1547年 九州争乱 大内検地

「···これは駄目だな。勝負がもう決まったか」


 大内義隆は家中の情報や町の様子、公家達からの評価を聞いて大内義植が自身の土台をガッチリと固めた事が否が応でもわかった。


「晴持が生きていればこのような事にはならなかったが···義植がいなければ文治派と武断派の争いが激化し、国が割れていた可能性も高い···ともあれ家督を亀丸に移行させれば私の命が危ないか」


 息子に家中の権力を握られたことで、権威だけが高くなり続けた結果、大内義隆は過去の人になってしまった。


 ただ表向きは大内義隆が多くの権利を握っており、明からの日本国王も義隆だし、従二位の官位も義隆、大宰府の実権も義隆が握ってはいたが、どれも義植の紐付きであり、これではもう義植に家督を継がせるしか無いと確信した。


 ただ下手に家督を譲れば命よりも大切な亀丸がどのような扱いをされるかわからない為に結論を先延ばしにしていたのだが、隣である大友家で息子である義鎮が反大内であった父親と腹違いの兄弟、父親の側室に自身に反感を持っていた家臣もろとも大友館の二階で殺害する二階崩れの変が発生し、義植と義兄弟の契りを結んでいた親義植の大友義鎮が家督を奪取したことで、自身も危ないのではないかという疑心暗鬼が発生する。


 そこで彼が出した結論は


「義植、お前に大内の家督を相続させ、私と亀丸達は上洛し、京にて屋敷を構えることにする。武家の大内はお前に託し、公家の大内として生きることにする」


 という大内義隆なりの生存戦略を発揮した。


 引き継ぎは一年かけて行い、明に代替わりをすることや引き続き貿易の継続をお願いすること、名門大内を継承するため、太宰大弐の地位を譲る事、京の大内家の資金をいかほどにするか等の取り決めを行い、大内義隆は流血を回避して家督を相続させることに成功し、しかも亀丸は公家としての大内を継承させればどちらかの家がコケても大内は残るという算段であった。








「父上はうまいこと権威を譲ってくださった。これで問題は片付いた」


 今までは継承権第一位でしかなかったが、当主代行へと立場が変化し、大内の軍事権、外交権、経済権を掌握し、大内という巨大勢力の権限が一気に集中した。


 朝廷と幕府に代替わりした事を伝えると、幕府はなら上洛して幕府再建を手伝え、手伝わねば貿易の権利を剥奪すると脅し、一方朝廷からは正四位太宰大弐及び民部省長官(税収を管理する役職 鋳銭司の関連かつ上の役職でもある)と父上が何故か貰っていた伊予介(伊予の国司の一つ下の位)から一つ上の伊予守の地位が与えられた。


 瀬戸内海を挟んで伊予の国は河野氏と土佐一条氏他国人集団が統治するカオスな国であり、伊予守が空位になっていた。


 三条度のが朝廷に瀬戸内海を大内の勢力で固めることができれば更に交易が盛んになり、京への貢物が多くなると説得したことでこの地位が与えられた。


 伊予への侵攻する大義名分が得れた事になる。


 宗像氏や村上氏といった強力な水軍衆が健在な為、瀬戸内海の渡航は問題ないが、いかに早く港を抑えるかが鍵になる。


 伊予侵攻もそうだが九州では島津が肝付氏を侵攻中であり、それを経済的に支援しなければならず、筑後では大友義鎮の叔父である菊池義武が堂々と義鎮に反乱を起こし、周辺の国人衆も参加した大反乱が起こっていた為にそちらは大内軍も出撃した武力鎮圧をしなければならなくなっていた。


 現在冷泉隆房を大将に、大内の次世代を担う若い武士達(私の元小姓、現在は側近衆)も兵一万と共に出陣しており、私の強化兵も約半数の五百名が龍円隆信に率いられて戦闘に加わっていた。


 ちなみにだがこの戦闘には少弐氏残党も菊池の反乱に参加しており、再興した龍造寺家もこの大乱に菊池側として参加していた。


 菊池諸兵力は一万二千に対して北九州連合(大内、大友、阿蘇、相良)の合計四万が行動を起こしており、北と東と南から圧力をかけていた。


 私は引き継ぎ作業があるので参加しなかったが、後々大友の三宿老(戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理)と呼ばれる面々が大活躍し、菊池方五千対大友軍六千が激突した。


 普通本家がごたついていたら助けるのが筋であり、しかも叔父という血縁的にも間違っても反乱を起こしていけない時期かつ血筋なのに反乱を起こした菊池家の討伐に奮起した大友軍が川辺に誘い込み、川を渡河した相手の後方より左右より迂回していた別働隊をぶつけ、三方向から包囲戦に移行し、菊池方が二千人以上戦死する大敗が戦局を決定付け、北九州を巻き込んだ大乱は半年で菊池氏の滅亡、筑後肥前の菊池氏の領地は大半を大友が吸収し、龍造寺氏もこの戦いの最中、家長だった者が陣没してしまい、混乱しているところを大内軍が急襲し、壊滅させていた。


 お家断絶は免れたものの大友配下に組み込まれ、史実のように九州三強になる目は潰えた。


 なんの因果か、龍円は龍造寺家縮小に伴い浪人になっていた鍋島親子をこの戦いの後に雇い、後々鍋島直茂になる若者を小姓として側近に置くのだった。


 ちなみに龍円は年収として千貫(現代換算で一億五千万円ほど)の給料を私の側近頭として貰っていたので、鍋島親子を雇っても全然平気であった。


 龍円は兵達を率い、自らも太刀を振るい、兜首を五名も討ち取る戦果を挙げ、褒美として給料が千五百貫にまで上がるのだった。


 一方南九州でも菊池の大乱が終わる頃に肝付氏の大隅の平定を完了させ、肝付一族を島津に吸収することに成功する。


 1547年の1月から8月まで続いた一連の戦いを九州争乱といい、北九州における大内及び大宰府の権威向上、大友、島津の大幅な領土拡大、南九州三州(薩摩、大隅、日向)のパワーバランスの崩壊が決定的となったのだった。










 私は家督相続の引き継ぎをしながら、お腹が大きくなってきた千怜の相手をしたり、大内内政五カ年計画の総仕上げとして検地を行った。


 反対意見が農民達から出るかと思ったが、私の人徳が効いたのか、大きな反発も無く、かといって人員への接待はあれど賄賂が横行したという密告も無く、一年かけて予定していた検地は秋の収穫をもって完了し、大内領内の人口がおおよそわかった。


 総人口は長門12万人、周防9万人、豊前9万人、筑前14万人の合計約44万人。


 米のみの石高は165万石、人口最大の都市は博多、二番目が山口。


 最大動員可能兵数約4万人。


 これらが今回の検地で判明した。


 ちなみに私の記憶では美濃と尾張はそれぞれ人口が30万人ずつであり、そりゃ織田信長が尾張と美濃を抑えたら人口面だけなら四カ国抑えてる大内よりも上であるという結果が判明した。


 畿内統計も確かこの時期200万人の人口が畿内に住んでいたハズなので、それを超えるには中国地方全域と四国、北九州の一部を加えてやっと畿内人口に並ぶ。


「いかに人口を増やすかが焦点になるかな?」


 経済力では大陸との貿易があるので負けてはいない。


 ノッブこと信長が上洛するのが1568年、その前には三好政権もあるが、これらと戦う為には十五年は人口増加政策をしなければならないだろう。


「九州は残すところ肥前を安定化させればひとまず太宰府の権限で纏まる事ができる。琉球を軍事占領もしくは婚姻政策で前線基地化させて、台湾出兵が五年以内にできれば万々歳か。台湾より南は今の日ノ本の航海能力と造船技術じゃ航行不可能だしな」


 台湾が片付く頃には尼子が三好政権とぶつかるか、内乱により衰するだろうから、それまでは伊予侵攻以外は大きな軍事行動を起こすつもりはない。


「さてどうなるか···」


 日ノ本の未来の為に私は動く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る