もう妃になどなるものですか、私はあなたと楽しく幸せに生きていきたいのです
ルーシャオ
第1話 悪女とされたリズ
廃されて当然だ。
毒婦を捨て置けるものか。
我が王を誑かした罰を受けろ。
そんな声が聞こえる。
私は目隠しをされている。だから、声の主たちがどんな身分で、どんな顔をして、私を罵っているのか——知ることがなくて、よかったと思っている。知ってしまえば、きっと恐怖と絶望で立ちすくんでしまっただろうから。
一歩一歩、歩むごとに分かる。軋む板の音、巻き上げられる鎖の音、何人かが配置につく足音。
それらは、私を断頭台へ送り込むための音だ。
いくら覚悟を決めていても、音が重なるごとに、意識が朦朧としてくる。どうしてこうなったのだろう、何度も何度も思ったことを、今更ながらに思い返す。
リズ、可愛い名前だね。
そう言って私を見初めてくれたのは、クレスティア王国の王太子エセルバートだ。
私はクレスティア王国貴族、ロザリー侯爵家の四女リズ。庶子の姉たちと違って、ロザリー侯爵カルヴィンと侯爵夫人ヘレンの間に生まれた、ロザリー侯爵家待望の嫡出子で、それは大事に育てられたものだ。何せ、四人の娘を政略結婚の道具としてしか見ていない父は、私をどうにかして王太子妃にしようと躍起になっていた。まさか庶子を王太子に当てがうわけにはいかない、正しくロザリー侯爵家の血を引いた娘を送り込まなくてはならないのだ、と父は言っていたが、実際のところそれが王太子に見初められるためにどう有利に働いたのかは分からない。
とにかく、私は厳しく貴族令嬢としての礼儀作法、教養、知識のすべてを叩き込まれ、王太子の初めての舞踏会に合わせて社交界にデビューする形となった。
正直に言って、見たこともない男性を射止めるためだけに育てられたと私は分かっていたから、何もかもがどうでもよかった。生まれてから十六年もの間、ただ父と家庭教師たちの言うことを聞いて、楽しいことなんてまったくなかった。姉たちは私が父に贔屓されていると勘違いして白い目で見て、母は次に生まれた嫡男となる弟に夢中ですっかり私への関心は失せていた。
笑顔は完璧な作りもの、受け答えは手本どおり、丸暗記の知識は暗誦も容易く、王太子を待つため何時間でも立っていられるよう鍛えられた。それ以外にやることなどなかった、仮に王太子を射止めたとしても、私には何もない。私が持っているものは、ただ一人のために詰め込まれたものだけだ。
おぞましい父の執念と名誉欲を叶える道具として、私は舞踏会に送り込まれ、そして——王太子エセルバートと出会った。
何のことはない、夕暮れを背に、バルコニーを伝って舞踏会から逃げ出そうと企んでいる王太子エセルバートの姿を、ふと窓の外を眺めていた私が発見してしまったからだ。
ちらりと見えた横顔は間違いない、散々見せられた王太子エセルバートの絵姿にそっくりだったのだ。
あまりの出来事に私は驚いたが、舞踏会にお目当ての王太子エセルバートがいないなら意味がない、と判断して、会場から出て王太子エセルバートを追いかけた。
王太子エセルバートが降りてくる階下の庭にこっそり出て、私に気付かず壁の出っぱりを足がかりに何とか着地した王太子エセルバートへ話しかけた。不思議と、初めて殿方に自分から話しかけたのに、緊張はしていなかった。
「あの、エセルバート様?」
王太子エセルバートは飛び上がって驚き、叫びかけた自分の口を押さえて、私を見た。その目は、誰だろう、と如実に物語っていた。
しかし、黙ってここにいても仕方がない。王太子エセルバートはやっと言葉を発した。
「あ、ああ、君は?」
「失礼いたしました。ロザリー侯爵家のリズと申します。窓からエセルバート様のお姿を拝見して、つい、追いかけてきてしまいました。申し訳ございません、はしたない真似を」
気分を害しては見初められるどころではない。私はできるかぎり下手に出て、反応を窺う。
すると、王太子エセルバートは咎めることも腹を立てることもなく、私の手を引いた。人目につかないよう庭の木陰に移動して、それからこう尋ねてきた。
「リズ、ちょうどよかった。甘いものは好きかい?」
「いえ」
「そ、そうか」
「申し訳ございません。厳しく制限されていて、ほとんど食べたことがないものですから」
このときの私は、年頃の少女が甘いものを好む、ということすら知らなかった。教えられなかったからだ。砂糖は太るから食べてはいけない、と避けるべき食べ物として認識していた。
ところが、王太子エセルバートはそんな私を不憫に思ったのか、私の肩を叩いてこう言った。
「よし、分かった。今から着替えて街のカフェに出かけよう」
「しかし、舞踏会は」
「あんなもの、いいんだ。よし、どうせなら弟も誘ってこよう。共犯者に仕立ててやる」
王太子エセルバートの声は、弾んでいた。
これから悪いことをする、と決めた青年は、眩しいほどの笑顔で、私へ手を差し伸べてきた。
それが、そのときの私には、『楽しそう』と思わせたのだ。
「楽しそうですね。エセルバート様が楽しそうになさっていると、私もそう思えます」
私の本心からの言葉だったのだが、王太子エセルバートは少し神妙な顔つきになった。
「リズ」
「はい」
呼びかけられた私は、素直に返事をする。そう躾けられ、そのためにここにいる。
そんなことを知る由もない王太子エセルバートは、ただただ、私を気遣っていた。
「いや。リズ、可愛い名前だね。とてもいい名前だと思うよ」
王太子エセルバートは私の手を引いて、庭を抜けて王宮の隅にある使用人の部屋に忍び込んで着替え、弟王子レオを呼び出して、私を含む三人で夕暮れの過ぎた王都の市街へと向かう。
そんな、たった三年前の一幕。私は、そのときに王太子エセルバートに見初められて、王太子妃に選ばれたのだ。
しばらくは、私は王太子エセルバートに愛されて、幸せだった。そのはずだ。
それが暗転したのはいつのことだろうか。
私が知っているかぎりでは、一年前にとある事件が起きたことがきっかけで、姉たちの悪行がすべて私へ押し付けられたことにより、私は王太子エセルバートを誑かした悪女と批判されるようになったのだ。
王太子エセルバートは私を庇った。根も葉もない噂だ、別人の行いだ、と私と離縁しろと迫る側近たちに何度も説得を試みた。
ところが、弟王子レオが裏切ったのだ。
自分の寝室に王太子妃が来て、弱味を握られて一晩をともにした、と嘘の証言をした。
たちまち私の立場は坂道を転がるように悪化していき、ついには王太子エセルバートも私を庇いきれなくなった。王子が嘘を言うわけがない、ならば王太子妃が悪さをしたのだ、きっとそうに違いない。人々はそう言い立てて、私とは何の関係もない罪まで『悪女リズ』へ押し付けはじめた。隣国の大臣からの賄賂、使用人たちへの無体な仕打ち、王室財産の散財、政治への介入——何もかもが、誰も彼もが口裏を合わせて、私を自分たちの身勝手な禊のための生贄にした。
その結果が、私が断頭台にいる、この現実だ。
ああ、私は最後まで、自分の意思の持てない人形だった。
いっそ王太子エセルバートと離縁することを決断できていれば、死ぬことはなかったかもしれない。姉たちを親族だからと王宮へ出入りさせなければ、悪行を働かせなかったかもしれない。
でももう、遅いのだ。
跪き、両手首と首を固定され、頭上から振る鉄塊の刃が、私を断罪する。
一体、何の罪を裁くというのだろう。
ああ、もう疲れた。
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