第2話 悪女とされないように

「いや。リズ、可愛い名前だね。とてもいい名前だと思うよ」


 王太子エセルバートが、私へそう言った。


 ——あれ? ここは? 私は首を落とされたはずでは?


 私は周囲を見回す。ここは、以前見たことがある。王宮の庭の木陰、そして目の前にはちょっと若い王太子エセルバート。私の夫だった青年。


 おかしい。どういうことだ、と私が混乱しているうちに、王太子エセルバートは私を使用人の部屋に連れていった。誰もいないのをいいことにさっさと着替える。王太子エセルバートは私がドレスを脱ぐのを手伝って、顔を赤らめて一生懸命コルセットを外していた。普段なら、ありえない光景だ。それでも何とか使用人の私服を失敬して着用し、私と王太子エセルバートは王宮の隅をこそこそ走って、弟王子レオのいる部屋の窓までやってきた。


 そこでやっと、私は思い至る。


 これは、過去だ。三年前だ。私の記憶と一致する、このあと私は王太子エセルバートと弟王子レオとともに、王都の市街にあるカフェ『タルタレット』へ向かうのだ。私は初めて甘いココアを飲み、店自慢のリンゴのタルトを食べた。そうだ、このまま行けば、私は——。


 私は、死にたくない。妃になど、なりたくない。


 でも、ここで王太子エセルバートを射止めなければ、私はどうなる?


 ロザリー侯爵家で、どんな扱いを受ける?


 惨めな人生を強いられて、また終わるのか?


 嫌だ。嫌だ。嫌だ。


 私は、生きたい。私はロザリー侯爵家を出て、王太子エセルバートと少しの間だけだったが、幸せな時間を過ごせたのだ。誰も私を叱らない、躾と称してひどい言葉を浴びせたり、罰を与えたりしないあのとき、私は初めて、一人の人間として、楽しく生きていたのだ。


 だから——どうすれば私は、幸せになるか。それを考えた、短い時間で考えた。そして、私は決断する。


「エセルバート様」


 私は王太子エセルバートの袖を引っ張り、弟王子を呼び出す前に止めることに成功した。


「エセルバート様。私は、逃げます」

「逃げる? どこへ?」

「分かりません。でも、あなたを射止められなければ私には行くあてもありません。ロザリー侯爵家にも居場所はなく、貴族の娘としての立場もなくなるでしょう」


 分かっている。そんなこと、分かりきっている。王太子エセルバートを射止められなければ、私には何もかもなくなる。今までのことがすっかり無意味になるのだ。


 それでも。


「それでも、私は生きたい。最後まで、楽しく笑って、生きてみたい。無駄な足掻きかもしれません、でもやらなければならないのです」


 あなたと過ごした二年間が、私をそうさせた。


 三年後、私は悪女として命を絶たれてしまうと分かっていても、あなたと過ごした幸せで、楽しかった時間が、私の心には残っている。


 それを、無駄にしたくないのだ。その気持ちを、死なせたくない。


「さようなら。少しの間だけでも、夢を見させていただきました。このまま、お別れしましょう」


 私は、王太子エセルバートから離れようとする。


 しかし、腕を掴まれた。止められたことに気付き、王太子エセルバートを見ると、真剣な表情で訴えてくる。


「ちょっと待っていてくれないか? すぐ終わるから、ここで待っているんだよ」


 そう言われてしまっては、私は素直に言うことを聞いてしまう。誰かに命令されると、どうしてもそうしてしまう癖があった。これでは、逃げられない。


 王太子エセルバートは弟王子レオの部屋の窓を叩いた。


「レオ。話がある」


 すぐに、窓が開く。弟王子レオ、王太子エセルバートの二歳年下の少年は——私は知っている。彼は王位を狙い、私を貶すことで王太子エセルバートを追い落とそうとしたのだ——何食わぬ顔でやってきた。


「何でしょう?」


 ところが、王太子エセルバートはとんでもないことを言ってしまう。


「お前に王位継承権を譲る。俺は逃げる」


 は? と私とレオは呆気に取られた。


 王太子エセルバートは、自信満々に続ける。


「つまり、駆け落ちだ。止めるなよ」


 まるで名誉ある行動のように、王太子エセルバートは言ってのけている。なぜそんなことを、と私は思ったが、私はこういうときにどうしていいか分からない。


 だって、誰もこんなときにどうすればいいか、教えてくれなかった。


 だから、王太子エセルバートの好きなようにさせるしかなかった。


 そして、弟王子レオはきっと、内心では嬉しかったのだろう。王太子エセルバートを止めようとはしなかった。


「止めても、兄上は行くのでしょう」

「ああ。悪く思わないでくれ、好きな人ができたんだ」

「まったく。これを持っていってください、売れば多少の路銀になるでしょうから」


 今生の別れに手切金、とばかりに、レオは自分の懐中時計を王太子エセルバートへ渡した。金の懐中時計は、確かに売ればそれなりの額になるだろう。私にはそのあたりは分からないが、王太子エセルバートは街のカフェに行くほどだから、お金に関しては多少なりとも使い方を知っているはずだ。


「助かる。それじゃ、頑張ってくれ。二度と会うことはないだろう」

「お達者で、兄上。いつかこうなる気はしていましたよ」


 兄弟の別れは、実にあっさりとしたものだった。


 三年後を知っている私にとっては、何ら不思議ではない。それに、今の王太子エセルバートにとっても、それはおかしなことではないらしかった。


 その理由は、私は何となく分かる。


「お待たせ、リズ。行こうか」


 王太子エセルバート——いや、もう廃太子となるであろうエセルバートは、私の手を引いて、速やかに王宮から脱出する。


 市街はすでに、夜となっていた。店や家から明かりが漏れ、王都の外へ向かう道には人通りが少ない。


 エセルバートは私へ、こう問いかけた。


「無責任な王子だと思っただろう?」

「……はい」

「ははは、正直だな。でも、これは昔から、ずっと企んでいたことなんだ」


 エセルバートは、王宮ではタブーとなっている、三年後の未来でもずっと秘密とされてきたあの事実を告げる。


「昔、俺の母は冤罪で王宮を追放されたんだ。以来、俺はずっと、王宮で肩身が狭かった。王太子なのは形だけ、今の王妃の子であるレオを王太子にすべきだ、と大っぴらに話している家臣もいるほどだ」


 それは、未来の私はエセルバートから直接聞いて知っていることだった。


 エセルバートの母は、辺境伯の養女だった。それが王宮へ出仕した際に国王のお手つきとなり、自分の意思とは関係なく妃に据えられたものの、家臣たちや王族たちから冷ややかな態度を取られていじめられ、ついには素行不良という名目で追放されてしまったのだ。


 その母を、エセルバートはずっと案じていた。こっそり手紙を送ったり、援助をしている様子だった。そのくらい、エセルバートにとっては実母が大切で、むしろ父である国王たちを遠ざけてすらいた。


 そうか。エセルバートも、逃げ出したかったのだ。


 私と同じで、楽しく幸せに生きていきたいと願っている、一人の人間なのだ。


 なら、私は——エセルバートを、もう一度愛してみたい。彼となら幸せになれると、もう一度信じてみたい。


「まず、辺境にいる母を頼ってみようと思う。長い旅になるだろう、それでもいいかい?」


 エセルバートへ、私は全幅の信頼を置いている。


 私は答える。


「はい。どこまでも、お供いたします、エセルバート様」


 エセルバートは楽しそうに笑う。


「エセルでいい。リズ、好きだ。一目惚れでどうにも悪い、でもしょうがない」


 知っている。未来でもあなたはそう言ったのだから。


「いいのです。私は妃になど、なりたくはなかったのですから」

「そうか、それならよかった! 俺も、王になんかなりたくなかったんだ!」


 私たちは逃げる。


 遠くへ、二人で一緒に、楽しく幸せに生きるために。


 その物語は、それ以上、誰かが語ることは決してない。それでも、確かなことは一つある。


 リズという女性は、エセルバートという夫とともに、悲劇の運命から抜け出したのだ。

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