千種に行きたい場所はあるかと問われたが、特にないとお葉は答えた。例えば西国まで行きたいと言って、彼が連れて行ってくれるのだろうか。その前に、またどこかの宿場町で、売られるかもしれない。手形を持っていないと伝えれば、手形くらい簡単に偽装できると言ってのける。

「とりあえず、八王子にでも行くか」

 二人は内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を目指す。

 道中、休み休み移動し、初日は府中に泊まることにした。

 千種は適当に旅籠はたごを見つけて、中に入ろうとする。が、お葉は立ち止まった。

「どうした?違うとこがいいなら……」

「何でもありません」

 お葉が中に入るのを躊躇ためらったのは、千種がこの旅籠に自分のことを売ろうとしているのではないかと、おびえてしまったからだった。

 しかし中に入ってみれば、この旅籠は飯盛女郎のいない、老夫婦の営む普通の旅籠であった。

「急に旅をしたもんだから、疲れてるだろ。ゆっくり休め」

 お葉は念仏のように、騙されないと、心の中で唱えていた。

 もっと早く歩けるだろうに、歩く速さを合わせてくれたことも、時折、きれいな景色に気づいて教えてくれたことも、すべて嘘に違いない。

 たとえどこかに売られることになっても、はじめから騙されていると思っていれば、いざというときに辛くないと、お葉は自身に言い聞かせた。

「あらぁ、本当に顔色が悪そうですね」

 旅籠の女将おかみが食事を運びに来たとき、お葉を見てそう言った。

「そちらの旦那様が心配して、何か精の付く物を作ってくれって言いに来ましたものですから。お医者をお呼びしましょうか?」

(旦那様……)

 一瞬、千種がそう思われていることにどきりとしたが、お葉はすぐに思い直す。千種は周りに怪しまれないように、自分とお葉は夫婦なのだと説明したのだろう。

「いえ、疲れているだけですから……お気遣いありがとうございます」

 何かあったら呼んでくださいと、女将は親切だった。

 お葉は千種にも、お礼を言いたかった。でも、騙されているだけだと思う気持ちが、言葉にしてはくれない。千種に、薄情な女だと思われただろうか……

「ほら、冷めないうちに食えよ」

 丸々と太い鯉の切り身が、汁の中に浮かんでいて、味噌のいい匂いが心を和ませてくれる。

こいこくだ。まっこと美味ってやつだ」

 お葉はこの料理を知らなかった。だが、食欲の前に躊躇いはない。

 まずは汁を口の中に流し込む。鯉の出汁だしがふんだんに感じられ、舌を鳴らす。すぐに身も食べたくなって、箸でほぐしてみる。くせのある、けれど噛むたびに味わい深くなる料理に夢中になった。

「まっこと、美味です」

 千種は安心したように笑った。

夕餉を食べ終え、辺りが暗くなれば、お葉は早々に寝床に着いた。お葉は眠る前、衝立ついたての向こう側にいる千種がまだ起きている気配を感じた。

(一体、どういうつもり……)

 今宵も千種は体を求めなかった。好きならばなぜ、抱いてくれないのか。好きではないから、抱かないのか。

 千種といると、自分が飯盛女郎をしていたことを忘れそうになる。

 そのうち、お葉はまぶたの重さに耐えられなくなって、眠りについた。


 ふと夜中に目が覚めた。

 視界が暗闇なので、まだ起きるには随分と早いのだと、再び眠りにつこうとするも、中々に眠れない。部屋が静寂せいじゃくに満ちているとわかるや、お葉は千種の寝息が聞こえないことに不安になる。衝立をけてみれば、布団はもぬけの殻だった。

「…………」

 やはり、騙されたのだ。

 今度はどこに、売られるのだろう。それとも姿を消して、ひとりぼっちにさせただけなのか。

 千種が裏切ることは、わかっていたことだ。あんなに言い聞かせていたことなのに、どうして涙が出るのだろう。

 追いかけたところで、千種はもういない。お葉は布団の中で、誰が聞いているというわけではないのに、声を押し殺して泣いた。

「お葉……!」

 障子戸の開いた音には気づかず、けれど千種の声はしかと聞こえた。

「どうした……」

 ただ事ではないお葉の様子に、千種が懸命に話しかける。

 千種がいるとわかっても、お葉の涙は止まらなかった。今度は千種の声に、存在に安堵あんどして、泣いてしまうのだ。

 千種はお葉が泣き止むまで、布団越しに背中を撫でていた。

「怖い夢を見たの……」

 子どもではあるまいし、上手な嘘とはいえない。でも、千種の姿がなくてとは、言えなかった。いつか騙される人に、正直にはなれなかった。

「ごめん……」

 心配してくれた千種に謝ろうとして、お葉は途中で言葉を失う。千種に手を握られたからだった。

「明日になったら、いい話を聞かせてやる」

 お葉の嘘を見透かしたのか。それとも信じたのか。除けられた衝立を見て、彼は何を思ったのか。お葉はわからないし、知る勇気もない。

 お葉は千種の手を、握り返した。

 何人もの男の手を握ってきたのに、こんなに温かく、絡めたいと願ったことはなかったはずだ。なのに、この手の大きさを、感触を、覚えている気がする。気のせいだと思う前に、お葉は眠りについていた。


 翌日、八王子に着いた二人は旅籠ではなく、とあるぼろ家に向かっていた。というのも昨夜、寝付けない千種が旅籠の主人と晩酌をしていたときのことである。

 年寄りになると、何度も目が覚めてしまうと笑いながら、主人は愛想良く話した。

「お前さんたち、これからどこに行きなすんだ」

「とりあえず、八王子へ」

「何だい、目的地はないのかい?」

「江戸で金が貯まったから、どこぞに腰を落ち着けて、商売でもできたらって思ってるんだが、まあ、あてはねぇんで」

 長年、旅籠を営み、たくさんの人を見てきた主人は、千種が気質かたぎの人間ではないことを、見抜いていた。お葉のこともまた、春を売っていた名残を感じ取っている。

 しかし客の素性を暴くようなことは、今までもしてこなければ、二人のことも深く詮索せんさくはしなかった。

「八王子に行くといったね」

「ああ」

「ならちょうどいい。私の兄が住んでいた家があるんだが、そこに腰を落ち着けちゃあどうだい」

 独り身であった兄が亡くなってから、その家は無人だという。大通りからは離れていて、店を構えるにも客が寄りつく場所ではなく、買い手が付かないので持て余していると、主人が言った。

 ただの男女の二人連れなら、主人は家のことを話さなかった。だが、お葉の体調を心配する千種の様子を見て、話してみようという気になったのである。

 持ち主が亡くなってから、手入れも何もしていないから、かなり朽ちているかもしれないということ。店を構えるのには不都合な場所ということ。この二つさえ飲んでくれれば、安値で売るとのことで、千種は翌朝、お葉に相談した。千種が言っていたいい話とは、このことである。お葉も文句などなく、二人は主人から家を買ったのであった。

「きれいにすりゃ、なかなかいい家じゃねぇか」

 実際に着いてみると、たしかに家の中は汚かった。扉の立て付けも悪いが、それはあとで直すことにして、とりあえず、寝床だけは確保しようと、家に着くなり大掃除が始まった。

 二間しかない家だが、二人が生活するのには、十分な広さである。

(本当に、ここに住む気……?)

 千種がだましているような素振りは毛ほどもなく、いつしかお葉の気も、緩みがちになった。油断してはいけないと思いながらも、これから暮らす家が気に入ってしまった。

「千種さんのやりたいことって、何ですか?」

 あとは寝るだけとなった夜、またしても夜更かしをしようとしている千種に、思い立ってお葉が尋ねる。お葉が気になっていたことであった。

「表具屋だ」

 表具屋とは、障子を張り替えたり、掛け軸などを作成したりする、職人である。過去に危ない橋を渡っていた人間が考える仕事にしては、意外な職であった。

「こう見えて、手先は器用でよ。はじめからうまくいくわきゃねぇが、いつかは表具屋として食っていけたらって思うよ」

 これからのことを考えている千種を目の当たりにして、お葉はあせった。千種と共に生活するにしろ、しないにしろ、生きていくためには職を見つけなければならない。千種のように、これといってできるものは何もないのだから、もっときちんと考えなければならないのは自分だと、お葉は情けなくもなる。

 それに、千種が身請けしてくれた三十両という金は、お葉が一生かかっても、稼げない額である。どうつぐなえばいいのかわからず、目眩めまいがしそうだった。


 翌日、お葉は家の掃除を終えるなり、町に行ってしまった。仕事を探しに行くと言っていたが、お葉はこのままいなくなってしまうのではないかと、後になって千種は懸念けねんした。そう感じたのは、お葉がいつまでも他人行儀だからである。

 まだ、二人は他人のままだった。このままお葉がいなくなってしまったとしても、おかしくはない関係である。

 千種はふらふらと、お葉を探しながら町の中を歩く。

「千種」

 ふと女に呼び止められて、でもお葉の声、呼び方ではないと理解しつつ、振り返る。

「……おみよ」

 なぜ彼女が、こんなところに……

 驚く千種とは裏腹に、おみよは顔をほころばせて千種に駆け寄った。

「お前、なんで八王子にいるんだ」

「何でって、千種を追って来たのよ」

「俺を……」

「甲州街道の方に行くのを見た人がいたから、その人から聞いて来てみたの。でもよかったわ。八王子を過ぎてたら、あきらめようって思ってたのよ」

「いくらほしい?」

「……え?」

「大方、博打で大もうけをしたって聞いたんだろ。渡せるだけの金はやるから、さっさと消えろ」

 おみよは千種の素っ気ない態度にめげずに、千種にしなだれかかろうとした。が、千種は背を向けた。

「いい女と一緒にいるんだ」

 おみよは千種の、昔の馴染みであった。彼女が働いていた茶屋では皆、御上に隠れて色を売っていて、おみよもその一人であり、千種はおみよの客であった。つかず離れず関係は続いていたが、もう六年も前に、関係は消滅していた。別れてから一度も会ったことはなく、お互いどうしていたかはわからなかったはずだ。なのにおみよは今になって、千種を追いかけてきた。

「ふーん……一つ忠告してあげる。あんたが一家にいたときらしめてた連中を、この辺で見たわ」

「俺には関係ねぇ」

 そうは言ったものの、千種は内心、穏やかではなかった。

 すでに一家を抜けたとはいえ、連中がそうですかと納得するわけもなく、だが事を荒立てる事態にはなりたくない。

 たとえ見つかっても、相手にしなければいいのだ。もう一家とは何の関わりもないのだから。

 千種はこのときの考えが甘かったことを、あとで思い知ることになる。

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