1540年 九州散歩 薩摩の島津忠良

「義鎮様、あの者(安慈)が本当に大内義隆の嫡男であるか裏は取れませんでした。そもそも正室との長男は知恵遅れとして仏門に入れられ、それを良いように使っている可能性すらあります」


「しかし、安慈は事実、我が母と妻を死の淵から救い出してくれた恩人だ。それに安慈は大内の子と名乗ったことで特に要求してきた訳でもない。仕官を断られた位だな。なに、あれ程の知恵者だ。本当に大内の者であれば家を継ぐであろうし、そうでなくても高僧となり、どこかの寺を任されるか、はたまた民を率いて立ち上がるかもしれんな」


「ならば兄弟の契りなど結ばんでもよかったのでは?」


「助けてもらい、様々な施しを受けたのだ。それを銭払いだけで釣り合うとは思えん。故に私は契りを結ぶことで繋がりを得ていたいのだ。父上は春(正室の名前)が病気となれば世継ぎの為に次の者を宛てがうことしか考えておらんし、私を自身の駒としか見ていない。父の家臣達も私はあくまで父の予備でしか見ておられないからな」


「···我らは(吉弘鑑理戸次鑑連含めた義鎮派の家臣)若様に忠義を尽す故に」


「頼もしく思うぞ」










 私こと安慈は豊後の義鎮の城から出発し、道を歩きながら今回の事を考えていた。


(大友義鎮···後々大友宗麟は外交的センスは突出しているし、宗教に狂いさえしなければ英雄として生きられた人物だ。大内に何か起きれば大内の後継者(血筋的に)として北九州を征し、九州三国志の一大勢力となるだろう。大友義鎮が狂うきっかけは親族の死により狂い始めた)


(まず愛する母親と正室が生きていれば宗教に溺れるような事は無くなるだろう。次に弟が大内崩壊の余波で陶晴賢に担がれ大内当主になるが、毛利に攻められて自害したのでまた壊れた。最後は肥前攻めの際に甥が死んだことで寺社勢力と幾度とぶつかった結果、キリスト教に身を捧げる結果になったハズだ)


 九州北部が安定すれば、私は動きやすいし、大友家は外交が得意ではあるが、別に自身が天下を目指せるかといえば大内でも失敗しているのだから無理だろうという風潮があった。


 良くも悪くも大友家は大内家を見ている。


 敵対していたからこそ入念に調べ、大友家は九州で覇を唱えるという行動方針ができていた。


 私は今回の歴史改変により何が変わるのかを楽しみにしながら次の国に移動するのであった。







 日向の国へと入ると、やはり荒れ果てていた。


 日向国は伊東家が統治しており、二十代半ばの当主伊東義祐が三州統一に向けて動いていた。


 ただ日向国は島津と伊東家、そして大友家との幾つもの大きな戦争により寺社がほぼ焼失する憂き目にあい、歴史資料が消失していた為に私でもどんな国かよくわかってない。


 大内没落後は日向国か西国の京とも言われるくらい栄えたとされているが、歩いて村々を巡ってみた感じ、それほど豊かとは言い難く、新造の砦が幾つかあるな〜くらいしか思うところがなかった。


 ちなみに現在日向、大隅、薩摩の九州三州は主に四家による統治をされており、一番の大勢力が伊東家で、一番歴史が長いのが島津家となる。


 まぁ細かい事を言い出したら更に複雑化するのだが、九州三州はこんな感じと覚えておくと良いだろう。


 日向でも村の困りごとを聞きながら解決していくと、聞こえてくるのは伊東家の統治の未熟さである。


 九州三州は全体的に痩せた土地であり、薩摩と大隅は桜島による噴火でカルデラ地層ができており、米作りに適していなかった。


 日向は国も広く、温かい為に米作りに適しているように見える···というか長年米作りが行われていた事により、土地が痩せ、更に支配者がコロコロ変わったせいで灌漑施設が不十分、そして台風が直撃しまくるので三州は米が倒れたり、河川が氾濫し、不作になることが相次いだ。


 これではいかんと竹に成長しても茹でれば柔らかくなり、毒も抜けて食べられるようになる食竹というのを錬金術でたまたま作れたので、その種を日向の村々に渡した。


 しかし、たけのこならまだしも竹が食べれるわけ無いと馬鹿にされ、結局、日向ではあまり問題を解決することはできなかった。


 しかし、別の村で与えたキンカンは大切に育てられ、果肉や皮を漬けて、生姜湯に混ぜて飲むと咳が止まるとして薬の原料として重宝されることとなる。






 さて、説法をしながら歩いていると薩摩に到着した。


 薩摩の村々を巡るとまぁ凄まじく荒れていた。


 というのもここ数年、島津家も内乱状態に陥っており、分家筋の島津忠良という人物が東西南北に乱を収める為に奮闘したが、主君となる島津本家がその才覚を妬み、更に争いとなった結果、本家が追放される自体が発生し、その混乱が一息ついたのが昨年の事だったらしい。


 あまりにも民が飢えているのを見て、禅宗が盛んな地域なので、私は大内領内にある大寧寺(西日本で禅宗の教えを広めた徳の高い寺)の名前を出し、仏神より授かりし甘芋を困窮する薩摩に広めるために来たと言い、村々を巡り、甘芋(薩摩芋)を広めた。


 するとどこからか私の話を聞きつけた島津家の者が私を島津忠良が話をしたいと言われ、一宇治城に呼び出されると、薩摩弁の訛が激しい武士こと島津忠良と面会した。


 そこで何故甘芋なるものを広めているか聞かれたので、甘芋であれば痩せた薩摩の土地でもよく育ち、人々を飢えから救え、長年薩摩や大隅を治めていた島津こそがこの不毛の地を豊かにできると民の話を聞いて確信し、ならば力になろうと決意したと話す。


 また実は大寧寺出身ではなく長門にある大寧寺の分寺の一つで修行していた身なのだが、芋を広めるために嘘をついたと正直に話すと


『正直に話された事に好感が持てる。それに民の為に動いているのにそれを怒るほど禅宗の教えは細心ではない』


 と言って逆に気に入られた。


 そして


『薩摩の民が疲弊しているのは重々承知、故に民心を回復させる手立てはあらんや?』


 と聞かれたのに対して


「ではとっておきを」


 と私はサトウキビの種の入った袋と栽培方法を書いた書物を彼に渡した。


「砂糖のなる竹の種を渡しましょうぞ」


『なんと! 誠か!』


 この時代砂糖は日本国内では採れず、海外貿易により僅かばかりの量が薬として入ってきていた。


 それ故に凄まじく高価であった。


「砂糖を作り、それを売り、他国より米を買うのです。そして米が食えぬ時は甘芋を食うことで飢えを凌ぎ、三州統一の時にお祝いを持ってまた私は現れましょうや」


 と言った。


 島津忠良はこれで薩摩の民は救われると大層感激し、頭を下げ、どんな高僧よりも徳が高いとし、感謝された。


 更に琉球との繋がりを太くすることで薩摩は中華と貿易し、栄えることができると言うと、砂糖を琉球に売り、その銭で中華より様々な物を輸入すれば面白いことになるとも言った。


 特に島豚(アグー)は禅宗の教え的に肉食は悪であるが、強き肉体を作るには肉を食べるが良いと教え、サトウキビの絞り粕や甘芋の葉を島豚に与え育てれば無駄が無いと言った。


 この教えを受けた島津忠良は後々琉球貿易を再開し、国力を回復し、精強な薩摩武士を育てていくこととなる。


 また私は農神の遣いとして崇められ、島津忠良の肝いりで私が渡した農書の教えを広める寺を幾つか建てるのであった。








 島津忠良···島津家の中興の祖とされ、後々島津四兄弟の祖父として多大な影響を与え、島津の基礎を作った人物である。


 琉球貿易を行い国を富ませ、鉄砲の威力を早期から認識し、島津家の鉄砲の普及を早めた人物でもある。


 いろは歌を作ったのも彼。


 そんな彼と関係を結んだ事、薩摩の民を救ったことがどう影響するのか···安慈はまた一つ歴史を変化させるのであった。

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