1547年〜1548年 第一子誕生 西国公方 琉球と台湾出兵

 千怜が無事子供を産んだ。


 体重が5キロ以上あるまんまるとした元気な男の子である。


「義植様、無事に男の子が産まれました」


「でかした。これで後継者問題が片付く」


 家臣達も私の後継者が無事に産まれたことに安堵し、各町や村ではお祭りが大々的に行われた。


 皆から祝福された男児は大内後継者が名乗る亀童丸の名前が与えられ、すくすくと成長していくことになる。


 男児が産まれたので他のむすめ達との性行為も解禁し、文とちよの二人(数え年で十四歳)とも交わることになり、春香も数え年で十四歳になってから性行為を始めることになり、四人とも毎年子供が産まれ、全員が二十人近くの子供を産むことになる。


 ちよは何故か男児が一人しか産まれなかったが···







 農民達に検地のお礼として衣服材料となる木綿の栽培方法を二年かけて調べたり、日本に土着するように改造を施し、各地にバラまいた。


 それに糸紡ぎ機を職人達に作らせ、回転脱穀機が安慈時代から広めていたので、その技術を応用すれば足踏み式の糸紡ぎ機はできる。


 ただこれは大きい為にインド式のチャルカと呼ばれる手回し式の小型糸紡ぎ機に近い物が農民達からは人気であり、足踏み式は町等で紡績工場を作り、集団化していくのであった。


 来年以降、木綿の普及により布の値段が安くなり、着る物が増えたため新生児が寒さにより体調を崩す事が大幅に減った。


 また私が水鳥ことガチョウを中華から大量に輸入し、改造の上で日ノ本でも生育できるように家畜化に成功すると、肉は食事に、水鳥の羽毛は布団やダウンジャケットに使われ、寒さ対策を講じた。


 他には竹の栽培を進め、それらは成長したら竹炭に加工し、冬の寒さを凌ぐ為に使われた。


 こうした寒さ対策を講じたことと食料事情の改善で、娯楽が少ないこの時代、性行為が盛んに行われて山口領内で人口が爆発するきっかけに繋がるのだった。


 また街道沿いに娼館が多数建てられたお陰で、そこから産まれた子供は大内家が引き取り、下関にそういった子供を育てる場所···孤児院が建てられ、優秀な兵が育てられ続けるのであった。









 ある時、私宛に手紙が届き、足利の家紋が描かれていたのでまた将軍から難題かと思ったら別の者であった。


 足利義維···堺公方と呼ばれる方で、私の祖父の大内義興が足利義維の父親を京から追放し、別の将軍を擁立させたことで京に入ることができていない人物であった。


 血筋的には普通に将軍になりうるものを持っており、父上が私の叔母を足利義維の正室に嫁がせているので血縁関係もある。


 代替わりというか引き継ぎが行われていたことで挨拶の手紙を出してきたのだろうと思ったが、実際には自身が将軍になれる道筋が途切れたので山口で匿ってほしいということだった。


 というのも京では前年に将軍に就任した足利義輝が六角氏の勢力に亡命しており、大魔王こと細川晴元が管領代行としてやりたい放題していて、晴元が京に将軍不在は不味いと足利義維を新将軍に擁立する動きをしていたのだが、細川晴元と足利義輝の電撃的和解により足利義維は梯子外しをされてしまったのだ。


 それでも諦めきれなかった足利義維は自ら軍を率いて畿内に進出しようとしたのだが、諸勢力から相手にされず、細川晴元の説得で、軍を解散し、現在は堺に駐留しているのらしい。


 今回の一件で細川晴元の粛清リスト入りしてしまったらしく、命の危険が高いので山口で匿ってほしいというのが手紙の内容で、返事も待たずに家族と共に山口に向かっている可能性が高かった。


 落ち目とはいえ将軍の一族···使い道は色々あるが、私の中では自身が将軍···いや、大御所(将軍の父親)として権威を持つ方法を考えついてしまった。


「クフフ、面白くなってきた」


 私は準備に取り掛かるのであった。











「ここが山口か。阿波よりもずいぶんと栄えているな」


「堺と同等···いや、それ以上に人の行き来が多い···おお、牛車がおります!」


 足利義維だけでなく、それについてきた数少ない家臣達は山口の町の栄え具合に大いに驚いていた。


 そのまま山口館に赴きまだ当主である大内義隆と来年から当主になることが決まっている義植に挨拶を行う。


 ただ官位的に義隆、義植の方が足利義維より上の立場にいる為下座に座る。


 そこから挨拶や住むところ等が決められ、元々公家が住んでいたが、大宰府再建により空き家になっていた屋敷が足利義維の為に渡された。


 足利義維はその屋敷を改装して山口御所と名乗ることになる。


 御所が完成したある日、大内義植が趣き、自らが料理を作り、我々に振る舞った。


 大内領内で穫れる作物や海の幸の数々に足利義維や家臣達は食べて、飲んで疲れを癒した。


 数時間後、屋敷は義植の兵が入り、排出された人格の掃除をしていた。


「これでよし、足利義維とその家臣は傀儡になってもらう」


 足利義維はこれで実質死亡し、幼い息子達が残るだけとなった。


 息子達は傀儡にした足利義維の命令で大内義植に育てられることになり、彼らも洗脳教育を受けることとなる。









 足利義維を私が操り、大宰府にいる殿下(常盤井宮恒直親王)に下座で挨拶を行い、空位となっていた太宰権師(太宰府のNo.2)に殿下と朝廷より認められ、自らを西国公方と名乗らせた。


 九州探題が機能停止していたために足利義維名義で九州探題を復活させ、探題の長官に大友義鎮を任命した。


 これで九州における序列が決まり、太宰府が政務機関であり、武力は九州探題と九州における政府と軍部の組織構築に成功した。


 これで九州においての政治機構は分散され、政府がある太宰府、国際貿易港と経済都市である博多、九州探題所在地の府内、山口御所のある山口、銭座や金貨、銀貨の鋳造所(中央銀行)がある下関と経済と政務、軍事権の整備はこれで完了した。


 幕府は西国公方を勝手に作った事に激怒していたが、幕府の権威が朝廷の領土を掠め取った事や管領代行の細川晴元が暴れまわったこと、対大内の急先鋒の尼子は畿内方面への拡張で西への侵攻を諭す幕命は無視、四国勢は細川晴元に振り回され続けて弱体化と幕府から見たら西国全体が結託して新政府を作ったようにしか見えないが、自らの所業や歴代将軍が起こしてきた室町幕府負債により西国は制御不能になった。


 朝廷の方はというと大内他九州や中国諸勢力が朝廷や公家の権威を守ってくれることや、食料や銭を定期的に贈ってくれる為に好意的であり、日ノ本の皇帝は天皇であるが国王の位を明から与えられた件は特に問題視しなかった。


 というのも大内がこれで親王を名乗ったりしたらブチギレていたが、朝廷から与えられていた太宰大弐やあくまで朝廷から与えられた官職を名乗り続けていた為に見逃された。


 日明貿易では明を立てて日本国王の書面を使っていたが···






 で、1548年に中華にお願いして貿易量を増やすし、今まで以上に倭寇をなんとかするので倭寇の拠点となっている島の占領を許してはくれないかと日本国王名義で送り


『是非ともやれ』


 というOKが貰えたので、倭寇の拠点になっているということになった台湾占領のお許しを得れた。


 何故中華にお願いしたかというと通り道の琉球王国を通過するため、中華の朝貢国である琉球を何も言わずに占領したら、中華との貿易停止処置もあり得るので、それに対しての配慮である。


 この手紙を明に送った時点で九州諸勢力に常盤井宮恒直親王と足利義維の連名で南方制圧命令(台湾侵攻命令)が送られ、宗像水軍を中心とした各地の水軍衆と各勢力を集結させ五万人の軍勢を乗せて、明側から手紙が届いた時点で台湾侵攻を開始した。


 先鋒は島津家であり、侵攻命令が届くとそのまま琉球に船を送り明側から倭寇の拠点を潰すために軍を送っても良いってなってるから軍を送るねって手紙を送ると、琉球側は


「は? 明から何も言われてないが? 軍送ったら抵抗するかんな」


 と言われた。


 この返答に島津は制裁を決め、島津領内や大内領内で量産化されていた火縄銃(大内家は火縄銃の生産に成功してから量産を開始し、島津への武器援助として結構な量産の弾薬と一緒に贈っていた)を二千丁と兵士四千名、船八十隻を投入した。


 結果九州諸勢力の本隊が到着する前に琉球の各島は占領され、琉球王朝は島津の当主の息子に娘を嫁がせること、島津による統治を受け入れること、現王は退陣させ、幼い息子を王位を継がせて、その王の側近を島津側の人間で固める、島津軍を駐留させる、島津に税を納める等の取り決めを行い傀儡化した。


 本隊が到着すると琉球で補給後に台湾に侵攻、この台湾侵攻に集められた兵や将は菊池の乱で領土を没収された国人衆や没落していた名家等や流民等であり、万が一失敗しても国内の経営は問題ないようにしていた。


 台湾への上陸は特に抵抗する勢力が居なかったのでスムーズに行われ、砦が幾つも作られた。


 大内としても食料や武器、道具類を大量に贈り、元武断派で肩身の狭い思いをしていた者達を送っていた。


 ガチの植民事業なので私が作った人造人間の量産タイプの女を定期的に送り、私の命令が次世代で行き届くように細工をしていた。


 他には伊藤(宇治)と香川(左貫)、阿武(球磨)という安慈時代に苦楽を共にした三人に台湾統治やそこで育ちやすい作物、内政計画書を持たせて、台湾に送った。


 私の代役なので三人は将として扱われ、私の計画以上に台湾開拓を進めていくことになる。







 まぁ台湾はどの勢力も居ない空白地帯であるが、部族単位では存在し、特に首狩族が多くいること、疫病の蔓延などで琉球統治で抜けた島津軍以外の約四万五千人の兵は一年で五千名が命を落としてしまうが、部族を武力や食料供給、強烈な同化政策、日本語の普及、義植が蚊取り線香(除虫菊)の普及により沿岸部から支配領域を拡張。


 博多からも交易船を多く出して支援し、気候的にサトウキビと米の栽培に適していた為に水害や台風の被害に悩まされながらも農業と中華と日ノ本との貿易拠点として発展していくこととなる。

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