1552年 日本キリスト教会の苦悩
「ザビエル調子はどうよ?」
「義植様···いやなかなか難しい物がありますね」
「まぁこの国は豊かだからな」
ザビエルを中心としたイエスズ会によるキリスト教の布教活動は九州方面では史実よりも順調とは言い難かった。
理由として日に日に豊かになっていることや明日への希望を持てることがある。
貧しいから宗教に傾倒する者が多くなるのだが、大内政権が九州において基盤を固めていたことで戦国の世とは思えないほど平和な時間が流れていた。
それでも数千人がキリスト教に改宗しているのはザビエルのカリスマによるものであろう。
そんなザビエルから西洋諸国と接触してみてはいかがかという話がされた。
「日ノ本はイタリアの諸国に近いですな。イタリアという地域は義植様は理解は?」
「ああ、ローマのあるブーツの様な半島だろ。理解しているよ」
「どこからその情報を仕入れられるのか本当に疑問ですが、それは良いとして、あの国々でも統一されないで各国が分裂状態なんですよね。まぁあの地域が団結した場合ローマ帝国が再来するんですがね」
「それを言うと神聖ローマ帝国も諸侯に分裂していないか? あそこが本当の意味で統一王朝が誕生した日にはヨーロッパ最大の国が誕生するぞ」
「あの地域は義植様は既に知っていますがプロテスタントが活動をしていますので」
「そのうち大きな宗教戦争が起こるだろうな。まぁうちの国も宗教をどうにかしないとはいけないが···宗教勢力が力を持ちすぎなんだよ···」
「私ら的には義植様にも改宗してもらいたいのですが」
「何度言っても私は改宗は無理だって···」
そんな話をしていると、最近建造できたキャラック船の話になる。
「外洋船を手に入れたということは日ノ本も領土を拡張に?」
「まぁそうだな。東南アジア地域には国家の形になっていない地域がまだあるからな」
「それは聞いても?」
「それは勘弁してくれ。ザビエルは善人だが、他は違う人も混じっているからな」
と冗談を言いながらであるが、既に明と連絡を取っていた。
台湾を領有したことで次に目を付けたのがフィリピン地域であり、既に商人の一部が現地部族と物々交換を行っていた。
特にルソン島は文明レベルが凄まじく低い地域であり、少数部族がある程度あった。
台湾の近くであり、明には倭寇の拠点がある可能性が高いため占領したいと願いの文を送っていた。
正直文明があるミンダナオ島の占領は今の日ノ本の人口や技術では統治コストが嵩み、赤字を出す可能性が高いため占領は視野に入れていなかったし、朝貢国として認められているマギンダナオ王国(イスラム教の農業国)があるので占領すれば明と揉めるし、スペインがそのうちやって来て占領するので、その時に反撃して奪い、傀儡国にできれば上々程度に思っていた。
というか私にとって一番海外領土として欲しいのはオーストラリア大陸であり、あそこさえ抑えられれば第二の中華並の強国を誕生させることが可能だろう。
その為にルソン島とニューギニア島を中継地点として都市を築いて、オーストラリア北部に入植を進めれば、イギリスとの入植合戦にも勝てるだろう。(領有宣言が1770年なので二百年あれば十分に勝機はあると踏んでいた)
私が健康的に活動できるのが1600年頃まで、長くても1610年までと計算しており、それまでに天下を統一すること同時にスペイン帝国との植民地戦争に勝つ必要があると考えていた。
学力的には日ノ本の潜在能力は本願寺の寺領だけで当時のフランスと同等と言われるくらい国力はある。
問題は幾つにも分裂していることであり、領土を肥大化させることにより日ノ本国内で百万石以上の国が複数あっても大内政権の海外利権で圧倒し、人口を海外の入植に使うことで国力を上げながら大名の国力の均等化をも目指すことができた。
「それよりもキリスト教に改宗した人員をヨーロッパに送る計画があると聞いたが?」
「ああ、今年中に二十名ほど選び、十名がインドにある修道学校に入学してもらい、残りの十名にヨーロッパに渡ってもらおうと考えているが」
「修道士の学校は日本には建てないのか?」
「現状無理だな。修道学校を建てるには相応の信者が必要となる。信者の寄進によって学校経営が成り立たせる以上(ここで大内から資金提供を受けるとキリスト教が現地勢力に屈したと受け取られかねない為にザビエルはしてもいいと考えていても、部下達から猛反発されていた)今の信者数でやると信者の負担が大きすぎる」
それにキリスト教が孤児院を作って後々の信者を作ろうにも大内家が出資した孤児院が建てられており、キリスト教が付け入る隙が無かったのだ。
ザビエルは大内勢力圏を欧州勢力に負けない理想的国家と称したが、宣教師の部下たちにとって教えが全く広まらない異質な国に見られていた。
あと教えを守れば天国に行けるというのも良くなかった。
祖先の事を大切にするため、自身一人が天国に行くのは良しとしなかった。
個人主義主体のヨーロッパと集団主義的な日ノ本ではどうしても教義の一部を変更する必要が出るが、教義を変えるというのはキリスト教内での反発が凄まじく、これらの反発をザビエルの個人的統率で抑え込んでいたので、キリスト教に改宗する人物達はザビエルを徳の高い人物として見ており、それがザビエル個人のカリスマで成り立っていると私が言ったことに繋がる。
そんな日ノ本のキリスト教の起死回生の一手がヨーロッパへ日本の信者の派遣である。
日本の信者はとにかく誠実であり、堕落を続ける本国の神父達に今一度原点回帰をしてもらえたらというのであった。
あとは私の書いた親書をポルトガル国王に渡すためといのもある。
様々な思惑があり、留学者達は1552年の秋に日本を出発するのだった。
尼子が崩壊したことで日本海側で経済活動を自粛する必要が無くなり、文化都市の越前朝倉家と鮭等の海産物豊富な南出羽の最上家、同じく海産物や動物の毛皮が多い蝦夷の蠣崎氏と取引を開始。
和洋折衷の大型ジャンク船になっており、交易により東日本にも銭が浸透するきっかけとなった。
大きくなっていく内閣府の影響に三好家は危機感を募らせ、結果冬に足利義輝と和解が成立し、足利義輝は久しぶりに京へと戻ることができた。
ただ京に戻って早々、大内討伐の号令がかけられた。
理由として幕府に変わる武家政権を作り、敵対したとはいえ西国公方を吸収したこと、幕府の持っていた海外との外交権を奪った事、そして数年前に行われた尼子討伐命令を無視したことなど積もり積もった不満が爆発した。
これに対しての三好家からの回答は調子に乗るなであった。
警戒しているとはいえ、大内と三好家は戦火を交えていないし、交易で双方莫大な利益を出しており、三好家が将軍と和解したのは公方の権威をある程度回復させることで大内の新政権の牽制が目的であり、誰も故意に頭部への危険球を投げろ(野球でこれをやると退場処分になることがある)とは望んでない。
こうした微妙な情勢の中1553年が始まるのであった。
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