1556年 天下統一へ 1

 大内率いる西国政府軍が畿内周辺地域を制圧している状況で東国の現状を整理しよう。


 まず東国で力のあるのは四家であり、今川、武田、北条、そして上杉家である。


 上杉家は元々長尾家であるのだが、北条が関東制圧の際に旧上杉家というべき二つの上杉家(扇谷、山内両上杉家)を倒しており、その片方の山内上杉家が越後の長尾家に逃げ込んだのが長尾景虎(後の上杉謙信)が上杉家の家督を継承したために越後上杉家が誕生することになる。


 史実では1561年に家督継承、越後上杉家の誕生になるのだが、北条が図らずとも西国経済の恩恵を受けていたために史実よりも追い込まれた山内上杉家が前倒しで春日山城(長尾景虎の本拠地)に逃走し、結果上杉謙信が前倒しで誕生していたことになる。


 そんな上杉家(旧長尾家)であるが、大和平野の戦いで唯一戦果を挙げて組織的な撤退を完了しており、主要な武将らは戦死しておらず、越後領内で再度力を蓄え始めていた。


 ただ主要な産業である青苧が西国産の綿花や羊毛、麻等の工業化された繊維類に押されてしまい、思うように財源を確保することができていなかった。


 が、これで財政破綻するようでは軍神とは言われない。


 佐渡金山発見。


 天啓を受けたのか領内に山師を送った謙信は佐渡島にて金山を発見。


 その埋蔵量は莫大なもので、当時の世界最大の金と銀の鉱山である。


 それが、戦争狂である上杉謙信の手に渡った···


 灰吹法が伝播していないため純度は低いものの、それでも相当量が市場に流れ、軍備の強化に当てていく。


 紀伊を追われた雑賀衆等の傭兵集団や幕府方に味方したがゆえに討伐対象になった甲賀衆や伊賀衆等の忍び集団を吸収し、手始めに加賀の一向宗を攻撃。


 10万人以上を殺害し、加賀等の北陸一帯を短期間で支配するに至り、京への再侵入を目的とした軍事行動を行う準備を開始するのであった。






 次に勢いがあるのは後北条氏である。


 先ほど西国との経済の恩恵を受けていると言ったが、鯨油や菜種油等の油類や商人経由で綿花栽培が普及しており、関東平野の土地を利用し、戦争と内政を繰り返していた。


 その為史実よりも経済状況が良く、関東の残りの敵も里見、佐竹、山内上杉家残党のみとなるほどの勢力を保有していた。


 動員可能兵力は6万人に及ぶ。


 ただ旧幕府軍として参加するには公方方を担ぐ必要があり、ちょうど古河公方が北条家当主の北条氏康の甥であるので担ぎやすく、古河公方を担ぐ動きをしながら新政府とも関東を北条に任せてくれないかという地域覇権を目的とした交渉を行っていた。





 今川義元率いる今川家は足利家の連家の為、新政府とは血縁的にも敵対しなければならなかった。


 新政府軍が尾張に一万の軍勢を貼り付けているため、対抗してほぼ同数を貼り付けていた···が、今川義元は東海一の弓取りと言われているが、外交の方が得意であると同時に政治家でもある。


 自身が新政府軍には勝てないこと、今の国力では無限に駿河と遠江の国力を喰い潰す三河の維持ができないと判断し、新政府との武力衝突も辞さないという構えをしながら本拠地である駿河と策源地である遠江の二国安堵を引き出そうと交渉していた。


 新政府の反応がよろしくないと見るや、自身の娘を義植の息子である義望に嫁がせ、更には嫡男である今川氏真を京にて勉学を学ばさせる為と言い、実質的な人質に差し出すと言った交渉を続けた。


 新政府としてもというか義植も三河がすっごく面倒くさい(一向宗、統治者不在、当主を殺害しまくる家臣等)なので浄化作戦をするか今川に与えるか悩んだ末に松平元康(徳川家康)にぶん投げることを決めた。


 松平元康は地獄であるが、とりあえず今川家と交渉は成立するのであった。








 最後に一番困窮していた武田家はというと···灰吹法を大内が公開しなかった為に武田の金山は枯渇してしまい、財政破綻していた。


 田んぼは日本住血吸虫症という風土病が猛威を振るい、内政をするために戦争で拡張しないといけないという負の連鎖が起こっていたが、上杉謙信との川中島の戦い(第二次)で史実よりも戦力が劣っていた為に大敗してしまい、急速に武田家は力と求心力を失いつつあった。


 新政府と戦いたくても軍事費が抽出することができずに美濃にて交渉が行われ、財政再建の為に新政府を受け入れることに合意した。


 ほぼ全面降伏であり、上杉家とは対照的であった。










 1556年、京の治安が回復したとして体調が優れていなかった後奈良天皇が戦乱で出来なくなっていた譲位をし、上皇へ、今上天皇へは正親町皇太子が位を引き継いだ。


 それに伴い新嘗祭が盛大に行われ、朝廷との復興及び新政府の権威がここに確立したのであった。


 新嘗祭に伴い、朝廷に数々の宝物を私は贈った。


 明からの茶器、ペルシャの硝子の皿、ヨーロッパから贈られてきた銀食器···そして私からは今まで育てた作物の全てを纏めた全農集を納めた。


 新たに帝となった正親町天皇は贈り物を受け取り、私に征西将軍から内閣府の全てを管理する大臣···内閣総理大臣という役割が与えられ、従一位の地位が与えられた。


 皇族以外だと最高位に到達した。


 これで私の役職は内閣総理大臣、征西将軍、日本国王となり、日ノ本における官位を極めた。


 私は大坂御所にて惣無事令を発布し、全国において大名間での私闘を禁止した。


 そして室町幕府の全権限の破棄を宣言し、室町幕府の継承政府ではなく、真の意味での新政府が誕生した。


「さて、では次の段階に移行しようか」


 私は家督を大内義望に世襲させ、各種権限は握ったまま継承権を明文化させた。


 天皇をトップにあくまで政務の代行者が内閣総理大臣であり、それに伴う様々な法律を決めていき、50項目になる内閣憲法を発布した。


 私はそのまま甲斐の武田家のいる躑躅ヶ崎館に向かい、甲府再建の為の方法を提示した。


 まず米作りをやめさせ、小麦と果樹園、高原野菜やイモ類を栽培することで日本住血吸虫症を撲滅、それに伴う損失を新政府が補填するとしたことで武田家を新政府の下に置いた。


 これに伴い武田統治は終了し、新政府領域に組み込まれることになる。


「さぁ日ノ本統一総仕上げ! 乱世を終わらせるのだ!」


 北条は関東一帯の安堵を約束、今川との交渉も終了。


 残るは北陸と東北のみとなった。


 東北では惣無事令を無視して戦闘が多発しており、守ったのは交易を行っている最上家くらいであった。


 いよいよ大内による日ノ本統一の瞬間が近づいていた。


 大内義植26歳···若き大将による統一劇はザビエルは大王の降臨と日ノ本の奇跡と称された。

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