1553年〜1554年 征西内閣完成

 〜京 大内義隆の館〜


 京の一角に室町御所と同じくらいの大きさの屋敷があり、そこに義隆とその息子である亀丸は生活していた。


「父上、貴族とはここまで貧しい者なのですか? そして京とは人が多いですが、流行り病も多く、町中でも死体が転がっておりますが」


「京が廃れたのは応仁の乱による戦火からで、それ以前は日ノ本の中心として機能していたのだけどな···」


「私達大内の者がやるべきことはなんなのでしょう。兄上は征西将軍となり内閣府という幕府の対となる組織を作ったと聞きますが···」


「まぁ帝に言って作ってもらったのは私からだけどな」


「父上がですか?」


「幕府の権威は地に落ち、本来私が大納言になれる事がおかしいのだ。そもそも元を辿れば我が大内家は大陸から渡ってきた家故に、こうして高い位が与えられるのも力あっての事だからな」


「ならば兄上を支えるために私も内閣府に赴いて!」


「それはならない。私と義植が家を分けた理由は亀丸、お前を生かす為だ。山口大内家は朝廷と物理的な距離がある。距離を空けることで、血を伴う家督相続を回避したのだ」


「聡明な兄上がそんな無駄な事をしますかね?」


「ああ、聡明で冷酷な義植はやるだろう。陶隆房の粛清は民の力を利用したが、義植はやろうと思えば民意と言って人を誅殺することができる。兄弟であるが、家督を握ってなければ義植は本来の力を発揮できずに、亀丸が万が一当主として邪な者に担がれた場合···間違いなく殺される」


「私はそれを見越して亀丸を京に逃がしたのだぞ」


「なら私がやるべきことは朝廷と山口大内家の繋がりの強化でしょうか?」


「そうだな。公家として我々は生きる。山口ではできない政治工作を我々がすることにより大内は更に飛躍するだろう」


「はい!」


 亀丸は立派に成長を続けていたのであった。








 一方下関館では義植の長男である亀童丸と義植が話していた。


「父上〜」


「おお、亀童丸どうした?」


「父上、白いおしっこが出たんだけど病気?」


「え? 早くね?」


 数え年で七歳、つまり実年齢だと六歳で精通した。


 確かに体が大きくなったり肉つきが良くなる食事を与えていたが、流石に早すぎないかと思った。


 まぁ種無しよりは良いので良いことではあるが···。


 現在私の子供は千怜6人、文5人、ちよ5人、春香3人、皐月1人、桜花1人、樫1人、菊1人、御影1人で、男子10名、女子14名の24名にまで増えていた。


 最年長の亀童丸が七歳なので屋敷は子供の泣き声が凄いが、家臣達は産まれた子供が全員早逝しないで育っていることに驚いていたが···


 ちなみにちよは全員女児で相良武任が発狂していたりもしたが、他の家臣達は概ね喜んでいた。


 で、精通したので亀童丸を元服させても良いだろうということになり、烏帽子親には左大臣を歴任したことのある二条尹房殿に行ってもらい、大内継承者は名前の前に義が付く習わしと、帝から息子の元服するので一字考えて欲しいと願ったところ、「望」の字が贈られ、大内義望が誕生した。


 大内領内ではお祭りが連日行われ、義望は神輿に乗って宇佐神宮、太宰府、博多、宗像、下関、山口、そして厳島を順々に巡って大内後継者の元服を祝った。


 宇佐神宮を噛ませたことで各神社を蔑ろにしていないことを証明し、宗像神宮に立ち寄ることで海上権益をこれからも大内は守ること示した。


 厳島神社に神輿を奉納することで皇室を蔑ろにしないことを意味し、祭りということで大内が蓄えていた金をばらまいて経済を回すのであった。


 義植は上級貴族や名のある剣術家、大友の軍略家として名高い(立花道雪等の大友の武将の師であり、大内の武将からも軍略家、人徳共に名高い)角隈石宗が教育係を務めることになった。


 その為、義望は太宰府で教育を受けることになり、メキメキと知識を吸収し、その容姿も合わさって九州一の若者とか西国一の美男子と言われることになる。


 で、何をトチ狂ったか、信長は義望と同じ歳の妹が居るし、尾張一の美少女だから側室にもらってくれない? と市姫を送ってきた。


 家格的に本来あり得ない話なのだが、いち早く送ってきた事に誠意と信長の人柄を歴史と実際に文通したことである程度把握できたので悪意が全く無く、それでいて政治的な一手として溺愛する妹を送ったのだろうと判断した。


 実際市姫は幼いながら顔立ちは整っており、教養不足(大内家が異常)の所はあれど懸命に覚えようとする姿から私は義望の側室になることを認めるのであった。


 で、正室の方は京の近衛家から娘が送られ、婚姻が成立するのだった。


 大内義隆の代から高位貴族と三代に続けて婚姻したことにより公家として大内家は認められ、家格は大臣家と同等とされた。


 これを機に私は大内勢力圏に内閣組閣令を発布し、徳川幕府を模倣した政治組織を作る。


 まず大内の文治派を中心に今まで曖昧だった役職を整備し、各種奉行を創設、そして給金制度を導入し、内閣役人は銭にて給金を行う事が決められた。


 そして次に刀狩り令を発表、武器を回収し、代わりに金属製の最新の農具を与えた。


 回収した刀等は溶かして農具や火縄銃、大砲の鋳造に使われた。


 そして勢力圏内の大名の枠を決めや下関に大名の屋敷を建てさせ、妻子をそこに住まわせる決まりも作った。


 これは人質とも取れるが、船で直接移動できることや山口領内に大学が複数あるため、子供の教育を考えるとこちらのほうが良いと九州諸勢力の大名達は息子を下関へと送った。


 そして大名の格を決めるために刀狩りで武力抵抗ができなくなったことで大検地を決行。


 一年かけて検地を徹底して行った結果、まず大内領外では肥前75万石、肥後75万石、日向25万石、大隅27万石、薩摩30万石、筑後50万石、豊後68万石が判明。


 国持ち大名となっているのは三家で大友家、島津家、伊東家であり、大友家が豊後を中心に150万石、島津家が薩摩と大隅の57万石、伊東家が日向25万石であった。


 大内家は豊前、筑前、長門、周防、土佐、伊予半国で合計約210万石であった。


 ちなみに台湾の支配領域での米の生産量は現在約200万石であった。


 これに毛利も加えた大内経済圏合計石高は約900万石である。


 純粋な米の石高だけでこれである。


 しかも米所と呼ばれる地域が九州や中国四国は少ない上でのこの数値。


 これが大内の基盤の数値となる。


 それに植民奉行と海軍省いう部署を創り、各地の水軍衆から海賊行動の禁止と海軍への統合を行わせた。


 日本最大の宗像水軍が海軍へのを参加をいち早く表明し、島津、大友や九州諸将達も海軍へと合流、村上水軍は流血沙汰の大揉めが発生、毛利の小早川水軍が海軍への参加を決め、海軍最初の仕事が村上水軍の討伐になり、反抗的な一派は鎮圧される事になり、1554年をもって征西内閣の完成及び西日本政府と呼ばれる超巨大勢力の地盤が完成するのであった。

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