1541年 九州散歩 肥後の龍造寺隆信(円月)

 さて、私が島津を何故優遇したかというと島津が一番琉球貿易を活用できるからという考えだ。


 現在東アジア周辺では倭寇(海賊)の活動が盛んであり、それを恐喝して無理やり被害を抑えていたのが大内家であり、だから国主でもない一大名の大内が日ノ本の勘合貿易を牛耳ることができていた。


 それに対して琉球も独立した国であり、島津の内乱が収まれば島津ー琉球ー明(中華)のラインで貿易することが可能であり、大内が機能不全に陥っても、こちらで貿易をすることができるので事実よりも銭不足をなんとかできるのではないかとか、九州三州で島津は満足するため、三州の経営に注力させて私は薩摩で掘れる火山灰を輸入してローマコンクリートを作れれば良いと考えていた。


 私の能力があれば様々な作物を栽培できるので、九州北部を大内と大友、南部を島津による三国統治構想により明や後々の南蛮貿易を活性化させ、南蛮船の技術をコピーして東南アジアへ侵攻するプランを私は練っていた。


 明へは椎茸や俵物等の海産物の干物、茶、刀や扇子等の工芸品を輸出し、明からは生糸や鉄、書物等を輸入したいと考えていた。


 まぁ明も後々混乱するので台湾、フィリピン、インドネシア、ニューギニア、そしてオーストラリアに植民し、民を根付かせることができれば神が言うような大航海時代を耐えることができると私は思っていた。


 早期に戦乱が沈静化すれば人的に余剰が出るため、それを海外に目を向ければ良い。


 と、実現できるかわからない構想を練っていたが、薩摩を出る際に私に弟子入りをしたいという人物が出てきた。


 名前を球磨という足軽の子供であったが、私の教えに感銘を受けて弟子入りしたいと着いてきた。


 特に断る事もなかったので一人旅から二人旅へと変わるのであった。








 年を跨いで肥後に入り、村々を救っている最中、とある寺に泊まらせて貰った時、球磨に私は質問をした。


「時に球磨、お前は武士になりたいか?」


「そりゃあなりたいが、俺には父さんや兄さんみたいに槍を持って働くくらいしかできねぇぞ」


「今はそうだろうが、後々武家に私が教える知恵を買われて仕えることがあるかもしれないぞ」


「俺がか?」


「農業の知恵があれば人々を救えるのだ。そして将たる知恵があれば民を率いて民を乱す賊と戦うこともできる。村々のいざこざを収めるにはどうしても武力も必要になるのだぞ」


「でも安慈様は強そうには見えねぇが」


「元々病弱でね。今はだいぶ良くなったが、まだまだ気を抜くと病魔に蝕まれるのでな。こうやって薬を毎日飲んでいるのだよ」


「俺にも飲ませている薬か?」


「少し違う。私が飲んでいる薬は病魔を祓う薬で、球磨に飲ませているのは体を大きくする薬だ」


「大きくなるのだか?」


「ああ、これを毎日飲んだ者は七尺(約二メートル十センチ)もの大きさになれるぞ」


「七尺かぁ! そりゃでけえな! でかけりゃ田畑を耕すにもええな!」


 この時代男が大きく、そしてふくよかなのがイケメンの基準とされた。


 ただ女は小さい者が美人とされ、身長百五十センチを超えると、男女と呼ばれ、醜女扱いであった。


 平均身長が男でも百五十半なので、それよりも六十センチ近く大きければ、もはや化け物の域である。


 球磨は七尺がどれくらいの大きさかイマイチピンときていないっぽいが。


 そんな話をしたり、字の読み書きを教えながら、更に北上し、私は寶琳院という寺に着いた。






 そこには円月という若い(私の一つ上)の僧が居たので色々と問答をしたら意気投合し、三日三晩私の知る異国の物語(チンギス・ハンの生涯や始皇帝の話、歴代ローマ皇帝の生涯等)を話したり、寺で酒造り(獨酒)をしていると知ったので、その麹を使い、小麦を使ったパンにこしあんを詰めて焼くと私は見慣れたアンパンが完成した。


 それを食べた円月に


「寺で住職をやるよりも円月の豊富な知識を民に還元しないか」


 と誘い、円月自身も寺に居ては自身の才覚を持て余しており、性欲も食欲も人並みにはあったので、私の話に乗って寺から脱出する話に乗った。


 方法は至ってシンプルで寺の者に酒を使った料理を振る舞う事であり、それに酒が進むと酒に合うツマミを用意すれば寺の者もよく食べ、飲んだ。


 ただ、その酒を私は錬金術により度数を上げており、酒に強い者達も一刻もすればべろべろに出来上がり、円月や球磨と共に寺から抜け出した。


「どうやってあの酒に強い坊主達を酔わせたのだ?」


 と円月が聞いてきたので、錬金術とは言わずに、蒸留をこっそり繰り返し、酒分を増やしたと説明した。


 ちなみだが1541年の段階で蒸留酒はあまり広まっておらず、九州南部の一部地域が琉球より伝来した方法と本州でも一部寺院が秘匿していたため知識として知っていても、味は知らない人達が多く、今回の坊さん達にもお世話になった代わりに秘伝の技術で造りし酒を振る舞うとしたらバカスカ飲んでいた。


 で、円月が逃げ出したことに気がつくのは翌朝かつ二日酔いでダウンしているので三日後になるだろう。


 その間に肥後から出てしまえば逃走成功である。











 ちなみに円月という法名であるが、後々九州三強と言われる龍造寺隆信であり、晩年は酒毒と老いにより恐怖政治かつ、独裁者として龍造寺氏を急速拡張を達成しながら島津との戦争でその独裁色故に兵士達が恐れて島津への無謀な突撃を繰り返して崩壊し、討ち取られるという最後になるが、それは親族皆殺しという状態で曽祖父の遺言でいきなり還俗させられ家臣達から幾度と反旗を翻されたからという経験からで、今の円月は智略に力自慢かつ才覚溢れ出る若者でしか無かった。


 こうして後々北九州を荒らし回る熊(円月の将来のあだ名が肥後の熊なので)を小熊の時期に飼いならす事に成功し、九州一周を終えてスタート地点の博多に戻った。







 博多では耳の良い者が安慈の名前を出すと九州各地で救民をしていた知恵者として扱われ、商人達からも知恵を求められた。


「売れる物は各地で作らせている。ここだけの話、薩摩で砂糖が育つと見て種と育て方、加工の仕方を教えていた。それに九州各地を歩いた故に地図を渡そう」


 と商人達に九州の正確な地図を描き、それを渡すと大層喜ばれた。


 というのも地図は戦略上他国に渡るのを多くの家が秘匿しており、数百年前の本当に大雑把な地図が今でも使われていたので、商人達にしてみたら正確な地図は商いをするうえでとにかく必要な物であった。


 博多商人達に私は基本長門のとある寺や分寺を行き来して農作物の育て方を研究しているし、面白い焼き物も時折持っていると伝え、長門に帰っていった。


 博多商人達は各地の私の行いの数々を商人のネットワークで調べ上げ、とんでもない人物であると評価した。


 後世に残された博多のとある豪商の日記に安慈の行いを書き記した一文がこちらである


『安慈一行行く先々で救民を行い、ある村では流行り病を治し、豊後の殿様(大友家)の奥方や若君の奥方、そして若君の体調を祈願をするとたちどころに快調に向かい、薩摩では困窮する民の声を聞き、痩せた地でも育つ芋を贈り、それだけでは味気ないとし、高価な砂糖の原料となる作物の種を殿様(島津家)に送った。また肥後では才覚溢れるが、寺に幽閉されていた若者を寺の者に弟子にするからと説法を解いて開放した』


 とされた。


 また日向では安慈が施しを行ったのにかかわらず馬鹿にして追い出したという話とそれでも安慈はキンカンを与えて民が飢えないように気を配ったと慈悲深いエピソードが書かれていた。


 安慈に助けられた村の者達は語り歌にして受け継ぎ、幾つもの昔話が作れることとなるのだった。

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