1551年 内閣府

 1551年も無事に始まり、尼子を屈伏もしくは滅亡させないと日本海ルートの航路を本格化できないなーと思っていた。


 貿易相手候補としては朝倉家と最上家が有力だろう。


 上杉家は青苧という繊維の産地であるが、戦気狂いの上杉謙信の代では正直取引したくない。


 というか公家達の中には青苧の権益を持っていた家が上杉家に乗っ取られる形で権利を失った背景もあり、公家の中では上杉家はやや嫌われていた。


 まぁ上杉謙信が明確に将軍に忠義を持っているため、足利義輝と朝廷の仲が険悪になっている現状、上杉謙信も公家達から扱いづらい存在なのだろう。


「時代は木綿! 羊毛ですよ!」


 と権利を失い逃げてきた公家達にせっかくなのでと食い扶持として木綿と羊毛の工場の権利を幾分か渡した。


 阿武川が流れる萩を港町兼工業都市として今年に入ってから整備を始めており、明から大量に送られてきた羊を改良し、萩近くの荒れ地や山に流民を使って村を作らせて、羊毛の生産拠点を整えていた。


 その羊毛や数年前から広めていた木綿を水車の力を使った紡績機を作り出して糸を作っていた。


 勿論木綿も錬金術師で改造して洋木綿に近くしており、紡績機に使用できるようにしていた。


 紡績機が一ヶ月に数台しか作れなかったり、水力なので立地的制限はあるものの、冬頃には紡績工場が稼働し、公家達(特に下っ端)は紡績機の仕組みを必死に覚えたり、作った布を色付ける為に染料の開発に取り組んだりと自身の食い扶持を稼ぐために必死になって努力をした。


 上層部の公家達は教養等の教師として太宰府や山口にある大学で教鞭をとっているが、教師の枠も限りがある。


 九州各戦国大名達に教養を教えると家庭教師の様な事をしている公家や、私の人体解剖図や中華から流れてきた医者や薬師から習って薬師として活動する貴族、自身の文化的教養を文化財を創り、売ることで稼いでいる貴族も居たが、全員が全員稼げるわけでもない。


 特に家柄だけの下級貴族はその傾向が強い。


 史実ではそういう貴族が大内の財源を傾けたのだが、私は彼らに職を与えようと必死に働いた。


 その一つが中華や西洋から流れてきた活版印刷技術を利用した印刷物の量産である。


 農書等の技術書は幾らあっても困るものではないことと、活版印刷であれば文字の崩しが抑えられて統一された文字で書かれるため読みやすいという利点がある。


 文字を覚えるための教材としても使える。


 ただ西洋で活版印刷が中華よりも発達した理由に文字数の少なさがあり、日本の様にひらがなと漢字が入り混じると比較的使われる事の多い漢字だけでも二千字もある。


 料理書では魚だったり野菜の名前で更に難解な漢字が使われる。


 この時代でこういった文字を扱えるのは貴族くらいであり、貴族の文字に対する教養の深さを利用して彼らに印刷業という職を提供した。


 日本語的には木版印刷の方が効率は良いのだが、人を多く使うという点(とにかく下級貴族に職を与える重視)で活版印刷を大内家では採用し、そこから発展して週刊誌が作られた。


 紙の需要増加により紙不足が大内では深刻になり、どうしたものかと悩んだが、前に食用竹を作ったが、それが水分に対してふやけやすい、発酵しやすい性質(体内で溶けるようにの工夫だった)が、これが短期間で竹紙を作るのに適している事が判明した。


 水害が多い村等に放水地(堤防をあえて低くして洪水の際に水がそこから流れて洪水の被害箇所を誘導する仕組み)や竹林を作ることは推奨していたため、そこに食用竹(あまり食べられなかったので紙用竹と以後呼ばれるが)の植林を勧めさせ、紙の増産体制を1551年中に整えた。


 水で浸して発酵した竹(本来一年浸けるが、紙用竹は一ヶ月程度で大丈夫)を水車を使った粉砕機で粉砕し、洗い、大釜で煮た後に繊維を取り出して、紙に漉く。


 これに中華で紙の職人をやっていた者が改良を加えたことで破れにくく、墨がのりやすいという最上位の和紙には負けるが、実用には十分かつ、竹が材料の為虫食いにも強い紙が完成した。(色はできたては薄黄色で年数が経つと茶色っぽくなる)


 最上位の紙は明から輸入することで賄い、大内領内では大量の書物が発行されることになる。


 特に週刊誌や貴族が考えた物語りが庶民にも行き渡るくらい流通し、山口文化と呼ばれる文化が花開くのであった。







 歴史家達は太宰府の書院に保管されていた週刊誌の原本と山口の書院に残されていた初版により1551年以降の西国情勢や庶民の流行が細かく記載されており、義植の子供の人数がこの書物によって正確に割り出され、ネット上で義植算という義植の子供の数を単位に玩具にされるのであった。


 ただ歴史家が台湾地域における90%が義植の子孫と言われるくらいには大繁栄することになり、台湾の日本化に貢献したと言われた。







 またこの年に春香が第一子を出産した。


 毛利元就は大層喜び、その喜びの勢いで子供作っていた。


 というか毛利家は元就が元気過ぎて生涯で三人しか妻を持たなかったのに、史実では11人の子供だったが、私に触発されたのか18人まで増えるのであった。


 父親の頑張り過ぎ(絶倫)に息子の毛利隆元は自身の息子よりも若い弟や妹がポコポコ産まれるのに家中統制が難しくなると泣き、私に


『どうすればええ?』


 と手紙をめちゃくちゃ送られてきた。


「女は家臣とくっつけて、男児は分家をたてさせろよ。毛利家も宗家に近い分家が壊滅しているんだから」


 とアドバイスを送った。


 というか中国地方の大名は分家だったり宗家がバタバタ死に過ぎである。


 毛利家は元就が異常に頑丈だが、酒毒だったり病弱な者が多く、宗家も分家も死にまくって次男の元就が家督を相続する羽目になったし、大内、尼子、そして毛利も含めて分家の粛清を三世代以内に経験しているので余計に一門衆が少ないのだ。


 これは九州の大名達にも言えるが···


 まぁ東北のハプスブルク家(伊達家)に比べたらマシかもしれないが···(婚姻外交をやり過ぎて親子喧嘩したら奥州全土を巻き込む大乱に発展、以後戦国時代終盤にならないと奥州の存在感自体がロスト)


 まぁ大内家の場合台湾統治の為に男児が幾らでも欲しいし、家臣の統制や有能な者に娘を与えたり、近隣大名との婚姻関係の強化に子供はいくらいても困らないので四夫人全員を毎年孕ませまくっているが。


 そんな子づくりフィーバーモードに突入(以後死ぬまで継続)したと同時に朝廷から官位上げないかの打診が届いた。


 というのも朝廷も明が私を日本国王に認めていることを知っており、そんな人物に正四位の太宰大弐の地位(まぁ色々兼任しているが)では格が足りないのではないかと言われた。


「うーん、でもこれ以上になると西国公方抜いちゃうからなぁ」


 と一応立てていた傀儡の西国公方こと足利義維のこともあり、一度九州や毛利といった西国の大名(実際は代理人達)を集めて幕府の扱いについての言及をしたが、共通認識として幕府はオワコンという感じであり、特に南蛮船の来航が激しくなった事や台湾開発による日本国外について触れる機会が増えたことで強力な政府を求める声が上がり、各家に明確な富を与えてくれる大内家(義植)であれば幕府に変わる政権を作って朝廷の合意の元であれば従うとした。


 ただ条件として一族の姫と側室でいいので婚姻関係になって欲しいと言われた。


 彼らからしたら一族と大内の繋がりを銭の関係だけでなく血縁になることで強固なものにしたいのと、本家に何か起ったときに大内にいる姫から産まれた男児を担ぐことで家を存続させられる···リスクの分散をさせたかったのだ。


 産まれた子供が分家を作り、活躍できれば更に実家の立場も良くなるのであちらにしては良いことづくめ。


 私が絶倫かつ、思考誘導がなければ中華の皇帝のように奥方同士での殺し合いが起こりそうであるが···


 まぁ私はこれを家の発展と九州勢力の安定のためと飲み込み、相良、阿蘇、島津、伊東、有馬家から姫が嫁がされた。


 相良は大内の相良と親戚関係なのに姫を出すとは···相良家は皐月姫、阿蘇は桜花姫、島津は樫姫、伊東家は菊姫、有馬家は御影姫と私は揃い合わせたかのように競馬に関連してねーかと思ったが、覚えやすいし、歴史に出てこない姫の名前なのでこんなものかと納得した。


 で、朝廷には従三位だけど他の公家とかとの兼ね合いもあるので西国統治に適した役職と台湾の統治に必要な国司と守護職を作って欲しいとお願いした。


 そしたらなんか征西大将軍の地位と台湾が私の地図だと四区分にしていたためか四つの国と国司と守護が私の長男達に与えられた。


 一応台湾国司が正五位、守護が従五位の地位らしいがついでとして征西大将軍記念に内閣府の設置を認められた。


 幕府が朝廷の書物等を管理する意味合いを持つが、内閣府は内閣が国の意思決定を朝廷の代理として行うという意味合いがあり、幕府よりも上の府であった。


 あと征西大将軍は南北朝時代に足利尊氏を討伐するために与えられた役職でもあり、朝廷から幕府を潰せという命令でもあった。


 三好政権にとっても寝耳に水であり、警告が飛んできたが、中華や諸外国との貿易において朝廷の代理人及び責任を取る立場がいなければならないことをあげ、あくまで西国統治の為の役職だと言い切った。


 で、三好政権と領地の分割案を打診し、土佐も大内領にしても良い代わりに伯耆以東は三好影響下とするという約束を結んだ。


 土佐一条家や国人衆は猛反発するが、逆らえば朝敵と言い、朝敵となった河野家が族滅したために一条家は折れた。


 土佐七国人と呼ばれた国人衆も折れた為、国人衆は理由をつけて領地替えを行い、反発したら武力を持って鎮圧していった。


 一条家は公家として山口に住まわせた。


 西国公方であった足利義維は内閣府に相談役という権威だけで実権の無い役職を与えて無力化、息子達も利用価値が消えたので人格を排出させて生殖能力を喪失させた。


 これにより朝廷を中心に山口に置かれた内閣府、畿内を事実上支配している三好政権、朽木の足利義輝の幕府と四つの政権が誕生するという混沌とした政治体制が確立することとなる。


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