第4話 救いたければ時を遊ぶ
遠く、王宮前の広場で王太子妃リズの処刑が行われていた。
彼女への怒声がここまで聞こえてくる。父である国王から自室での謹慎を言い渡された俺は、リズの最期を見届けることも、たった一言声をかけることもできなかった。
彼女は希代の悪女というレッテルを貼られ、数多の冤罪をなすりつけられ、利用されて貶められた。そして、面白おかしく流されたリズの醜聞に踊らされた市民の不満を逸らすために、見せ物の公開処刑で——首を落とされる。
王太子エセルバートは、王太子妃リズに騙されていたのだ。
俺は必死でリズを庇った。冤罪を晴らすために、奔走した。なのに、日を追うごとにリズを非難する声が高まっていく。それが彼女の罪を糺すためではなく、そのほうが自分たちにとって都合がいいから彼女に罪を着せ、大罪人へと仕立て上げたのだ。
それに気付いていても、『悪女に誑かされた可哀想な王太子』は徐々に権力を奪われ、お飾りと成り下がってしまった。
王太子妃がいなくなれば、王太子は正気に戻るだろう。何、戻らなくても優秀な弟王子がいる。そもそも後ろ盾の少ない王太子より、家臣たちが推す弟王子のほうが国をよりよく導ける。
その声は、王宮中から聞こえはじめた。俺に聞こえるように話す者さえいた。やがて国王は、家臣たちの求めに応じ、王太子妃の処刑を命じた。国王としては、可愛がっている王太子をこれ以上非難の声の中に置くのは忍びない、せめて王太子に王太子妃へ向けられた憎悪が及ばないように、と判断したのだろう。
俺はリズと強引に引き離され、二度と会うことはなかった。そして今日、それが確定してしまった。彼女は死罪となり、もう俺の傍に戻ってくることはない。
遠く、鐘の音が聞こえる。すべての処刑が終わり、夜が来る。
俺は、しばらく呆然としていた。無力感、後悔、喪失感、憤り、自責、何もかもが胸の中で混ざって、どうすることもできない。
俺はどうしてリズを助けられなかったのだろう。処刑される前にリズを逃すことさえできなかった。上手くやれば母のように追放で済んだかもしれないのに、俺なんかと結婚したせいで彼女は命を奪われた。
何日、俺はそればかりを考えて、ぼうっとしていたのだろう。最愛の人を守れなかった、殺してしまったことに傷ついて、どうにか現実に戻ってきたときも、夜だった。
俺が三年前のあのとき、一目惚れしたリズを助けたいなどと思わなければ、こんなことにはならなかった。
しかし、時間は戻らない。そう、戻らないはずだ。
「……いや、違う。確か……」
記憶の奥底に釣り糸を垂らしたとき、『時間を戻す』という言葉が引っかかった。
それは幼いころ、父に案内されて宝物庫にある王家の秘宝を見ていたときだ。
王家の者しか入ることを許されていない宝物庫は、代々直系の男子が中に保管されている秘宝のすべてを把握し、引き継いでいく義務がある。だから、俺も父に宝物庫へ連れて行かれて、将来お前もこれを引き継ぐのだ、と言われた。
王位継承のための宝剣、絢爛豪華な王冠、金の王笏、古より伝わる書物に、不可思議な伝承を持つガラクタのようなものまで、俺は目を通した。
そのうちの一つに、止まっているカメオ細工の時計があった。珍しいな、と思ったのだ。時計なんて、最近作られたものなのに、どうして代々受け継がれてきた秘宝の中に入っているのだろう、と。
父に尋ねると、こう答えが返ってきた。
「それは由来の怪しいものでな、時計の裏にはこう書かれている。『
ふぅん、と俺は時計を持ち上げ、裏を見た。すると、蓋があって、中を覗くと文字が刻まれていた。
『時を
最後のほうは、擦り切れていて読めなかった。だが、願えば本当に、その時計で時を操れるのだろうか。そのときの俺は、試す気はなかった。子供だからそうまでして時を操りたいという気はまったくなく、父に促されて別の秘宝へ興味が移っていた。
俺は、藁にもすがる気持ちだった。そんなガラクタの、誰の悪戯とも知れないものにさえ、希望を託すほどに追い詰められていた。
俺は部屋を抜け出した。脱走するのはいつものことだ、窓から飛び降り、別の部屋のバルコニーへ着地する。そこから王宮内をこっそりと移動し、宝物庫の鍵のある国王の部屋まで走った。
当然、国王の部屋の前には見張りの兵士がいる。いくら俺が王太子でも、国王の命令がなければ中には入れてもらえない。どこかの窓から侵入しようにも、国王の部屋のバルコニーへ飛び移れそうな足場はなかった。
機を窺う。兵士がどうにかいなくなってくれれば、などと思っていたところに、国王が現れた。執務を終え、部屋に帰ってきたのだ。
どうする。ここで姿を見せて、宝物庫の鍵を貸してくれと言うのか? 気の触れた王太子と言われ、謹慎どころか幽閉されてしまうのではないか。しかし——いや、考えていてもしょうがない。
俺は、姿を見せることにした。謹慎中の俺がいきなり現れたことに、国王も兵士も驚いていた。
「父上、お話があります。どうしても、二人で話したいことなのです」
馬鹿正直に、そう言ってしまった。だが、他に手はない。俺は兵士を相手取れるほど武術に長けていないし、他人を籠絡するような話術も下手だ。なら、正攻法で行くしかない。
幸い、国王は穏やかに、頷いた。
「いいとも。入りなさい、エセル」
今考えれば、国王は俺に負い目があったのかもしれない。息子を守るために、無実の妃の首を刎ねた、その罪の意識が少なからずあったのだろう。
国王の部屋に入るなり、俺は要求を切り出す。
「父上、宝物庫の鍵を貸してください」
「何のために?」
「……試してみたいことがあるのです。無駄だったとしても、先に進むために」
それだけで許しが得られるのか、と思わなくもない。
しかし、ここで許しを得ようが得まいが、俺は無理矢理にでも宝物庫の鍵を奪っていこうと決めていた。どうせ気の触れた王太子だ、何をしたところでこれ以上の失望を与えることはない。
開き直った俺を、国王はどう見ていたのか、やがて鍵のかかった棚から木箱を取り出した。蓋を開け、俺へ差し出す。
そこには、真鍮製の鍵がビロードに包まれていた。俺がおそるおそる手を伸ばし、鍵を手にしても、国王が止める様子はない。
「お前が宝物庫の秘宝をどうしようと、誰も罪には問わぬ。あの宝物庫と秘宝は、我々だけが知っているのだから」
国王が、俺をどう見ているのかは分からない。
俺に失望したのかもしれないし、可哀想にと同情していたのかもしれない。
それでも、俺は宝物庫の鍵を手にした。それ以上は、考えないことにした。
「ありがとうございます」
俺は踵を返し、地下の宝物庫へ急いだ。
地下には、王家の者だけが入れるフロアがある。とはいえ、そこは宝物庫しかなく、実質的に宝物庫の鍵を持つ人間だけが入れる。中に何があるか、それは宝物庫の鍵の所有者とその後継者しか知ることはない。
俺は記憶を頼りに、宝物庫の扉まで辿り着いた。俺を奇異なものでも見るかの目で使用人や兵士たちが見送っていたが、かまうものか。
呆気ないほどすんなりと鍵を開け、俺は宝物庫へ入る。目当てのものがどこにあるか、知っている。すぐにそれは、俺の目の前に現れた。
手のひらほどの大きさの、カメオ細工に埋め込まれた時計。流転する時の流れを表したような渦の中で、時計は十二時を指して止まっている。
俺は時計の裏の蓋を開けた。『
時を遊ぶというその力を。
俺は、その不思議な現象に気付くまで、少し時間がかかった。
うっかり、宝物庫の鍵を落としたのだ。俺の手から離れて、落ちていくその鍵が——途中で止まった。
中空で、ぴたりと止まったその鍵へ、俺は手を伸ばす。何が起きているのか、と混乱しながら、反射的に手が伸びたのだ。俺が触れると、鍵は待っていたかのように落ちそうになる。
何だ? 何が起きた?
俺は『
窓のある地上階へ出たとき、外は雨だった。いや、数え切れないほどの雨粒が、空中で止まっていた。
兵士があくびをしたまま止まっていた。使用人が持っているランプの炎と同じように止まっていた。人間の足音一つしない王宮は、初めてだ。無音の世界で、俺の呼吸音だけが響く。
ようやく、俺は理解した。時が、止まったのだ。『
だが、これだけではだめだ。三年前のあのときに、時を戻さなくてはならない。そのためにはどうすればいいのだろう、戻るように願うのだろうか。
そんなことを考えているときだった。もしかすると、『
俺自身が三年前のあのときに戻る、ということが叶うなら、もう叶っているはずだ。なのに俺は今のまま、ならひょっとすると、俺は誰かの時を戻すことはできるのではないか。
俺は、そのために試すべきことを、すぐに思いついた。
リズだ。リズに触れて、三年前のあのときに戻るように、願ってみなくては。
その他のことはどうでもいい。ただリズだけは、俺に選ばれないように、止めなくては。
俺は使用人のランプを奪い取り、駆け出した。雨は俺に触れると動き出し、俺の体を濡らす。止まっている雨粒で進めない、なんてことがなくて何よりだ。ただただ、俺は王都の郊外へと走る。
本来の処刑場は、そこにある。公開処刑は王宮前の広場で行われるが、処刑後の死体はそこへ運ばれるはずだ。罪人の死体は家族に引き渡されることはない、墓が作られることもない。打ち捨てられるだけだ。
俺は頭を振った。恐ろしいことを考えてしまった。もしそんなことがあれば、俺は耐えられない。それこそ、正気を失ってしまうかもしれない。
リズ。ごめん、俺は守れなかった。もう一度やり直したい、リズを守るために、あのときの選択を変えるために。
処刑場に着いたとき、俺は後悔した。
饐えた匂いが、漂っていた。腐敗した何かが、ここにはある。多少の量ではない、入口ですでに鼻を押さえるほどに匂うのだ。
俺は、探した。リズの遺体が、ここにあるはずだ。絞首刑の台を通り過ぎ、古い納屋をいくつか過ぎ、そして——処刑場の片隅で、見た。
骨が落ちていた。その先には、幾許かまだ肉がついた骨もあった。それは、どうやら野犬に食べられたもののようだ。食い荒らした跡がある。俺は、それらが人間の一部であることを認めなくてはならなかった。雨晒しの、処刑場の片隅には、大きな穴があった。埋められない、埋められる予定はしばらくはないであろう、大きさの穴だ。
正直に言って、見たくはなかった。その中に何があるかなど、すでに予測はついている。それでも、そこには、きっといるのだ。
俺は、穴の中を覗いた。
幾重にも重なる人間の死体。腐乱し、手足がバラバラになって、首のない死体だらけだ。そしてそれらは、服を着ていない。処刑の手伝いをしている人間たちが、処刑された罪人の服を剥いで売っている、と聞いたことがある。貴族の服は多少血がついていても高級だから買い手がつく。処刑人たちはそんなことはしないが、手伝わされている身分の低い者たちは、そうやってその日の酒代を作る。
穴の中へ、俺は足を踏み入れる。ぬかるみに足を取られないよう慎重に、いや、本能的に近づきたくない気持ちを押し止めているせいで、歩調が遅くなっていた。
首を切られる罪人は、ほとんどが男だ。女は大抵、魔女扱いをされて、火炙りにされる。だから——あれではない、と——思いたかった。
折り重なる死体をどかし、見覚えのある女性の細い手を、その体を露わにする。首から上がなかった、そしてその首筋には、見覚えのあるほくろがあった。
体は、もう一部は野犬に齧られて、皮膚が食い破られて肉が見えていた。ランプに照らされて、白い肌はどす黒く変色していたこと、結婚指輪をはめていた左手の薬指は残っていないことが、分かった。
首は、どこかにあるのだろう。でもそれを探すことは、できそうにない。もう俺は精神が限界だった。それでも正気を失う前に、最後の力で、最愛の人の無惨な死体、残っている右手を掴む。
「リズ……今度は、間違えないで、幸せになってくれ」
俺は、『
三年前のあのときに、戻してくれ。
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