第35話

タイトル:

『五月某日のT市商店街通り魔事件時に使用された自転車におけるブレーキ制動性能試験』


試験内容:

 試験前に,試験員の体重,試験用積載機器を含めた自転車の総質量が100 kg±1 kgとなるよう調整用のおもりを追加する。ただし,製造業者が指定する最大総質量(自転車の質量,乗員体重及び積載する見の角質量との合計)が100 kgを超える場合には,その値を合計質量とする。

 自転車を規定走行速度で走行させ,180 N以下のブレーキ操作力により制動距離(制動開始地点から停止地点との直線距離)を測定する。

 試験結果は,5回の測定の平均値とする。



 木村さんの説明通り、外部機関による試験のようだ。

 その試験をアキラの自転車が受けている。

 繰り返し試験を行っているが、しっかりと規定の停止位置以前で停車している。




 いったい自分は何を見ているのだろう。

 木村さんによる性能試験解説も耳に入ってこないまま、アキラは動画を凝視した。




 動画を見終えたアキラがぼんやりとしていると、山場さんが戻ってきた。



「さて、我々がこのプレゼントをマスコミに発表するつもりがないので、君があの自転車で何かをしても我々に影響が出ないということは理解してもらえたと思う。

 もちろん、危険な行為や重大な犯罪行為にあの自転車が使用されたとなれば、非常に残念な話になってしまうがね。

 そして、このプレゼントは我が社の会長のワガママを発端とするものだ。宣伝のことなど気にせず、気兼ねなく使用してほしい。

 また、君が乗っていた自転車は、事件当時チェーンが錆びていたものの他の機能について特に問題なかったことを公的な機関が証明している。

 だから、もしも君が周囲の人間から『偶然うまく行っただけ』や『自転車が壊れていたかボケっとしていて突っ込んだんだ』なんて言われて萎縮してしまった。というような事があったのであれば、今の動画を見せてやりなさい。

 さて、これで君の懸念事項は大体解消する事が出来たかな?」



 山場さんの言葉に木村さんが続けた。

「アキラくん。この辺りで大人しく頷いて自転車を受け取ってもらえると助かるな。山場さんはこんな感じだが、優秀な営業マンでね。契約をまとめるまでなかなか諦めないんだ。今のうちに受け取らないと、もう一台自転車が増えるかもしれないよ?」


 アキラが正明に視線を向けると、微笑んで頷いた。

「ここまでしていただいたんだ。遠慮する方が失礼に当たるよ」




 アキラは立ち上がって、山場さんと木村さんに向かって深々と頭を下げた。




「皆さんのご厚意に甘えさせてもらいます。新しい自転車をいただき感謝しています。ありがとうございました!」



 山場さんは「うん」と頷くと何かの箱を二つ出してきた。

「やっとオッケーを貰えた。じゃあこれは君が頼んだ自転車とは別のプレゼントだ。ぜひ使って欲しいね」

「大事に至らなかったとはいえ、入院するほどの怪我をしたのも事実だからね。これが役立たないことが一番だけど、安全なサイクリングを楽しんでほしいという思いを込めたスタッフ一同からの贈り物だよ」


 2つの箱の中には同じデザインの色違いのヘルメットが入っていた。

 帽子のように完全に頭を覆うタイプではなく、ベンチレーションと呼ばれる空気穴が大胆に入ったタイプだ。格好いいモデルというよりも、すっきりとしたシルエットで、どことなくエレガントさすら感じさせる。

 色は黒1色のものと黒地に赤いパーツが組み合わされたパターンカラーのもの。


「これはまた、ヘルメットもお高いのにすいません」

「いえいえ。会長だけじゃなくウチのスタッフからも彼は人気があるんです。ぶっとんだスプリンターとしてね」

「あの、なんで2つも同じヘルメットを?」

「それはねえ、みんなでどのメットにするか採決をとった時、カラーリングについて男性陣と女性陣で揉めてね。男性スタッフはこの自転車には黒単色が良いといい、女性スタッフは赤と黒のものを推した。なかなか決着がつかなかったから2つ持って来たんだ。好きな方を使ってほしいな。余ったものはスペアでも良いし、お友達にプレゼントしても良いよ」


「ありがとうございます…」



「さて、これで今日の僕の仕事は終わりだ!木村くんも直帰で良いよ!すまないが、トラックの荷台で着替えるから作業着は明日まで積んだままにしておいてくれ」

「はいはい。わかりましたよ。それではお父様、コーヒーをごちそうさまでした。アキラ君、自転車を楽しんでね!」

「大したお構いも出来ませんで、失礼しました」

「山場さん、木村さん。自転車のことだけじゃくて、色々わかりやすく教えてもらえて勉強になりました。ありがとうございました!いただいた自転車は大切にします!会長さんやスタッフの皆さんにもありがとうございましたとお伝えください!」


 立ち上がった山場さんが正明に話しかけた。

「今の子は本当にしっかりしているねえ。あ、お父さん。この後なんですが、良ければ一杯行きませんか?僕も小学生になる子供がいるんですがね。ぜひお話を伺いたい」

「いやあ、願ってもないですね。ただ、大したお話もできないと思いますが、それでも良ければ。この近くに私の知人がやっている居酒屋があります。そこにしましょう。あ、アキラ、母さんに私の食事はいいと伝えてくれ。それとこの間言った防犯登録はすぐに行って来なさい。…じゃあ山場さんの着替えが終わったら行きましょう!」




 YMBのトラックは立ち去り、おっさん二人はどこかに消えた。まだ月曜だというのに。


 アキラが外出していた母の携帯に電話をかけて正明の外出と夕食が不要な事のみにいったを伝えると「せっかく自転車をいただいたお祝いに特上寿司を取ろうと思っていたのに残念ねー」と言っていた。深くは触れない。

 防犯登録をしに自転車屋に行くことを伝えて自宅を出た。






 夕暮れに染まる自転車屋で真新しい自転車に防犯登録シールを貼り付けてもらいながら、アキラはずっと考え込んでいた。






 あの日、アキラは確実に自転車のブレーキレバーを握っていた。

 握っていた指と手の平に真っ赤な跡が残ったほど、だ。

 それは勘違いや勘違いなどではなく、激坂で一緒に走ったハヤトも間近でアキラが何度もブレーキレバーを握っていることを目撃している。





 





 事件後、時間をさほど空けることなく実施されたあの実験の時、自転車のブレーキはちゃんと効いていた。


 それとなく木村さんに尋ねたが、不正疑惑が出ないようにそのまま検査所に回したので調整などはしていないとのことだ。

 確かにフレームが少し歪んでいた気がするので、調整するならそっちも修理していそうな気もする。








 真新しい自転車に乗り黒いメットを被ったアキラは、すっかり暗くなった帰り道をゆっくり進んでいった。

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