頭がぐるぐるとき乱されるように重い。酒の所為せいだろう。そう言い聞かせては、何度もお葉の姿を思い出してしまう。

 元々、お葉の体格は小さいが、けれどわかるほどに、やつれてしまっていた。

 二ヶ月も給金を、叔母に渡せなかったのだ。お葉がどんな仕打ちを受けたのか、だいたい予想はつくし、予想以上のことをされたのかもしれない。

 何も今までに、お葉だけをあんな姿にしてきたわけではない。でも皆が皆、自分を責めなかった。悪者にならないまま、きれいに別れられた。

経験上、お葉とはここで、別れた方がいいともわかっている。

お葉もきっと、自分を責めはしないだろう。その代わりに、計り知れない涙を流すに違いない。

はじめてだった。心を乱されるのは……

罪悪感というものが自分にあったのか。別の理由なんて、思いもつかない。

今まで平気だったことなのに。

「さすがにやりすぎたか……」

「へぇ。兄貴にそこまで言わせるほど、いい女なんですかい?」

 松吉は面白がるように聞いた。居酒屋で一人、半次が飲んでいると、いるのが勘でわかったのか、松吉が相伴しょうばんにあずかりに来たのである。

 お葉は可愛いが、特別きれいな容姿でもなければ、少し実年齢よりも幼く見える。他にいい女は、いくらでもいた。

「一緒にいると、落ち着くんだぜ」

 何でも言うことを聞く、都合のいい女の一人だ。深く詮索せんさくもしないし、一度もなじることさえないのだ。

「らしくないなぁ。まさか兄貴……」

「馬鹿野郎。こうやって飲み食いできるのは、あいつのおかげなんだ。金蔓は大事にしねぇとな」

 なぜ別れた方がいいのに、お葉との関係を続けようとしてしまうのか。彼女の従順さが際立っているからだとしても、このままでは、よくないことが起こる。半次は己の警告を、受け止められないでいた。

 夜風に当たり、酔いを覚まそうとしても、一向に頭は重いままだ。すっきりとした気分になれないまま、半次はゆったりと、家路に就く。

 どぼんと、水しぶきの大きな音が聞こえて、半次は右手に広がる川を見やる。音がしたのは、半次のいる場所から、さほど離れていないところのようだった。魚が跳ねるにしては大きすぎる音に、半次は立ち止まってしまう。

「大川で身投げだ!」

 橋には、半次と同じくどこぞで飲んだ帰りの男たちが、二、三人ほど集まって、叫んでいた。

――大川にでも飛び込まれたら、厄介ですもんね。

 かつて松吉に言われた言葉がよみがえった瞬間、半次は夢中で駆けた。

 ちょうど夜釣りの船がいて、飛び込んだ誰かを担ぎ上げている。そして、川岸へと運んでいた。

 暗闇に慣れた目が、横たわった女の姿をとらえる。顔はまだ見えない。

 女は半死半生の様子だった。必死に呼びかけられているが、応えてはいない。

 半次は女の元に辿り着くと、背けている顔を自身の方に動かした。

「……っ!」

「お前さんの知り合いかい?」

「知らねぇ……!俺は知らねぇよ!」

 半次は逃げるように、その場を去った。

 本当に知らない女であった。だが、半次は先ほど見たばかりだというのに、自身の記憶が曖昧あいまいになる。

 よく見ると、あれはお葉だったかもしれない。いや、似ても似つかない顔だった。だが、お葉の横たわる姿が、容易に想像できてしまう。

「くそっ……!」

 悪い夢だ。その日半次は、布団の中で震えながら眠りについた。


 翌日、起きるなり半次が向かったのは、お葉の働いている店であった。

 今日は休みの日ではないはずなのに、お葉はいなかった。

 まさか……昨日、大川に飛び込んだのはお葉だったのかと、半次はあせる気持ちでおみつに尋ねた。

「知らないんですか?お葉ちゃん、店を辞めたんですよ」

「辞めた……」

「商家に奉公に行くことが決まったって、聞いてますけど」

 一体、誰の所為だと、おみつは批難ひなんめいた目で半次を見る。しかし半次は、おみつの様子など、気にとめる余裕がなかった。

 奉公に行くだなんて、聞いていない。しかも、所帯を持ってもおかしくない歳のお葉が、なぜ今頃になって、奉公に行かなければならないのか。

 お葉が自分で決めたわけではないということは、明白だ。ならば考えられるのは、一人しかいない。

 おくみは手放してもいいほど、お葉の自由を奪いたかった。それは、なぜ……

 半次はお葉の家に行こうとしたが、思い直して神田明神へと急ぐ。

 最近はめっきり来なくなってしまったが、お葉と毎日のように会っていた場所だ。お葉はいつも、半次の姿を見つけると、笑顔で駆け寄ってきてくれた。

 そういえば、お葉の笑顔は、随分と見ていない気がする。

「お葉」

 後ろ姿でわかった。

 境内けいだいたたずんでいた、さみしそうな背中に向かって呼んでみる。

 お葉は振り向くと、少し驚いた顔をした。

 駆け出したのは、半次が先だった。人目も気にせずに、お葉を抱きしめる。

 大川に身投げをしたのではないかと心配していたとは言えなくて。罪悪感があると言えるほど、今この場では、愚かになれなくて。どうして抱きしめたいのか、わからない。

「来てくれ」

 なぜお葉の手を引いたのか、それもわからない。

 お葉は嫌がらずに、何も言わずに、付いてきてくれる。

 たどり着くまで、終始二人は無言で歩いていた。

「ここは……」

「俺の家だ」

 どこにでもある、長屋の一棟だった。

 半次はよほど信頼している人でなくては家を教えないと、お葉は誰かに言われたことがある。もしかして、半次に信頼を得たのか。最後の最後に……

 お葉は明日から奉公に行く。神田明神にいたのは、半次との思い出にひたりたかったからだ。だが、本人に会えるとまでは思っていなかった。

 これが最後の幸福かもしれない。もう二度と、半次には会えないのだから。

 半次はいつもよりも荒っぽく、抱こうとする。それはお葉の抵抗も間に合わないほどで、彼に見せたくない肌をさらしてしまった。

 お葉の肌を見た半次の動きが止まった。

 痩せ細っただけでなく、あざの目立つ痛々しい様に、一瞬冷静になる。

 半次の気がそがれてしまったかもしれないとお葉は哀しくなったが、彼は静かに、痣の一つ一つに唇を降ろした。

 お葉は瞳から涙をこぼしながら、彼を受け入れる。

 一段落した後で、半次がそっと尋ねた。

「奉公に行くのか?」

「うん」

 なぜ半次が奉公に行くことを知っているのか、願わくば彼には知られたくなかったことだ。

 伝えなかったのは、奉公に行くと行ったときの、彼の反応を見るのが怖かったからである。そもそも会えないとも、思っていた。

「最後に会えてうれしい」

 半次は、愛してくれていない。愛してくれていたとしても、特別な感情ではない。

 わかりきっていた。ただ、半次と会いたくて、知らないふりをしていた。

 終わりは必然だったのだ。

「俺のこと、嫌いじゃねぇのか……?」

「好きじゃなかったら、こんなことしないよ」

 この気持ちだけは、彼に伝えたい。嘘偽りのなかった、この気持ちだけは。

「一緒に、江戸を出よう」

 もう一度、半次のことを信じてもいいのだろうか。ほんの刹那せつな躊躇ためらいは、お葉の運命を変えてはくれなかった。


 お葉と半次は、着の身着のまま、甲州街道を目指した。家に帰っておくみに見つかれば、江戸をでることはできない。奉公に行く日が明日の迫る中、二人は必要な物は道中でそろえることにして、旅をすることにした。

 甲州街道の最初の宿場町である内藤新宿に着いたときには、すでに夜になっていた。

 お葉は半次にうながされるまま、旅籠はたごに泊まることにした。

「今日はここに泊まろう」

「叔母さんが来たら……」

 お葉としては、おくみが追ってくるのではないかと、不安だった。一刻も早く江戸から遠い場所に行きたいお葉を、半次が引きとめる。

「こんなとこまで追ってこねぇよ。追ってきたとしても、旅籠はごまんとあるんだ。若い男女の二人連れも、そこら中にあふれてらぁ」

「そうね……」

 半次がついているから大丈夫だ。それに江戸を出るにしても、日光街道と奥州街道を目指す道、東海道に中山道と、逃げ道は一つではない。目撃者でもいなければ、見つかりはしないはずだ。お葉としても、野宿をするのは嫌だと、心を落ち着かせることに努める。

 しかしお葉の不安は、他にもあった。

 旅の準備、着替え、手形、金、何一つ持っていないのだ。手形がなければ関所は通り抜けられないし、金がなければ食べる物に困る。金は半次が少し持っているそうだが、底をつくときがくる。

 半次にばかり負担をかけられない。それに半次は、自分を逃がすために一緒に来てくれたのだ。半ば勢いで飛び出してしまったお葉には、不安の種が尽きなかった。

 半次が立ち上がって、席を外そうとした。

「どこに行くの?」

 一人になるのが不安で、お葉は思わず聞いた。

「はばかり」

 お葉はほっと、胸を撫で下ろす。

 内藤新宿は、夜も更けるというのに賑わっていた。お葉が初めて来る場所であり、旅籠の利用客も多いが、客引きをする女も多く、女は誰もなまめかしい姿をしている。お葉のいる旅籠も、そのような女がたくさんいる。お葉の知っている旅籠とは、まったく印象が違った。

 これからのこと、周りの喧噪けんそう目眩めまいを起こしそうになって、お葉は無意識に半次を求めた。そこで、半次の帰りが遅いことに気づいた。

(半次さん……!)

 嫌な予感がした。もうすでに、嫌なことは起きているのかもしれない。

 半次を探そうとして障子戸を開けると、ちょうど旅籠の主人とぶつかりそうになった。

「おや、どこに行くんだい。早くこれに着替えるんだ。さっそく今日から客を取ってもらうからね」

「何を……」

 主人が床に投げつけたのは、客引きをする女たちが来ているような、派手なものだった。主人の言っていることがわからずに、お葉は混乱する。

「半次さんはどこ……」

「あの人はもう帰ったよ」

「帰った……」

「まだ気づいてないのかい。あんたはあの男に売られたんだ。飯盛女郎としてね」

「うそ…………いやっ!」

 お葉は半狂乱で部屋を飛び出した。

 半次が自分を売ったなんて、信じられない。嘘だ。絶対に嘘だ。

「半次さん……!半次さん、どこにいるの!」

 店の外に出て、半次の姿を探す。何事かとお葉を見る者、行き交う人のどこにも、半次はいない。

 お葉は追いかけてきた主人に捕まって、店の中に引きずり戻される。

 その日からお葉は、飯盛女郎になった。

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