1557年 天下統一へ 2

 甲府からとんぼ返りで京に戻った私は、朝敵認定を受けたにも関わらず膨張と戦力拡充を続ける上杉家に恐怖を覚えた。


 畿内の敵対勢力を吸収したのはわかる。


 畿内に流れる錬成が未熟な膨大な量の金銀も佐渡島の金銀山を発見したからだとわかる。


 ただあそこは戦国大名以前の重臣も国人衆の寄せ集めで成り立っているので、こんな外交状況になれば主君パージして土下座外交しそうだが···


 それに佐渡島だって上杉家の直轄領ではなく、違う国人衆の領地だったし···


 まぁ都合は良いか。


 畿内の不穏分子は全てを上杉家に集まっていくし、悩みのタネだった加賀は上杉が根切りにしてくれたので後々の統治はやりやすそうだし。


「それよりも周辺諸国に注目しないとかなぁ」


 日ノ本統一の仕上げに取り掛かっていたが、台湾は送り込んだ家臣達や私が趣味で作った人型戦略兵(桃太郎等)の活躍で日ノ本に完全に組み込み、港の整備も進んでいた。


 そのまま倭寇退治としてフィリピンのルソン島にも進出を開始し、マラッカのポルトガル領や東南アジアのイスラム勢力とも連絡を取り合い、日ノ本の領土の確定化を急いでいた。


 ただマラニアやデング熱等の東南アジアの地域病に耐性を持たない日本人は台湾では殺虫菊だけである程度なんとかなったが、解熱剤としてキナ植物(キニーネの原料、成分の分離ができないため煎じて飲むくらいしかできないが、解熱作用があるので発熱する病には効果的である)を台湾で育ててもらったり、耐性を持つ肉人形を生み出すことで対応していたが、私が新政府関連で多忙になったことでルソン島から先の探検などが進んでいなかった。


 海図も九州、琉球、台湾、ルソン島のエリアと明の沿岸部の都市を繋ぐものはある程度できていたが、東日本が未熟であり、海図が立派な物が出来ているのに、国内の地図は数百年前の地図を今だに使っている始末。


 そこで畿内以西の地図製作を決定し、西洋の地図技術を使ったり、船を使った測量をしながら、地図を作り上げた。


 また、交易が大内に単独でやるのは得られる利益も大きいが、船が沈んだ損益もデカいため、堺商人や博多商人、各大名を招集して株式会社設立のお願いをした。


 株を分け合い、資金を集めて、利益の一部を出資者に還元する仕組みであり、貨幣経済が浸透していた西国の大名は貿易会社を設立することで、明を除く他国との貿易の自由化と解釈し、商人達はリスクを分散することを更に発展させて保険会社の様な組織を作った。


 なお一番株式会社の仕組みを理解したのは織田信長であり、新政府の大内家に組することを反対していた家臣達があっという間に幕府が倒れたことや伊勢討伐で北伊勢を領有化、寺領であった尾張の長島が一向宗がルソン島開発により寺領を織田家に金銭と交換したため、伊勢湾一帯を領有化に成功した能力で、親族、家臣共に誰も反対できなくなり、信長の先進性と独創性を遺憾なく発揮し、楽市楽座導入から始まり、織田家出資の株式会社を幾つも設立した。


 チーズ株式会社やバター株式会社みたいに各産業に対する会社を作り、楽市楽座によって自ら破壊した座に殴り込みをかけた。


 負けてなるものかと旧座の勢力や割り込んできた新興勢力との三つ巴状態になるが、結局税は徴収するし、競争の激化で工夫と品質向上が促され、尾張の製品の品質が急速に良くなっていき、西国とも殴り合える競争力を手に入れた。


 で、織田家の作った貿易会社は東国と堺の中間地点であることを利用し、今川や北条といった西国から領土安堵を許された勢力と共謀して更に北の伊達家と連絡を取り、大内家が台湾開発で利益が出せるようになったので、蝦夷地開発に取り組むことになる。


 勿論信長は蝦夷地の開発にどの様な道具や作物が良いか私に聞いており、貿易が活性化するならばと史実の北海道開発を参考に馬鈴薯や北海道でも育つ米、小麦、テンサイ(砂糖大根)を贈った。


 各国は反乱分子を蝦夷地に誘導したりして自国内の統治を容易にしたりして戦乱期から脱却した独自経済及び独自財源の確保に奔走することとなる。









「結局のところ私の時代というか百年以上かけて緩やかに支配層を血液汚染して真の意味での統一をするしか無いねぇ。まず目指すは連邦国家。ドイツ帝国や江戸幕府の様な大内家がドイツ皇帝将軍の役割を担い、構成国の上層部から行政官を選出するシステムを作らないと」


 大和平野の戦いで大内家の若年エリート層が壊滅的被害を受けた事を加味して大内家臣の血の汚染を続けていた。


 私の子供達を使い養子縁組を行ったり、その家の娘と婚姻を結ぶこと、あるいは私の娘と生き残った男児と婚姻成立させることで大内主要75家の現在半数と血縁関係を結ぶことができた。


 次は新政府···大内政府と皆が言うので大内政府と呼ぶことにするが、大内政府の行政官を貴族院の様な物を作り、政策を決定していく必要がある。


 ローマの貴族共和政に東洋の中華皇帝、更に未来のドイツ帝国をブレンドしたカオスな政治形態であるが、今民主政治に移行しても武士や貴族から猛烈な反発と国民の民度と教養が戦乱で終わっているので不可能。


 ただ農民でも能力があれば成りあがれるセーフティ仕組みを作ることを忘れず、貴族(武家含む)と平民の二つの階級に分離させた。


 ここで宗教勢力も平民に分類させたのがポイントで、宗教勢力の上層部は貴族に含むとしたことで、この時点で一旦宗教の分離を行い、武家階級は親族に移譲することを許すとしたので、平民でも血縁関係を結べれば武家として政治に参加できる権利を得れるなどこの時代としては先進的かつ流動的な政治形態になった。


 ただどれもこれも私があと50年は生きないと定着しない物ばかりであり、若いうちに天下統一を視野に入れられたから一代で大規模な改革を行えたのだった。








 次に新政府勢力内の金山銀山の国有化である。


 台湾でも大規模な金銀山が発見され、現在は明と同様に銀決済であるが、将来訪れる金本位制に向けて金の保有を進め、国内の銭や硬貨をコントロールするために金銀山の接収が行われた。


 毛利家には石見を取り上げた代わりというか安芸、備後、備中、備前、伯耆、出雲、美作と七国を有する時点で新政府からしたらこれを許す代わりに銀山は譲れよという意味でもあった。


 まぁ毛利家としては真珠養殖や美作で鉄鉱山が発見され、今後の鉄需要及び、広大な領土開発による作物で全然やっていけると判断していた。


 それに武田家の枯れかけた金山が灰吹法や南蛮吹で再度採算が取れるくらいに採掘され、台湾の金瓜石鉱山では金銀だけでなく銅も大量に産出し、国内の通貨が十分に潤うくらいの量を採掘することができた。


 これで新政府の財源は安定化し、大規模な道路工事や港の拡張工事が進むことになる。


 そしてキャラック船がの改良が進んだことでガレオン船に進化した船舶も各家が保有することを許し、日ノ本の経済圏は急速に一体化していくこととなる。


 それはまるで将来ドイツが関税同盟からドイツ帝国に進化したように経済圏から国を形成させていった。


 なお前年に毛利元就の娘で義植の嫁の春香姫から産まれたのが台湾の大種牡馬と呼ばれる大内兼続であり、台湾統治に大内の子が居ないと不味いということで台湾に送られ、人間戦略兵の12名に可愛がられた結果、10歳で12名全員を孕ませるという快挙、義植は自身が産み出した嫁(オタクな意味での)を息子にNTRされて絶頂したと日記に書き記した。


 これを見た歴史家はあまりの義植の業の深さに絶句するのだった。



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