二章
一
「お前さん、年季はあとどれくらい残ってるんだ?」
不思議な客だった。
客引きをしていたら来てくれた客なのに、夜が更けても、事に及ぼうとしない。静かに酒を飲んでいたかと思えば、今度はこんな質問をされて、お葉は戸惑いながらも答える。
「あと一年……」
お葉の年季は五年である。飯盛女郎になってから、四年の月日が経とうとしていた。
「生まれは?」
「江戸の神田」
「親に売られたのか?」
女郎の過去を聞き出そうとしているこの男は、一体何者なのだろうか。
名前は
「二親はとっくの昔に死んでる。私、好きな人に売られたのよ」
答えたのは気まぐれだ。
千種はどうしてか、過去を聞きたがった。
お葉は一度、千種に会っているらしい。二年前に、その日も客としてお葉が相手にしたそうだが、お葉は彼のことを覚えていなかった。一日に何人をも相手にするときがある。その一人一人を覚えることなど、できなかった。
客引きをされなくても、千種はお葉に会いに来たという。もう一度会いに来てくれた客に、お葉は覚えていなかった罪滅ぼしも兼ねて、過去を語った。
半年前のことだった。
お葉は店の前で、猫を抱きかかえていた。気の早い女たちは客引きをしているが、まだ人通りが
猫に見入っていたお葉は、視線を感じて、顔を上げた。
あと五歩という距離に、お葉を見つめる男が立っていた。
猫はお葉につられるように男を見た途端、
いつまで見つめ合っていただろうか。お葉はやっと、口を開く。
「半次さん……」
久方ぶりの再会であった。
お葉を売った張本人であり、今まで一度も会いに来てくれなかった男である。
それが、どういう風の吹き回しか。
高揚も、落胆もなかった。半次は客として、お葉の肌を
「また抱けるとは思わなかった」
「半次さん、おかしなこと言うのね。お金を払えば、飯盛女郎は抱けるのよ」
好きな人にだけ……飯盛女郎にそんな考えはない。客の
半次は早い時間に来たので、あと一人や二人は客を取れる。しかしお葉が別の客の元へ行こうとするのを、半次が引き留めた。
「行かないでくれ」
見捨てられるのを恐れているような、一人になるのが怖い子どものような顔で、半次は
とても離れられなくて、お葉は行くのを止まる。
半次はお葉がどこにも行かないとわかると、しばらくしてぐっすりと、安心したように眠った。決して離れないといわんばかりに、お葉を抱きしめたまま、寝息を立てる。
お葉は隣にいる半次の顔を、じっと見つめる。寝顔を見るのは初めてだった。
細身に思えていた半次の身体は、健康的なくらいに、少し肉が付いたようだ。半次の着物からは、何か香ばしい匂いがする。何より顔つきが、前よりも穏やかになっている気がした。
半次には、誰かいい人がいるのかもしれない。毎日面倒を見てくれるような、もしかしたら妻がいるのではと、そんなことを考える。
翌日の早朝、半次は店を後にしようとした。
「ちゃんと飯は食ってるのか?」
「うん。毎日食べてる」
「そうか……年季もあと少しだから、辛抱しろよ」
お葉が
しばらく歩いてから、半次は振り返る。お葉がまだ見送っていることがうれしいように、優しげに笑った。
このときお葉は、半次に対する未練を断ち切った。
思い出すたびに哀しくて、会いたくて、泣いていた日々はすでに昔のことである。
半次はきっと、自身の後ろめたさから今になって会いに来てくれた。もう泣いていないお葉を見て、安心してくれたに違いない。お葉も、彼が笑っていてくれるようにと、彼に対する一切の恋慕を断ち切ったのだ。
「そいつのこと、恨んでねぇのか?」
お葉の過去を知った千種は、
「好きで好きで仕方なかった。だからちっとも、恨んでない」
お葉は半次に
だが、お葉は半次を恨んではいなかった。はじめは未練から、でも今では、本気で愛していた気持ちに、後悔をしていないという思いから。
あと一年もすれば、お葉は自由になる。半次と江戸を出ようと行動しなければ、一生奉公させられて、自由にはなれなかった。たとえ春を売る商売をすることになっても、今の方がずっと良かったと、お葉は思っている。
「もし昔の男に未練がねぇなら、考えてほしい」
何を、とお葉が問う前に、千種が言った。
「あんたを身請けしたい」
お葉は驚いたが、すぐに冗談を言われているのだと思い直す。お葉は覚えていないが、千種と会うのは、今日で二度目である。馴染みならともかく、顔も覚えていなかった彼が、身請けなどとは途方もない話だ。
「さっきここの主人に確認したら、あんたを身請けするには三十両の金が必要らしい」
確かに千種は一度、部屋を出たときがあった。
千種が確認したかどうかはともかく、三十両という額は、冗談でもなさそうだ。飯盛女郎を身請けするにはそのくらいはかかるだろうと、お葉は経験でわかる。
千種はおもむろに、自身の荷物を取って、中身を開いてみせる。なんとそこには、何十枚もの金子があった。
「足りてよかった。おつりも少し出るから、しばらくは食うに困らせねぇよ」
「…………」
千種は枚数を数えて、三十両だけをお葉の前に置く。金子は本物だ。
「
「……
千種がお葉を身請けするのに必要な額が三十両と知ったのは、今日、主人に聞いたときである。博打で三十両以上もの大金を得たあとで、知ったということだ。
「あんたに
好きだの可愛いだのは、飯盛女郎になってからは、言われ慣れている。本当にそう思ってくれたとしても、一夜の夢だ。ならば千種も、一夜の夢を見ているのかもしれない。
「一回きりの、すぐに忘れてもおかしくねぇはずなのに、時折、あんたの顔を思い出しちまって、今の今まで忘れられなかった」
「来たのは一回きりじゃない」
冗談でも、うれしいとか、客相手にはそんな言葉を言うべきなのだろう。嘘で取り
揶揄っているにしては度が過ぎている。簡単に騙せるとでも思われているのなら、少し腹が立った。
「そうだな……俺は……素直に言えば、会いたかったのかもしれない。だが、会いたくもなかった」
お葉が立腹しているのを感じ取ってか、千種は言葉を選ぶようにして先を続ける。
「惚れた
千種はおもむろに
「もう動かせねぇかと思ったが、最近じゃまともになった」
「……どうして、一家を辞めたの?」
そんな傷をしてまでなぜと、お葉は気になった。
「博打で大金を手にして、ふとやりてぇことを思いついたんだ」
「やりたいこと?」
「それは後で教えてやるよ。で、俺の中では瞬時に決まっていた。これだけの大金があれば、ある程度は好きなようにできる。一家にいるよりも、もっとやりてぇことができる。ってなわけで、足を洗う気になったわけよ」
「だったら、三十両も無駄にすることはないじゃない」
そのやりたいことに金がかかるのかはわからないが、これから生きて行くにしても、金があるのに越したことはない。わざわざ自分を身請けする魂胆がわからなかった。
「ふと思いついたのは、もう一つ。あんたを身請けしたいと思ったんだ」
「…………」
「やりたいこともして、好いた女といる。まぁ、欲張りな発想だな」
嘘だ。だって千種は、一度しか来なかった客だ。と、お葉は声に出さなかったのに、千種に伝わって、彼が答えた。
「何度も足を運ばなかったのは、金を払えばあんたを抱くことできるからだ」
「…………?」
千種は何を言っているのだろう。金を払えば飯盛女郎を抱けるのは、当たり前のことだ。しかも、本当に慕ってくれているなら、なおさら抱きたいものではないのだろうか。
男は、好きな人ではなくても、抱くことができる。だから飯盛女郎のような存在がいる。半次がそうであった。
半次も同じ気持ちであると、信じて疑わなかった。だけど、違うのだと知ったのは、飯盛女郎になってからである。
「心底惚れてんだ」
「……そんなこと言われたの、初めて」
千種は一瞬、驚くような顔をした。お葉を騙していた男は、言ってくれなかったのかと問いたげに。
そう、半次は一度も、嘘でも好きだとは言ってくれなかったのだ。
「あんたからしてみれば、いきなり俺を好きになれってのも、無理な話だ。だからこう考えてくれ。身請けされれば、どう転んでもあんたは自由になる。俺といて、もしも好いてくれるのなら、この先も俺と一緒にいてほしい。好かなかったら、俺から逃げてくれ」
「私が好きにならなかったら、あなたは大損じゃない」
三十両も払ったのに逃げられれば、どう考えても大損だ。どのみちお葉には得になるが、千種は損をすることもあり得る。
そんな虫のいい話が、あっていいわけがない。
しかしお葉は、自由になったところで、帰る場所などない。まさか、奉公が決まっていたのに家を飛び出した、叔母の家に帰ることなどできなければ、他に頼る人もいない。そもそもこの話は、お葉は千種といるしかないという選択しか、ないということか。
はたまた千種は、騙す気でいるのかもしれない。明日になれば、冗談だったと笑われるのが落ちか。それとも、三十両よりもっと高値で、どこかへ売り飛ばすのではないだろうか。だが、とうのたった、特別端正でもない女を、三十両という大金で買ってくれる店があるだろうか。もしかしたら、外国にでも売り飛ばすのか。
お葉が色々と考えを巡らせてわかるのは、千種のことを、信じられないということだけだった。
「俺はあんたが寝たら寝る」
千種は最後まで肌に触れようとはせずに、女郎を先に寝かされるという奇妙な行動をする。その後は会話も続かないだろうと思って、お葉は先に寝床に入った。
翌朝、お葉は目を覚ました。
久しぶりに、ぐっすりと眠ってしまったようだ。ぼやけた頭が覚醒してくると、徐々に昨夜の出来事を思い出す。
「…………!」
隣に、千種はいなかった。
やはり昨日、千種が言っていたことは嘘だったのだと、思い至る。
想定はしていた。だから、落胆などしない。
すると軽い
「あ……」
まさかずっと、その体勢で眠っていたのだろうか。器用と言えば器用。だが、変わっている。
「ふふっ……」
お葉は思わず、微笑ましくなった。
春の訪れまではそう遠くないとはいえ、早朝は冷え込む。寒いだろうにと、お葉は千種に羽織をかければ、彼が目覚めようとした。
「ごめんなさい、起こしちゃった?」
「いや……」
千種に起きる気があるのを見て、お葉は
昨夜は酒ばかり飲んでいたからか、よほどお腹が空いていたのだろう、千種は三杯もおかわりをする。
ずっと給仕をしていたお葉だったが、ついに千種が食べ終えるまで、何も言われることはなかった。
(やっぱり、嘘だったんだ……)
きっと千種はこの後、何食わぬ顔で帰ってゆく。自分が縋ってくるのを待っていて、それを
「支度しろよ」
「え……?」
喋らないとしていたはずが、反射的に答えてしまった。
「もう主人には身請け金を渡してある。いつでも出て行っていいとよ」
嘘だ。信じられない。
お葉は千種を放って、主人の元に確かめに行った。
金などもらっていない。お前さんはまた騙されたのかと主人に言われると思ったのだが、千種は真実、お葉が朝餉の準備をしている間に、金を払っていたのだった。
「本来は馴染みのお客にしか身請けはさせないんだが、その分、あの人からは色をつけてもらったからね。もう騙されるんじゃないよ」
こうしてお葉は、飯盛女郎を辞め、千種と行動を共にするのであった。
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