三章

 半次の父親は、誰かわからない。彼が物心のつく頃にはすでに、母一人だった。そもそも、母に伴侶がいたのかもわからない。

 昔の記憶と言えば、大雨の日だろうと、雪の降るような寒い日だろうと、家の前で待たされた記憶だ。

 母は毎日のように、代わる代わる男を家の中に招いた。男が来ると、半次は家の外に追い出される。背中に母の嬌声きょうせいを聞きながら、半次はずっと、男が帰るのを待っていた。

 その母は、半次が十三の時に、酒が元で亡くなった。母らしいことは何もしてくれず、いつもさみしい思いをしていたことは、半次は大人になってからも忘れられなかった。

 母が亡くなり、途方に暮れた半次は、とある女性に拾われる。かつては水茶屋にいて、そこの客のめかけになっていた女だった。女は独り寝が寂しい、寂しいと言って、半次の体を温めた。女の嬌声に母を探したが、どこにもいなかった。いつしか母の記憶も薄らぎ、それからも似たようなことを女に求められて、半次は己の性分に気づく。自分は、女心をくすぐる気配を持っているのだと。

 半次は、己の性分を悪用した。数え切れないほど女をもてあそび、だました。不思議なほどに、半次は誰からも責められなかった。

 これが自分の定められた生き方で、最後はろくな死に方はしないのだろうと、半次は己の運命をさとった気でいた。

 彼の運命を狂わせたのは、お葉という存在である。

 お葉を飯盛女郎として売った後、手に入れた金で博打ばくちをしても、酒を飲んでも、気持ちは晴れず、むしろ不快感が増していたのである。

 今まで女を騙しても、良心は痛まなかった。別れたところで、他の女は容易たやすく見つかった。

(お葉……)

 自分が騙した女の名前を、何度も呼んでしまう。

 お葉に抱く感情は、他の女と変わらないはずだ。同じでなければいけないのだ。お葉のことを遠ざけて、忘れていくしかない。そうでなければ、自分が自分でなくなる。

 だけど、忘れられない。忘れるどころか、日に日にお葉のことを思い出してしまう。

 お葉に会いに行く……?どの面下げて?

 半次は内藤新宿まで足を伸ばした。だが、お葉のいる旅籠はたごには近寄れなかった。

 もしお葉に会ったとして、どうする。まだお葉に好かれていると思うほど、いかれてはいない。

 お葉に嫌いだと言われることが、怖かった。

「俺は……」

 半次は道端にうずくる。今までお葉にしてきたことの愚かさに、耐えられなくなった。

「もし、どうなすった」

 誰もが半次を見て通り過ぎる中、一人の男が声をかける。六十に差し掛かるくらいの歳の男だった。

「何でもねぇ。ほっといてくれ」

「何でもねぇって面じゃねぇぞ。おごってやるから、来なさい」

 重蔵と名乗った男は、半次を飯屋に連れて行った。

 半次が飯を食べるのは、二日ぶりである。金がなかったのではない。食べる気が起きなかったのだ。だがさすがに、飯屋の匂いを目の当たりにして、半次は食欲を取り戻した。

「あんたもついてねぇな。俺はとんでもねぇ悪たれだぜ。ま、今さら奢ったことを後悔したところで遅いがな」

「ほう、そりゃあついてない」

 と言う割には、重蔵は平然としている。

 初めて会う重蔵が、普段の半次の行いを知るよしもない。だが、重蔵には半次が、どこか投げやりで、無理をしているように見えた。

「お前さん、何かあったんじゃないのか」

「どういう意味だ」

「無駄に歳をとっているわけじゃないんでね。借金でもして、切羽詰まったといったところか。金は貸せないが、話くらいは聞いてやるぞ」

「残念だがはずれだ。たとえ借金をしても、俺にはみついでくれる女がごまんといるんでね。……お葉も、そうだった」

 借金をして困っていると言えば、お葉は大事な金をくれた。そして一度も、返してとは言わなかった。

 重蔵が徳利とっくりを差し出して、半次の杯に注ぐ。話すには、見ず知らずの重蔵はうってつけだ。重蔵も話を聞きたがっている。

「今まで俺に惚れてくれた女には、恩を仇で返してきた。お葉にも随分とひどい仕打ちをしたもんだ」

「そのお葉って子とは、今も続いているのかい?」

「いや、俺が無理矢理に突き放した」

「もてる割には、酷い終わり方をするもんだね」

 いつもは揉めないように、後味が悪くならないように女と別れてきた。きれいに別れられなかったのは、お葉ただ一人である。

「自分から振ったくせに、未練でもあるのかい」

「…………」

「だったら素直に謝って、女遊びはやめたらどうだ。それとも性分は直らねぇか?」

「謝ったところで、お葉は許してくれねぇよ。……俺がこの内藤新宿で、飯盛女郎として売ったんだからな」

 半次は一気に酒をあおる。重蔵は驚きのあまり、そしてあきれかえり、半次の空になった杯に酒を注ごうとはしなかった。

「あとで気づいたんだな」

 お葉を遠ざけ、恨まれるようなことをしてまで、突き放したこと。半次の行動のすべては、認めたくなかった己の心にある。

「俺はお葉がいねぇとだめなんだ。お葉のためだったら、真面目に働いたっていい。でも今さら、会えねぇよ……」

 半次は机に突っ伏して、泣きそうな声で言った。

「じゃあ何でお前さん、ここに来たんだ」

「…………」

「その子をあきらめる気があるのか」

「…………」

「よっぽど、どうしようもない男のようだな」

 再び会えるなら、大事にしたい。嘘偽りのない言葉で想いを伝える。いくらでもびて、許してくれるまで尽くす。だが、再会することは叶わないのか……

「真面目に働くと言ったね」

「ああ……」

「なら、俺の店で働け」

 思わぬ重蔵の提案に、半次は顔を上げた。

「俺は布田五ヶ宿で煎餅せんべい屋をやっている。一人でやっているもんだから、たいした給金は出せねぇが、どうだい?」

 布田五ヶ宿は、甲州街道の宿場町で、内藤新宿と八王子の真ん中あたりに位置する。重蔵は長年そこで、煎餅屋を営んでいた。伴侶はいないので、一人暮らしである。

(煎餅屋……たしか……)

 お葉の両親も、煎餅屋を営んでいたと、かつて彼女から聞いたことがあるのを思い出す。

「お願いだ。働かせてくれ」

 きっとこれは、縁なのだ。

「わかってると思うが、もしお前さんがまともになったとしても、お葉さんはもうお前さんに会いたくないと言うかもしれないぞ。それでもいいのか?」

「覚悟の上だ」

 お葉は再び会ってくれるに違いないという確信が、半次にはあった。たとえお葉に散々にののしられようと構わない。もう一度、惚れた女に、まっとうになって会いたい。

 その後、半次は心変わりをすることなく、重蔵の店で働いた。博打も、女をたぶらかすようなことも、一切していない。どこからどう見ても、好青年だった。

 たとえ真面目になっても、過去にしてきたことは消せないとは、重蔵に言い聞かされてきたことだ。半次もわかっている。心を入れ替えた。だから、過去のことは許してくれとは、絶対にお葉には言わないつもりだった。会いたい、心の底から愛している。この気持ちだけを伝えるつもりだ。

「そろそろ、会いに行ってやれ」

 重蔵の店で働き始めて三年半、ようやく、重蔵の許しがでた。

 半次は一人、内藤新宿に向かう。お葉に会える高揚と、彼女に拒絶されるのではないかという不安が、半次の鼓動を乱す。お葉の態度次第では、二度と会えなくなるかもしれないのだ。

「……!」

 派手な化粧をしていても、その人だとわかった。きれいだ。猫を愛おしそうに撫でている姿も、全部。半次はお葉に見惚みとれていた。

お葉も半次に気づいて、しばらく見つめ合った。

「半次さん……」

 そうだ。この声だ。また、名前を呼んでくれた。

 お葉は拒絶しなかった。拒絶まではいかなくとも、当たり前のことだが、責められはするだろうと踏んでいた。お葉は許してくれているというのだろうか。そんな、夢のような出来事があっていいのか。簡単に、お葉に触れることができて、いいのだろうか。

 半次はありったけを、お葉に求めた。一度触れてしまえば、歯止めがきかない。もちろん飯盛女郎を抱くには金が必要で、半次は自分で働いて貯めた金を払い、お葉と同衾どうきんする。

 お葉はまだ、好いてくれている。

「また抱けるとは思わなかった」

 でも、何か一つ、お葉を見ていて足りないものがある。それを思い知るのは、お葉に次の言葉を言われたときだった。

「半次さん、おかしなこと言うのね。お金を払えば、飯盛女郎は抱けるのよ」

 半次は愕然がくぜんとした。

 とんだ自惚うぬぼれだった。お葉はもう、愛してくれてはいない。あくまで飯盛女郎として、お葉は抱かれたのだ。

 半次が知ることのないことだが、厳密に言えば、お葉の中には、半次に対する恋慕の気持ちは、少なからず残っていたのだ。だが、それは消えつつあったので、ないも同じである。

 お葉はさっさと着物を整えて、新たな客の元に行こうとしてしまう。

「行かないでくれ」

 半次は必死だった。ここは一夜の夢を買うところ。だけど、半次にとっては一夜ではすまされない。しかしお葉が去れば、夢であったとなりそうで、せめて今宵だけはずっと、隣にいてほしかった。

 お葉は嫌がるでもなく、側にいてくれた。

(どうして笑ってくれないんだ……)

 半次が思い出すのはいつも、お葉の笑顔であった。特に神田明神で逢瀬おうせを重ねていた頃は、お葉はよく笑っていたものだ。半次は都合の良い思い出だけを、よみがえらせていたに過ぎない。お葉はいつしか、笑わなくなっていた。半次のことを愛していたからこそ、彼の仕打ちに耐え、笑顔を失ったのだ。

 お葉の年季が明けるまで、あと一年半。年季が明けた後は、お葉はどこに行くのだろう。お葉に頼れる人はいない。頼れるとすれば半次だけだ。だが、半次は決して自分の元へは来ないだろうと、思い知っていた。

 重蔵には、お葉のことはあきらめろと言われた。

 諦めるものか。また、振り向かせればいいのだ。

 半次の恋心は消えなかった。約半年後、半次は再び、お葉に会いに行った。しかし、お葉はすでに店にはいなかった。

 お葉は千種という男に、身請けをされていたのだ。

(まさか、あいつ……)

 お葉には他に、好きな人がいた。どうしてその考えに及ばなかったのだろう。

 今まで振ることはあっても、振られたことのない半次には、考えられなかったことだ。

「男ならきっぱり諦めろ。お葉さんが幸せならいいじゃないか」

 幸せかどうかなんて、わかるものか。簡単に諦められるのならば、同じことをくり返している。

 半次は重蔵の言葉を受け止めきれずにいた。

 内藤新宿でお葉のことを聞いた後で、半次は布田五ヶ宿を通り過ぎて、八王子へと向かった。もちろんお葉を探すためである。千種が店を後にするときに、八王子へ向かうような話をしていたと、お葉のいた店の主人に教えられていた。重蔵もついてきてくれたのだが、実は半次が馬鹿な真似をしないかが心配だったのである。しばらく探したが、半次はお葉を見つけられなかった。最後は重蔵に説得されて、布田五ヶ宿に戻ることにした。のんびりと旅籠に泊まるよりも、早く家に帰りたいという半次の気持ちをんで、重蔵は彼と、夜道を歩いていた。

 半次が衝撃的な再会を果たすのは、このときである。

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