃないんすね」
アキラが摘んだクッキーを見てつぶやいた。
「君が言っているのは、多分ヨックモックのシガールのことかな?あれもラング・ド・シャの生地を使っているけど、フランスではこっちが一般的なんだよ」
「真島さん、食べてみて」
ブリジットさんから改めて勧められたので、そのクッキーを口にした。
少しざらざらとした生地の食感。
噛んでみるとサクッとした軽い歯ざわりとほろほろと溶けていくような口どけの良さを感じる。
「とても美味しいです。ごちそうさまっス」
アキラの感想を聞いたブリジットさんが嬉しそうに微笑んだ。
「ちなみにね。『langue de chat(ラング・ド・シャ)』は、日本語だと『猫の舌』って意味なのよ」
アキラはどこかで黒猫が舌を「ベーっ」と出している気がした。
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キャッシャーカウンター裏の作業台で、ブリジットさんがアキラが購入した焼き菓子セットに包装紙をラッピングしてくれている。
薄いベージュベースに色とりどりの花が散らばっている柄が可愛らしい包装紙だ。
お菓子の箱が左右に動くたびに花柄の用紙に包まれて、みるみるうちに綺麗にラッピングが完成した。
「このラング・ド・シャの缶もラッピングしますか?」と尋ねられたので、一箱だけ頼んでおく。どうせギャルどもは一瞬で食い尽くすに違いない。
ブリジットさんは、大きな紙袋を取り出してアキラが購入した商品を入れている。小分け用の袋も一緒に2枚入れてくれた。
その紙袋には、全体に『cheveux afro』というロゴと黒いブロッコリーのような絵が散りばめられていた。この間のケーキの箱に描かれていたものと同じデザインだ。
「そういえば、なんでパティスリーなのに、ブロッコリーの絵を描いてるんすか?」
何の気なしにアキラが聞くと、川口夫妻が大笑いした。
川口さんや吉野さんも笑っているし、ナベちゃんは困った顔をしている。
「だから言ったじゃない!あなたに絵のセンスは無いって!」
「そんなことないだろう。だが、ブロッコリーか!そうだな。今度ケーク・サレの食材にしてみるのも良いかもしれないな。パプリカあたりと合わせれば色合いも良さそうだしな」
「トシロウおじさんはケーク・サレも美味しいんだよ〜」
きょとんとしているアキラを見てブリジットさんが言った。
「ケーク・サレ(cake salé)っていうのは、塩味のケーキって意味なの。キッシュみたいなお惣菜系ね。たまに喫茶スペース専用でお出ししているの。みんなが甘いものが得意というわけじゃないでしょう?一緒にお茶に来られたけれど、甘いものが苦手。なんて方に好評なのよ」
「いや、そうじゃなくて、ブロッコリー、じゃなかったんすか?」
アキラが再度尋ねた。
「いや、すまないね。正解は、これだ!」
トシロウさんが、被っていた大きなコック帽をパッと取った。
そこから現れたのは、大きくて見事なアフロヘアーだった。
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