三章
一
半次の父親は、誰かわからない。彼が物心のつく頃にはすでに、母一人だった。そもそも、母に伴侶がいたのかもわからない。
昔の記憶と言えば、大雨の日だろうと、雪の降るような寒い日だろうと、家の前で待たされた記憶だ。
母は毎日のように、代わる代わる男を家の中に招いた。男が来ると、半次は家の外に追い出される。背中に母の
その母は、半次が十三の時に、酒が元で亡くなった。母らしいことは何もしてくれず、いつも
母が亡くなり、途方に暮れた半次は、とある女性に拾われる。かつては水茶屋にいて、そこの客の
半次は、己の性分を悪用した。数え切れないほど女を
これが自分の定められた生き方で、最後はろくな死に方はしないのだろうと、半次は己の運命を
彼の運命を狂わせたのは、お葉という存在である。
お葉を飯盛女郎として売った後、手に入れた金で
今まで女を騙しても、良心は痛まなかった。別れたところで、他の女は
(お葉……)
自分が騙した女の名前を、何度も呼んでしまう。
お葉に抱く感情は、他の女と変わらないはずだ。同じでなければいけないのだ。お葉のことを遠ざけて、忘れていくしかない。そうでなければ、自分が自分でなくなる。
だけど、忘れられない。忘れるどころか、日に日にお葉のことを思い出してしまう。
お葉に会いに行く……?どの面下げて?
半次は内藤新宿まで足を伸ばした。だが、お葉のいる
もしお葉に会ったとして、どうする。まだお葉に好かれていると思うほど、いかれてはいない。
お葉に嫌いだと言われることが、怖かった。
「俺は……」
半次は道端に
「もし、どうなすった」
誰もが半次を見て通り過ぎる中、一人の男が声をかける。六十に差し掛かるくらいの歳の男だった。
「何でもねぇ。ほっといてくれ」
「何でもねぇって面じゃねぇぞ。
重蔵と名乗った男は、半次を飯屋に連れて行った。
半次が飯を食べるのは、二日ぶりである。金がなかったのではない。食べる気が起きなかったのだ。だがさすがに、飯屋の匂いを目の当たりにして、半次は食欲を取り戻した。
「あんたもついてねぇな。俺はとんでもねぇ悪たれだぜ。ま、今さら奢ったことを後悔したところで遅いがな」
「ほう、そりゃあついてない」
と言う割には、重蔵は平然としている。
初めて会う重蔵が、普段の半次の行いを知るよしもない。だが、重蔵には半次が、どこか投げやりで、無理をしているように見えた。
「お前さん、何かあったんじゃないのか」
「どういう意味だ」
「無駄に歳をとっているわけじゃないんでね。借金でもして、切羽詰まったといったところか。金は貸せないが、話くらいは聞いてやるぞ」
「残念だがはずれだ。たとえ借金をしても、俺には
借金をして困っていると言えば、お葉は大事な金をくれた。そして一度も、返してとは言わなかった。
重蔵が
「今まで俺に惚れてくれた女には、恩を仇で返してきた。お葉にも随分と
「そのお葉って子とは、今も続いているのかい?」
「いや、俺が無理矢理に突き放した」
「もてる割には、酷い終わり方をするもんだね」
いつもは揉めないように、後味が悪くならないように女と別れてきた。きれいに別れられなかったのは、お葉ただ一人である。
「自分から振ったくせに、未練でもあるのかい」
「…………」
「だったら素直に謝って、女遊びはやめたらどうだ。それとも性分は直らねぇか?」
「謝ったところで、お葉は許してくれねぇよ。……俺がこの内藤新宿で、飯盛女郎として売ったんだからな」
半次は一気に酒を
「あとで気づいたんだな」
お葉を遠ざけ、恨まれるようなことをしてまで、突き放したこと。半次の行動のすべては、認めたくなかった己の心にある。
「俺はお葉がいねぇとだめなんだ。お葉のためだったら、真面目に働いたっていい。でも今さら、会えねぇよ……」
半次は机に突っ伏して、泣きそうな声で言った。
「じゃあ何でお前さん、ここに来たんだ」
「…………」
「その子を
「…………」
「よっぽど、どうしようもない男のようだな」
再び会えるなら、大事にしたい。嘘偽りのない言葉で想いを伝える。いくらでも
「真面目に働くと言ったね」
「ああ……」
「なら、俺の店で働け」
思わぬ重蔵の提案に、半次は顔を上げた。
「俺は布田五ヶ宿で
布田五ヶ宿は、甲州街道の宿場町で、内藤新宿と八王子の真ん中あたりに位置する。重蔵は長年そこで、煎餅屋を営んでいた。伴侶はいないので、一人暮らしである。
(煎餅屋……たしか……)
お葉の両親も、煎餅屋を営んでいたと、かつて彼女から聞いたことがあるのを思い出す。
「お願いだ。働かせてくれ」
きっとこれは、縁なのだ。
「わかってると思うが、もしお前さんがまともになったとしても、お葉さんはもうお前さんに会いたくないと言うかもしれないぞ。それでもいいのか?」
「覚悟の上だ」
お葉は再び会ってくれるに違いないという確信が、半次にはあった。たとえお葉に散々に
その後、半次は心変わりをすることなく、重蔵の店で働いた。博打も、女を
たとえ真面目になっても、過去にしてきたことは消せないとは、重蔵に言い聞かされてきたことだ。半次もわかっている。心を入れ替えた。だから、過去のことは許してくれとは、絶対にお葉には言わないつもりだった。会いたい、心の底から愛している。この気持ちだけを伝えるつもりだ。
「そろそろ、会いに行ってやれ」
重蔵の店で働き始めて三年半、ようやく、重蔵の許しがでた。
半次は一人、内藤新宿に向かう。お葉に会える高揚と、彼女に拒絶されるのではないかという不安が、半次の鼓動を乱す。お葉の態度次第では、二度と会えなくなるかもしれないのだ。
「……!」
派手な化粧をしていても、その人だとわかった。きれいだ。猫を愛おしそうに撫でている姿も、全部。半次はお葉に
お葉も半次に気づいて、しばらく見つめ合った。
「半次さん……」
そうだ。この声だ。また、名前を呼んでくれた。
お葉は拒絶しなかった。拒絶まではいかなくとも、当たり前のことだが、責められはするだろうと踏んでいた。お葉は許してくれているというのだろうか。そんな、夢のような出来事があっていいのか。簡単に、お葉に触れることができて、いいのだろうか。
半次はありったけを、お葉に求めた。一度触れてしまえば、歯止めがきかない。もちろん飯盛女郎を抱くには金が必要で、半次は自分で働いて貯めた金を払い、お葉と
お葉はまだ、好いてくれている。
「また抱けるとは思わなかった」
でも、何か一つ、お葉を見ていて足りないものがある。それを思い知るのは、お葉に次の言葉を言われたときだった。
「半次さん、おかしなこと言うのね。お金を払えば、飯盛女郎は抱けるのよ」
半次は
とんだ
半次が知ることのないことだが、厳密に言えば、お葉の中には、半次に対する恋慕の気持ちは、少なからず残っていたのだ。だが、それは消えつつあったので、ないも同じである。
お葉はさっさと着物を整えて、新たな客の元に行こうとしてしまう。
「行かないでくれ」
半次は必死だった。ここは一夜の夢を買うところ。だけど、半次にとっては一夜ではすまされない。しかしお葉が去れば、夢であったとなりそうで、せめて今宵だけはずっと、隣にいてほしかった。
お葉は嫌がるでもなく、側にいてくれた。
(どうして笑ってくれないんだ……)
半次が思い出すのはいつも、お葉の笑顔であった。特に神田明神で
お葉の年季が明けるまで、あと一年半。年季が明けた後は、お葉はどこに行くのだろう。お葉に頼れる人はいない。頼れるとすれば半次だけだ。だが、半次は決して自分の元へは来ないだろうと、思い知っていた。
重蔵には、お葉のことは
諦めるものか。また、振り向かせればいいのだ。
半次の恋心は消えなかった。約半年後、半次は再び、お葉に会いに行った。しかし、お葉はすでに店にはいなかった。
お葉は千種という男に、身請けをされていたのだ。
(まさか、あいつ……)
お葉には他に、好きな人がいた。どうしてその考えに及ばなかったのだろう。
今まで振ることはあっても、振られたことのない半次には、考えられなかったことだ。
「男ならきっぱり諦めろ。お葉さんが幸せならいいじゃないか」
幸せかどうかなんて、わかるものか。簡単に諦められるのならば、同じことをくり返している。
半次は重蔵の言葉を受け止めきれずにいた。
内藤新宿でお葉のことを聞いた後で、半次は布田五ヶ宿を通り過ぎて、八王子へと向かった。もちろんお葉を探すためである。千種が店を後にするときに、八王子へ向かうような話をしていたと、お葉のいた店の主人に教えられていた。重蔵もついてきてくれたのだが、実は半次が馬鹿な真似をしないかが心配だったのである。しばらく探したが、半次はお葉を見つけられなかった。最後は重蔵に説得されて、布田五ヶ宿に戻ることにした。のんびりと旅籠に泊まるよりも、早く家に帰りたいという半次の気持ちを
半次が衝撃的な再会を果たすのは、このときである。
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