お葉は仕事を見つけられずにいた。八王子には店も多く、お葉が以前に働いていたような茶屋や、料理屋などもあり、下働きでもいいから働き口はないかとあたってみるも、身元が不確かな者はだめだと、断られるばかりであった。どこそこに住んでいると言っても、きちんとした証文を見せろと言われてしまえば、ぐうの音も出ない。

(もっと給金の安いところじゃないと、だめかも……)

 お葉が給金にこだわったのは、千種にお金を返すためである。それに、今は千種の所持している金があるので食べるには困らないが、これからもというわけにはいかない。

 落胆するお葉に、千種は失礼にもうれしげな様子で言った。

「そろそろ逃げられるんじゃねぇかと思ったが、まだ俺といても平気みてぇだな」

 お葉は家に戻ってきた。それだけで安心だと言わんばかりの様子に、お葉は怒る気にはなれなかった。

「望みはあるか……」

 しかも千種は酒を飲んでいるためか、常より言葉が多い。

「また、眠れないんですか?」

「誰の所為せいだ……」

 今まで同じ部屋で寝起きしているのに、慰めてくれたときに手を握っただけで、他には触れようともしない男の科白せりふとは思えなかった。

(どうして私なの……?)

 千種が真実、好きになってくれていたとして、なぜ自分なのか。なぜ触れようとはしないのか。

 実は揶揄からかっていただけだと言われても納得できるくらいに、おかしい状況である。

「お葉、心配するな。傘張りでもなんでも、俺はするぞ」

「……ごめんなさい」

 お葉に謝られて、どうしてだと千種が尋ねた。

「私の仕事が見つからないから……」

「俺が不甲斐ないだけだ」

「仕事のことだけじゃなくて私、千種さんにお金を全部、返せないかもしれません……」

「金?……三十両のことか」

 お葉はうなずいた。

「前にも言ったが、あの金は博打ばくちで稼いだ金で、ろくな金じゃなぇんだ」

「でも……」

 好きになってくれるかもわからないお葉を、身請けしたのは事実である。

「元から、お葉に返してもらおうなんて、思っちゃいねぇよ」

「私は貴方に、どうつぐなえばいいの……?」

「お葉を身請けしたのは、俺が好きでやったことだ。償いも何も、ありゃあしねぇ」

 千種の真摯しんしな態度に、お葉はかつての自分を重ね合わせた。

 過去にお葉は、心底愛した人がいた。いくらお金を渡しても、返してもらおうなんて思っていなかった。千種もまた、同じ気持ちだとしたら、千種はずっと、嘘を吐いていなかったことになる。

 自分と重なってしまうから余計に、千種のことを信じるのが怖かった。

「……俺の親父は、表具屋だったんだ」

 唐突に父の話をした千種に、お葉は静かに耳をかたむる。

「小せぇ頃は親父にまとわりついて、じっと、仕事ぶりを見てた。流行病であっけなく両親が死んじまって、俺はまっとうじゃない生き方を選んだ。なのに今になって、表具屋をやりたいなんて思ったのは、お葉と暮らすことを夢見たからだ」

 お葉のお蔭で、まっとうになりたいと願ったと、千種は伝えようとした。

「だから、貸しがあるのは俺の方だ。三十両でも足りねぇな」

「千種さん……」

「だが、最近じゃお葉は俺といない方がいいんじゃねぇかって、思うときがあるよ」

「…………」

「ろくな生き方をしてこなかった俺といるのは、お葉のためじゃねぇって……」

 逃げるならまだ間に合う。と、千種は言いたげであった。

「……今日は飲みすぎた」

 めずらしくも、千種の方が先に布団に入ってしまった。

 お葉はしばらく、呆然ぼうぜんとする。

 身請けをする前夜には、あんなに想いを語ってくれたのに、今度は突き放すような言い方をされて、お葉は己でも理解できるくらいに、哀しくなった。


 翌日、お葉は仕事を探すかたわら、町中にある表具屋の前を通った。

 表具屋と名前は知っていても、実際の仕事ぶりを見たことはない。千種がどのように仕事をするのか、気になっていた。

「おばあちゃん、すみません」

「仕方ないから他をあたるよ」

 店の中から腰の曲がった老婆と、店の小僧らしき少年が出てきた。小僧が店の中に去った後で、お葉は老婆に声をかける。

「表具屋を探しているんですか?」

「そうなんだよ。家の障子が野良猫にはちゃめちゃにされて、困ってるんだ。でもここの職人は出払っていて、五日後くらいじゃないとできないらしくてねぇ」

 お葉は目を輝かせながら言った。

「あの……」

 その日、お葉は自分の仕事を見つけることはできなかったが、何と表具屋の仕事を見つけることができた。お葉は老婆に千種のことを紹介すると、ぜひにと言ってくれたのである。千種に早く、そのことを伝えたくて、お葉は小走りで帰った。

 お葉が家に着くのと、女が家から出てくるのが同時だった。そして二人がお互いの存在に気づくのも、同時であった。

 お葉は見知らぬ女に何用かと尋ねようとするも、体が凍ってしまった。女はお葉に見せつけるように、後れ毛を気にする仕草をした。女は一言も話さずに、帰ってゆく。

 家の中に足を踏み入れる度に、鼓動が速くなる。張り裂けそうなほど、動揺していた。

「あ……」

 お葉が見たのは、想像していたような光景ではなかった。

 部屋一面が傘やら道具で溢れていて、とても人の寝転べるような隙間はない。しかも言った次の日に、千種は傘張りをしていたので驚いた。

 傘張りに夢中になっていた千種は、お葉に凝視ぎょうしされて、帰っていたことに気づき声をかける。しかし、お葉が何も言わずに、でも何かを言いたげにしている顔をしていて、手が止まった。

 まるで、お葉は自分を責めているようだ。と、千種は直感する。

 お葉は無言のまま、夕餉ゆうげの準備に取りかかる。千種はそのまま、傘張りを続けた。

 夕餉を食べるときも、緊迫した空気が続いた。お葉の態度は、明らかにおかしい。千種は自分が何をしてしまったのか、見当もつかない。否、強引に身請けをしたことや、傘張りをするのに部屋を散らかしたことなどの細かいことも浮かびはしたが、そうではないとも見当する。

「お葉、どうした?」

 眠る直前が、いつも話しやすい刻限であった。千種はどうしてもお葉の機嫌が良くなる解決策が浮かばずに、本人に尋ねる。

 家の前でばったり会った女は、誰なのか。お葉が気にしているのは、そのことである。確かに女は家の中から出てきた。つまり、千種とは会っているはずなのだ。ただの知り合いや、近所の人だろうと片付けるには、女の態度が引っかかっている。

「千種さん。私、ずっと言いそびれていたことが……」

 帰ってきて以降、お葉が初めて口をきいた。千種は重大なことを打ち明けられるような気がして、恐る恐るという様子である。

「今日、町にあった表具屋を見に行ったんです」

「おう」

「そこでおばあさんに会って、その人は表具屋さんを探していたんですけど、お店の職人さんの手が空いていなくて、だから私……」

「…………」

「千種さんのことを、教えてあげたんです」

「…………」

「…………」

 千種は無反応に近かった。それでお葉は、しまったという顔をする。

「ごめんなさい、勝手に紹介して……」

「いや……もっと、とんでもねぇことを言われるんじゃねぇかって思ったからよ……そうか」

 正直、千種は拍子抜けしていた。家を出て行きたい。あなたと離れたいと言われるのかと、ひやりとしていたのだった。

 後から、お葉のしてくれたことに、徐々に高揚してゆく。

「家の障子の張り替えをお願いしたいそうです。明日にでも来てほしいって言っていました。傘張りは私がやりますから、行ってあげてください」

「わかった。お葉、ありがとよ」

 千種は目尻に皺を寄せて、笑っている。お葉はうれしくなって、とても久方ぶりだというのに、きれいに笑った。

「初めてだ。お葉の笑った顔を見るのは」

 いつしかお葉の機嫌も直っていた。


 そして翌日、千種は老婆の家に出かけていった。お葉は代わりに、せっせと傘張りに勤しむ。

 千種は自分で言っていた通り、器用であった。千種が作った傘は、どれも精巧にできていて感心する出来栄えである。作ることに精一杯なお葉がこしらえた物とは、違いがわかるほどだった。

 こんな人に作ってもらったら、老婆も、他の誰でもきっと喜ぶだろうと、お葉は思う。

(あとは私がちゃんとしなくちゃ……)

 千種のお荷物になってはいけない。彼に飽きられないように、彼に見合う人にならなければ。

 戸口の開く音が聞こえて、お葉の思考は止まった。

「千種、いる?」

 彼の名前を呼び、家に入ってきたのは、昨日お葉が会った女――おみつだった。

 おみつはお葉の顔を見て、表情を強張こわばらせている。

「あの……千種さんは留守ですけど」

「そう」

 返事をしたものの、おみつは帰ろうとしなかった。そして唐突に、お葉に尋ねる。

「あなた、いつまで千種と一緒にいるつもり?」

「え……」

 お葉はおみつの敵意を感じ取った。

「あの人、気まぐれな人だから。その気にさせて、あなたのことを捨てるつもりかもしれないわ」

 おみつと千種の関係も気になるが、お葉は動揺するのではなく、泰然としていた。

「千種さんはそんな人じゃありません」

 きっと、おみつがにらんだ。

 お葉が敵意を受け止めたことに、ますます怒りが増しているようである。

「知ったような口をきかないで。私の方が、千種のことを知っているのよ」

 たとえおみつが過去に、千種と関係があったとしても、もう不機嫌になったりはしない。千種だって、お葉が過去に男にだまされたことも、飯盛女郎をしていたことも知っていて、一緒にいてくれるのだ。

「あなたに何と言われようと、私は千種さんを信じます」

 お葉は思い知る。本気で人を好きにならなければ、その人のことを信じることはできないのだと。

 狼狽うろたえたのは、おみつの方だった。

「邪魔するぜ」

 緊張した空気を破ったのは、突如として家の中に乱入してきた、三人の男たちだった。

「なんだ、あんたもいたのか」

 男の一人が、おみつに語りかけた。それでお葉は、男たちが用があるのは自分か、でもお葉はこの男たちを知らないから、千種に用があるのかと考える。

 どれもやさぐれた男たちだ。お葉は身構えるも、男に腕をつかまれる。

「来い」

「はなし……うっ……」

 強烈な痛みと、息苦しさがお葉を襲った。男がお葉のお腹を、思い切り殴ったのだ。

 お葉は意識を失って倒れようとするのを、男の一人が抱えた。

「千種を追って来たら、新しい女がいたってわけか」

 男は鼻で笑うように、おみつに言った。

「ばか言うんじゃないよ。今までのツケを取り返しに来たんだ」

「ならちょうどいい。この女をなぶり者にされたくなかったら、いぬの刻、この先の廃寺に来いって千種に伝えとけ」

「私には関わりのないことだよ」

 男は懐から少々の銭を取り出して渡すと、おみつは納得したようにうなずいた。

「けっ、がめつい女だぜ」


 千種は仕事が終わった帰り道、年甲斐もなく浮かれていた。

 まず、仕事が上手くいったことが、理由の一つである。依頼主の老婆は、千種の仕事ぶりを気に入って、また困ったときは来てほしいとも言われていた。しかも千種が思っていたより高額な報酬をもらえたのである。

 本当はお葉にかんざしの一つでも買ってあげたかったが、これからの生活のためにも、贅沢はできない。家に必要な物をそろえるのに、持っていた金は心許こころもとなくなっていた。

 それで千種が思いついたのは、酒を買うことだった。

 酒がちょうど底をつきかけていたのを思い出し、しかし自分が飲みたいからというわけではなく、今日は酒がなければいけなかったのだ。

(帰ったら、お葉と三三九度だ)

 千種が浮かれている最たる理由は、これにある。

 お葉は老婆に、千種のことを夫だと紹介していた。お葉とは短い付き合いだが、彼女が気まぐれや嘘で、好きでもない男を夫と紹介するとは思えなかった。だから、お葉も自分のことを好きになってくれたのだと思ったのだ。

「お葉!」

 千種は叫ぶように、家の中に入った。

 しかし姿を現したのはお葉ではなく、おみつだった。

「また来たのか」

「嫌そうに言わないでよ」

 こんな気分のいい日に、波風を立てるような存在だ。それよりも、肝心のお葉がどこにもいなかった。

「お葉は……」

「さあ。私が来たときにはいなかったけど」

 すでに夕刻だというのに、お葉はどこに行ってしまったのか。不安になって、千種は家を飛び出した。

 お葉が家に帰ることはなかった。そして千種はその日も、翌日も、お葉を見つけることが叶わないのである。

 お葉をかどわかした男たちは、昔千種が痛めつけたことのある、おみつが忠告したごろつきたちである。八王子に来ていた彼らは、千種の姿を見つけ、一泡吹かせようと企んだ。千種を痛い目に合わせれば、溜飲りゅういんが下がる。

 男たちはお葉を拐かし、千種を呼びつけて、お葉を盾に痛めつける算段であった。が、千種が現れずに、予定が変わる。

 お葉を散々に嬲るに飽き足らず、むごたらしい姿のお葉を、夜道の街道にさらした。朝になれば、誰か通行人がお葉に気づく。お葉が嬲り者にされたと嫌でも知らしめる。そのとき、千種がどんな顔をするのか。千種本人は、また別の方法で懲らしめることを考えればいい。大事にしているお葉を傷つければ、まずは満足だった。

 だが、男たちに誤算が生じた。まさか夜半よわに人が通るとは、思いもしなかった。

 通行人は二人。男たちがお葉を道上に晒して逃げるのを目撃し、何かと駆け寄る。

「こりゃあ、人じゃねぇか」

 はだけた太腿ふとももが、提灯ちょうちんの明かりであらわになる。もう一人が屈んで、その横たわる顔に提灯を近づけた。

「お葉……!」

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