1550年 蓬莱の薬
伊予へ二万の軍勢を伴う軍事行動をしてもなお大内は元気であった。
この時代万を超える軍事行動をした場合、勝ったとしても収穫量の減少などのダメージが表面化するものである。
特に畿内以外の地方ではより顕著に現れるものであるが、大内家ではこれに台湾入植事業や複数の事業を通常通り行いながら、軍事行動の影響が最小限に留まったことに大内の近隣大名は大内の力を恐れた。
なお義植は河野という弱小勢力(大内から見て、他国なら中堅程度の勢力)を潰すのに一ヶ月半もかかったのが問題である。
「大砲やそれを運用するための馬の飼育頭数の増加、そして馬車を作らせているから、馬車の技術を大砲に転用できないとな」
と私は考えていた。
馬車のサスペンションの改良は進んでいたが、まだ耐久性に難があるため、さらなる改良が進められている。
ファルコネット砲の方は一年かけて複製に成功しており、有効射程は400メートル、砲弾の重さで威力が変化するものの、1キログラムから300グラムの砲弾を砲の内部の煤のつき具合で調整しながら発射することができた。
400メートルは現代の大砲に比べて短く感じるが、弓の射程が平均80メートル(達人の中には400メートル飛ばす化け物も居なくは無いが)の為、山城で打ち下ろされる場面でもなければ大砲の方が射程が長い。
しかも弓では城門や城壁を破壊する質量は無いが、大砲にはある。
しかも火薬の量産も五年前から準備を始めていた為に生産可能になっていた。
そのため、今回河野侵攻や西園寺と一条の侵略にも火薬が大量に使われたが、大内領内での生産量で十分に賄えていた。
鉄砲の改良及び大砲の量産、機動力となる馬の増産といった軍事面の強化に徐々に踏み切り始めるのであった。
いつものように日明貿易をしていると明側というか皇帝が蓬莱の薬が欲しいと言ってきた。
というかこの頃の明の皇帝は仙薬等の薬を服用をしていた。
女関係により後宮で暗殺未遂事件が発生していたり、政務のストレス、元々短気の性格なため現世の苛立ちを抑えるため、日に日に老いから逃れるため等から薬を服用していた。
その為日ノ本にあるとされる伝説の霊薬を求め、本物であればどんな願いも叶えようとしてきた。
「さてどうしたものか」
賢者の石を使えば似たような物は作れる。
が、本当に不老不死という物は作れない。
肉体を取り替えるくらいのことをしなければ老いには勝てないのだ。
そこで私は体に毒となる物質を尿として体外に排出し、活力と胃痛等痛みを抑える薬を蓬莱の薬として贈った。
秋に欲しい物のリストを添えて貿易船で渡したが、冬にまさかの返事とお礼の【人員】を乗せた船が博多に入港するのだった。
手紙の内容を要約すると
『日本国王! あの薬まじやべぇ! あの薬を飲んでから体の節々の痛みや腰痛、口内の痛み(口内炎とか虫歯)が綺麗に消えた! まさに蓬莱の秘薬だ! お礼として明の門外不出の技術を特別に下賜しよう!』
とのことで中華から様々な技術者が送られてきた。
ピストンポンプの技士、船大工、織物の職人、紙職人、工芸家、儒学者等など···技術者が学者だけでなく馬や牛、豚等の家畜や珍しい植物の種も入手することができた。
しかも台湾を日ノ本の領土と認める書状に朝貢国同士の仲介までしてやるという超太っ腹。
博多の一角に中華街ができたが、彼らから得た技術により日ノ本全体で世界水準で劣っていた技術を吸収することとなる。
特に風車や水車の効率が上がり、使用用途が増えた事で米の脱穀や小麦の製粉は勿論、製油(油搾り)、製糖、製材、製紙、金属の精錬(送風機となる機械を動かすため)等幅広く使用された。
これにより労働者階級が増加し、更に加工品が作られることになる。
また台湾を一時的な占有を認めるではなく日ノ本の領土と認めると更に上の条件に変化した。
ちゃっかり日本古来の土地として北海道と樺太も追加した地図を明に送り、日本国王の領域と認めさせた。
琉球王国は別枠なものの、北海道と樺太を明に認めさせた事は後々大きく影響するのだった。
そして何より朝貢国同士での貿易の紹介が行われたのは非常に大きい。
特にアチェ王国と繋がりができたのは大きい。
流石に博多まで貿易で越させるのは難しいが、台湾の開発が進めば日本と中華と東南アジアの中継地点となるので東南アジアのイスラム教勢力とも貿易が進めば、後々の東南アジア進出に大きな繋がりとなるだろう。
それに東南アジアでしか栽培できない作物や工芸品は日ノ本でも重宝するし、イスラム関係でオスマン王朝との繋がりも期待できる。
そうなればポルトガル経由の西洋経済圏と中華主体のアジア経済圏、アチェ経由の中東経済圏と日本経済をリンクさせることもできるだろう。
そうなれば海禁で朝貢国以外の貿易を基本禁止している中華に代わって日ノ本がアジア貿易で頭角を現すこともできるだろう。
中華からは絞れるだけ金等の貴金属や宋銭等をを搾り取り、ポルトガルからは銀や人を持ち込ませて学力を更に増加させることができるだろう。
1550年頃、他の勢力はというと、三好が細川を追放して畿内の実権を掌握し、天下人となり、ようやく京での戦乱が一息つくことができた。
ただ三好家は幕府を潰す勇気が無く、将軍足利義輝との和解を望んでおり、義輝は三好から譲歩を引き出そうと交渉を繰り返していた。
他には武田信玄と村上義清が争った砥石城の合戦が勃発したりとまだまだ荒れもようの日ノ本である。
一方台湾の方に目を向けると入植から二年以上が経過し、既に10万人近くの日本人が台湾に流入していた。
必死の開墾で今年から本格的に稲が収穫でき、台湾北部地域ながら十万石以上の収穫ができていたし、部族の一部も武力を持って吸収に成功し、着実に支配領域を広げていた。
現在は台北県と宜蘭県に当たる場所が支配領域であり、簡易的な港の整備が行われ、ほぼ毎日船が台湾に入港していた。
主に食料品と衣類、道具類、医療品であり、現在は赤字を垂れ流しているが、今年からサトウキビや胡椒等の香辛料類、ココナッツやバナナ、菜の花等が育てられ、漁業でも桜エビやサバヒー等の魚が多く獲れるのでそれを食料にしたり、山口から改造した大型馬や牛を送り、台湾の開拓を支えたり繁殖させたりしていた。
台湾の代表者は伊藤宇治が就任し、香川左貫や阿武球磨が統治を支えていた。
まぁ彼らが代表をしているのは私の息子を後々台湾に送り領主とすると言ってあるため繋ぎではあったが···
まぁ台湾の方が温暖で農業もしやすい地域だから疫病と敵対部族のみ気をつければなんとかなったりする。
阿片栽培を行う部族もいた為薬の材料として取引されたが、精製が未熟なため効果は薄く、あまり広まることが無かった。
1550年大内家の税収現代換算で千五百億円を超えており(この時代の国内総収益が一兆円と少し)、日ノ本の全ての富の十分の一超えが大内家に集中している計算になる。
収入源は根幹となる農業もあるが、貿易による利益が大きく、日明貿易で毎年二百隻以上、南蛮貿易は五十隻近くの貿易船が博多か下関に入港し、交易で得た品を堺や東日本に輸出することでさらなる利益を得ていた。
大内ブロック経済と呼ばれる大内義植が作り上げた経済政策は現代で見ても異常な貿易黒字が発生し、イスラム経済圏と後々台湾を通じて接続した際に最高潮となる。
この有り余る材料を技術研究や文化育成、教育や内政に投入することで更に富を生む循環が出来上がっていた。
一方大内ブロックから締め出される結果となった尼子家は飢餓が発生し、三好、山口と両家と敵対していたこともあり、高値で食料を買うしかなくなり、石見銀山を保有していながら困窮する事態に陥る。
1550年は耐えることができたが、翌1551年は尼子領で記録的な大不作に陥ると尼子晴久が強権を持って出雲に他国の食料を徴収。
これに尼子最大の武力勢力である新宮党が反発し、晴久が誅殺を決意したという情報がどこからか(毛利)流れ、殺される前にと反乱が発生。
新宮党の乱と呼ばれる尼子勢力を二分する大乱となり、これにより尼子晴久が進めていた中央集権構想は破綻、しかも双方大出血で尼子の国力は大幅に低下していくこととなる。
まぁこういう民意が離れると大内が豊作だったり豊かだったりするのを国人達や民衆も知っているので1552年に山陰一揆という石見、出雲、伯耆、そして備後で二十万人が参加する大一揆が発生。
毛利が石見と備後を混乱に乗じて奪取するが、残り二国では尼子が割れていたことや、塩冶の乱等に見られるように尼子の急速な拡張政策や武力外交に国内の民意は離れていたため、鎮圧に失敗。
尼子に支配されていた備前、備中、美作等は独立、新宮党もこの混乱に飲み込まれて一族の多くが討ち取られ、尼子晴久は月山富田城に籠城するものの家臣に毒殺されて1553年に尼子は滅亡することとなる。
出雲、伯耆は加賀の様に一揆勢力が支配し、無法地帯となるのだった。
ただ、毛利がじわじわと国を切り崩していき、1558年には両国を平定し、安芸、備後、石見、出雲、伯耆五カ国を有する大大名に成長するのであった。
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