1555年冬 大和平野の戦い

『松永久秀殿、この様な事になってしまい申し訳ない。三好政権が崩壊し、室町幕府が制御不能となってしまっている。これを西国政府としては日ノ本の新秩序に向けて動かなければならないと断定した』


『現在西国政府では日ノ本の拡張事業に邁進してきた。三好政権が続くようであれば我々は世界へ進むという選択が取ることができたが、こと、畿内のこれ以上の混乱は日ノ本に害でしかない』


『大内による新秩序創造に向けて三好はまだ必要としている。三好義継、彼を守り抜いてくれ。三好を守れるのはお前しかいない!』


「···乞食の様な落ちぶれた我ら松永兄弟を拾い上げてくれた三好長慶様はもういない。長慶様の御子息も変死···帝の号令が無ければ大内義植殿もこちらに来ることが無かっただろう···となると我が殿を殺したのは···」


「兄貴···」


「長頼、松永家は西国政府に降伏し、いち早く三好義継を救出、そして元凶である足利義輝を殺す」


「殿の体調が悪くなった原因は奴だ。暗殺未遂をしたこともあった。奴を殺すことで室町を終わらせる。長慶様が語っていた」


『久秀、見てみたくないか!人々が争うことの無い世の中を!』


『なぁ久秀、手伝ってくれ!私達で世界を変えるんだ!』


「···私の、我々兄弟の主は長慶様だけだ。彼の血族を守り抜く」


「おう」






 1555年11月···摂津にて西国政府各方面軍が合流し、朝廷の勅命を楯に石山本願寺に本陣を敷いた。


「顕如悪いな」


「いえ!征西将軍である義兄上の手助けをし、畿内が安定化しなければ信者達も安心してくらせませんので!」


 本願寺顕如···まだ13歳であり、父の急死により昨年12歳で石山本願寺の···全国浄土真宗のトップになっていた。


 教団の運営は主に母親が行っていたが、顕如は聡明であり、今回の騒動をしっかりと読み取っていた。


 それに父が無暴力主義を掲げていた為に石山本願寺は要塞化されていたが、僧兵の数が極端に少なかった。(史実では信長と敵対するに当たり再軍備を堺衆や各一向一揆勢力と協力して急速に軍事力を高めた)


 その為、顕如は石山本願寺を内閣府に提供することで私に服従の意を示した。


「石山は政府に従うと行動で示してくれた。石山の一向宗を中心とした一向宗の再編を頼むぞ」


 私は顕如と取引を行い、石山の接収の代わりに代替地を用意すること、一向宗の国を認めることを約束した。


 約束の地はフィリピン北部のルソン島を丸々教団の寺領とすることを約束した。


「日ノ本から離れなければなりませんが、今よりも教団の寺領が増えることや、天竺に行きやすくなるとなれば、海外の僧との接触を行い、堕落した僧の規律回復にもなるでしょう。弱者救済。大内が日ノ本の弱者を無くすのであれば、我々一向宗は弱者がいる場所に赴くでしょう」


 石山···大坂(昔は大阪ではなく大坂であった)の地に集結した10万の軍勢。


 そこに松永家は三好義継を擁して合流をし、畿内制圧の為の作戦が開始された。


 三好家残党は既に力を失い、室町幕府及び足利義輝を担ぐ勢力朝倉家、六角家、細川家、筒井家、そして長尾景虎(以後分かりづらいので上杉謙信で統一)までもがこの戦に参加した。


 最盛期の六角、朝倉宗滴が亡くなったものの権威は最高潮の朝倉家、毘沙門天の化身上杉謙信···


 対するは謀神毛利元就、鬼島津、大友の雷神や大軍師達···


 戦国時代のターニングポイントである、旧平城京があった奈良盆地···大和平野にて激突した。


 後の大和平野の戦いである。





 まず征西将軍側ということで西軍や西国連合、内閣軍とも呼ばれる軍勢は大和盆地西部にある生駒山地・金剛山地を占領、一方で東軍や幕府軍と呼ばれる軍勢は笠置山に陣を敷いた。


 両軍がは徐々前進をし、高田川と寺川に部隊は移動する。


 最初に動いたのは東軍の細川軍で、北上し、川を迂回、大和盆地中央を流れる大和川側面から朝駆けをしようと移動するが、毛利元就が蛍の動きがおかしいと言う理由から伏兵を看破。


 伏兵に夜襲を仕掛けるという普通なら起こらない戦術を行う。


 これに驚いたのは細川軍であり、奇襲しようとしたら奇襲されていたという訳がわからない状況に陥り、細川軍五千は二千名近く討ち取られ、細川軍は元々指揮官が不足(三好との抗争や内部粛清によるもの)していたために組織的な撤退ができずに壊走してしまい、毛利両川の軍勢に追撃され、大和川の支流に足を取られて溺死する兵が相次いだ。


 初戦を勝利に飾った西軍は翌朝から射撃戦に移行。


 大内本軍の国力に物を言わせ、新型の銃及び銃兵は戦列歩兵形式を採用しており、二列隊列により、射撃間隔の削減に成功していた。


 東軍は銃の充足率が低く、そして性能も低かった為に撃ち合いに負けてしまい、正面を担当していた六角と朝倉は午前中だけで三千名以上の死者が出ていた。


 これに状況が不利と感じた上杉謙信は連れてきた兵五千名を率いて山脈を突破、突如として金剛山の西軍陣地を強襲。


 防衛していた日向大名の伊東家はこの上杉軍の奇襲をもろに受けて崩壊。


 当主の伊東義祐含めた一門衆が大量に戦死する大損害を被り、陣を放棄して生駒山の陣に逃げ込む。


 金剛山の陣が燃えたことで異変を察知した立花道雪は右腕のかつ盟友でもある高橋紹運に退路の確保を打診。


 独断で大友軍の一部を後退させて生駒山の陣の防衛を厚くした。


 上杉軍は勢いそのままに生駒山の陣を落とし、西軍を包囲するために行動を開始したが、高橋紹運率いる大友軍と大内若駒衆と呼ばれる今回が初陣の若年兵が立ち塞がった。


 少年兵故に後方に回されていたのだが、戦国最強の一角である上杉軍と戦うことになるのであった。






 生駒山の戦い


 山を駆け上がる上杉軍に対して大友軍と大内若駒衆は火力を持って答えた。


「撃て!」


「木を盾に進め!森林地帯では鉄砲は本来の力を発揮できん」


 上杉謙信は銃が森林では射線が通りづらく、せっかくの遠距離攻撃の火力を活かせなかった。


 ···銃だけであれば。


 ドンドンドン


「ぐわぁ!」


 大砲の直射である。


 木にぶつかれば木が倒れて足が止まる。


 生駒山の陣に置かれていた大砲50門を全て投入し、山の一角が更地になるくらい砲撃を撃ち込んだ。


 しかしそれで止まれば戦国最強ではない。


 犠牲が出ようが突き進み、上杉軍と大友、大内若駒衆で斬り合いが発生し、生駒山の陣では血で川ができるほどの凄惨な殺し合いが行われるのであった。







 一方戦国最強の上杉軍が抜けたことにより東軍は押され気味になっていた。


 そして戦線を崩すべく控えていた島津軍が投入された。


「チェスト!!」


 筒井軍が弱いとわかると銃撃を浴びせ、怯ませた瞬間に突撃を開始。


 筒井軍は正面から陣を突破されて崩壊、そのまま幕府本軍に島津軍が突入した。


「崩れた!押せ!圧殺しろ!」


 大内軍も前進を開始し、川を渡って六角軍と朝倉軍を射殺しまくった。

 六角軍は死んだ味方を使って攻撃を防ごうとしたが、貫通力を高めた弾丸は距離が近づくにつれて死体を貫通し、後ろの兵にも致命傷を与えていく。


 そして島津軍が幕府本軍に突入したことで戦線が崩壊。


 朝倉軍が出血に耐えきれなくなり敗走を開始、横にいた六角軍も巻き込み、主力の二つの軍が崩れたことで東軍は総崩れ。


 後詰めとして来ていた北畠軍も崩壊巻き込まれてしまう。


 上杉軍は包囲の前に主力が崩壊したのを山から見ており、残った上杉軍を率いて北に統率を取りながら脱出。


 将軍足利義輝は島津軍によって捕らえられ、六角家、朝倉家は当主含めて、一門衆、重臣に次世代の若手含めて討ち取られて崩壊。


 浅井家も幕府軍として参加していたため浅井久政や重臣が戦死。


 北畠家は主要な人物は戦死しなかったが兵力を多く失い、当分行動不能。


 筒井家も島津軍によって根切りにされ、幕府軍側は上杉軍以外は大打撃を受けて急速に勢力を縮小することになる。


 一方で西軍も伊東家が壊滅、上杉軍と激突した大友軍と大内若駒衆も大打撃を受けており、大内の次世代を担う武将一族の嫡子が大量に戦死してしまうことになる。


 そのため家を存続させるために大内義植の息子達を養子に貰い、大内本家に図らず中央集権化ができることとなる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る