「半次さん、ありがとうございました」

「おう」

 半次は満足そうに、店を出る。この頃、お葉が半次と会うのは、休みの日だけではなかった。

 たまに半次は、お葉の働いている店を訪れる。ゆっくり二人で話し込むことはできないけれど、半次と会える日が増えることは、お葉の生きる活力となっていた。

「ありがとうだなんて、おかしいわよ」

 半次がいなくなったあとで、おみつがぼそりと言った。

「……?」

 お葉はおみつの言いたいことが、わからずにいる。

「ただ飯を食べに来る人に、お礼を言うなんておかしいってこと」

「ただじゃないわ。ちゃんと払ってるもの」

「お葉ちゃんがね」

「…………」

 店に来てくれる半次が自分で払ったことなど、一度もない。いつも半次が食べた分は、お葉の給金から引かれていたのである。

「仕方ないのよ。半次さん、普段もろくに食べてないって言ってたから……」

 豪快に飲み食いできる店でもなし。払わされている分は微々たるものだと、お葉は気にもとめていなかった。

「ねぇ、お葉ちゃん。あの人にだまされてるんじゃない?」

「え……」

「意地悪で言ってるんじゃないの。……言おうかずっと迷ってたんだけど、私見ちゃったのよ。あの人が他の女の人といるところ」

「……嘘よ」

「冗談でお葉ちゃんを傷つけることなんか言わないわよ。べったりくっついちゃってさ、ただの知り合いでそんな風に歩かないでしょ」

 嘘だ。嘘だ。おみつの言っていることは、信じられない。

 きっと見間違えたのだ、もしくは、毎度ただ飯を食らう半次と付きあう自分を心配して、言ってくれている嘘なのだと、心の中で言い聞かせる。

「あの人に、お金を渡したりしてないわよね?」

「うん。ここで払ってるだけ」

「何かあったら、すぐに別れた方がいいわよ。男なんてごまんといるんだから」

「……うん。心配かけてごめんね」

 お葉は二両の借金を肩代わりしただけでなく、普段も融通できるだけのお金を、半次に渡していた。でもそれは、半次が困っているから、渡しているのである。

 半次に騙されているのではない。半次が他の人と付き合っているわけがない。次第に、お葉の中に不安が芽生えていた。

 だって、お葉は半次のことを、何も知らないのだ。半次という名前以外に、知り得る情報はない。尋ねてしまえばもう会ってくれなくなりそうで、お葉は何も聞かなかった。

「あ、すみません。もう仕舞いで……」

 店の中に入ってきた若い女に、おみつがあわてて声をかけた。すでに暖簾のれんは、他の同僚が閉まったはずだったが、入ってきてしまったようだ。

「客じゃないわよ。お葉って子いる?」

 お葉はおみつと目を合わせる。

 改めて女を見るも、お葉には見覚えがなかった。歳はお葉よりも少し年上だろうか、顔はきれいに整っていて、つやっぽい雰囲気がある。

「私ですけど……」

「話してもいいかしら?」

 呼び出した女は、お葉と二人きりになるとやぶから棒に言った。

「あなた、半次さんに騙されているのよ」

 なんでこの人は半次を知っているのか。いきなり騙されているとは、どういうことだと、お葉は驚きで何も言えないでいた。

「知ってる?半次さんって、たくさん女の人がいるのよ。私もその一人」

 お葉にとって信じられない言葉が、次々に降りてくる。

「半次さんの家、あなたは知らないでしょ」

女は勝ち誇ったように笑った。

「半次さんはよっぽど信頼してる人じゃなきゃ、自分の家を教えないのよ。知らないってことは、ただの遊び。だからあなたのことなんて、本気じゃないの。わかってくれた?それだけ言いたかっただけだから」

 女は何事もなかったように去って行った。肌寒い風は、秋の訪れを教えてくれたのか、それとも、何かの暗示だったのだろうか……

 結局お葉は何も、言い返せなかった。

――私見ちゃったのよ。あの人が他の女の人といるところ。

(嘘だ……)

 だったら何で、あの人は半次のことを知っているの?半次の家を知っていると言ったの?わざわざ私に会いに来たの?

 お葉は女と会って、思い知ってしまった。

 容姿に自信のない、何の取り柄もない自分が、どうして半次のような人と一緒にいられるのか。今まで疑問にも思わなかった。

――……俺は、ろくな人間じゃねぇよ。

(違う……私が、釣り合わないんだ)


 次の休みの日、お葉はいつものように半次と逢瀬おうせを重ねた。

 半次と会うたびに浮かれていたお葉の変わり様は、見るも明らかだった。だがお葉は半次に、先日来た女のことを尋ねられないでいた。はじめ半次も何も尋ねなかったのだが、一通りの愉悦ゆえつの後で、低い声で言った。

「俺といると辛そうだな」

 図星だった。彼には他に、女の人がいる。自分よりももっと、きれいな人が。

「嫌がる女を無理矢理抱くのは、性に合わない」

「嫌じゃないわ。私、半次さんのことが好きよ」

 たった一つ確かなことは、半次への想いが消えていないということだ。ただ半次が自分を好いていないとすれば、こんなに虚しいことはない。

「本当か?俺しか優しくしてくれねぇから、一緒にいるだけじゃねぇのか」

 投げやりに言い放つ半次は、まるで別人のようだ。今まで優しい言葉しかかけてもらえなかった。なのに、どうして今日は、冷たいのだろう。

「半次さ……」

 彼の腕にしがみつこうとしたお葉を、半次は振り払う。

 突き放されたお葉は、呆然ぼうぜんとした。

 半次が寝床を去って行く。

 待って……そう言おうとしたときには、すでに追いつけないところまで、半次は消えてしまった。

 半次に疑われた。どうして……自分が半次を信じていないのに、どうして信じてもらおうと思ったのだろうか。

(好きじゃなきゃ、できないのに……)

 誰にでも肌を許すことなどできない。ただ一人、半次にだけ許すことができる。

 どうして信じてくれないの……?信じてくれないことが、あまりにも辛い。

 半次と自分は釣り合わない。だけど、彼を好きになった。彼もそうだと信じられない。信じられないのは、自分もだ。

 お葉の気持ちは、錯綜さっかくしていた。


「よし!次だ」

 今日は最高についている。

 お葉からもらった金よりも、稼いでいた。

「兄貴、俺にも少し恵んでくれよ」

「仕方ねぇな。ほらよ」

 松吉は半次を兄貴と慕い、いつも少々の金や飯を恵んでもらっている。半次が彼と出会ったのも、今くり広げられているような博打ばくち場であった。

「また例の未通女おぼこからもらってきたんですかい?」

「もう未通女じゃねぇよ。俺が女にしてやったんだ」

 半次は職に就かず、ふらふらとしている、いわゆる遊び人である。だが彼が、金に困ったことはない。両手に余るほど、金を貢いでくれる女がいたのだ。お葉もその一人である。

 借金をした、なんて嘘を言えば、女は喜んで金を恵んでくれるのだ。

「未通女は御しやすいと思ったが、案外早く、俺の素性に気づき始めやがった」

「じゃあこの辺で、おさらばで……」

 半次はいつも、へたなめ事を起こされる前に、女とはきれいに別れていた。女が半次のことを悪く思う前に、きれいな思い出のままで、終わりにしているのである。

「大川にでも飛び込まれたら、厄介ですもんね」

「……まだだ」

「……?」

「まだあの女とは別れない。絞れるだけ絞ってやる」

 およそまっとうに生きていない男二人の会話である。


 昨日、半次とは気まずい別れをしたというのに、彼は何食わぬ顔で、お葉の店を訪れた。

 お葉が言葉を失ってしまったのは、彼の態度にではなく、彼が女連れであったからである。その女は、お葉を尋ねて店に来た女ではなかった。

 身体をぴたりとくっつけて親しげに、いかにも恋人同士のような、二人である。

 お葉はいたたまれなくなって、奥へと引っ込もうとしたが、半次に腕を捕らえられた。

「神田明神で待ってる」

 半次が耳元でささやいた。

 その人は誰だと尋ねたいが、もうこれ以上、二人の親しげな態度を見ていられなかった。

 泣きそうになるのを必死にこらえて、二人が帰るまで、ずっと隠れていた。

 神田明神に行ったところで、また二人の姿を見せつけられるのではないだろうか。そう思っても、仕事が終わると、お葉の足は神田明神に向かってしまった。

 境内けいだいでは半次が一人、待っていた。半次はお葉の姿をとらえて、駆け寄ってくる。

「お葉……」

 半次の姿を見た瞬間、お葉は泣き出していた。声を上げずに、ただひたすらに、静寂せいじゃくの涙を流している。

(こんな顔、見られたくない……)

 さぞみっともない顔をしているのだろう。半次は何も言えずに、立ち尽くしている。

 お葉は身体をひるがえして、走り去ろうとした。すぐにぐいと引っ張られて、思うように前に進めなくなる。

「離して……」

 これは、半次を信じられなかった罰だ。信じてくれない自分は、半次に捨てられるのだ。半次には他に好きな人がいる。耐えられないほどの絶望が、お葉を襲った。

「俺が悪かった。だから、話を聞いてくれ」

「……私が悪いの。半次さんのこと、疑ったから……」

 どうして好きな人のことを、信じられなかったのか。今さら悔やんだところで、過去は変えられない。

「違う……本当にお葉が俺のことを好いてくれているか、確かめたかったんだ」

「え……?」

「あいつは何でもねぇ。俺にはお葉しかいないんだ」

 お葉が抵抗しなくなって、半次の手の力が緩んだ。

「信じられなかったのは俺も同じだ。許してくれ……」

「私のこと、許してくれるの……?」

「許すも何も、最初から怒ってねぇよ。俺が勝手に、お葉を傷つけるようなことをしただけだ」

「半次さん……」

 今すぐ帰らなければ、おくみは間違いなく叱責しっせきするだろう。悪ければ手を上げられるかもしれない。そのことを、お葉は嫌というほど知っている。

「お願い……もう少し、一緒にいて」

 夕暮れ時の境内には、お葉と半次だけが取り残されていた。

 抱きしめてくれる半次の胸の中で、お葉は幸福を噛みしめる。

 どんなことがあっても、半次を信じる。お葉は固く決心した。


 半次との関係は、元通りになった。休みの日は茶屋で、時々半次は店に来て、逢瀬を楽しむ。

 仕事終わりの、ある日のことだった。

「半次さん、どうしたの?」

 めずらしく仕事中ではなく、ちょうど仕事が終わった刻限に尋ねてきた半次に、何かあったのかとお葉は心配する。

「悪ぃ、また借金しちまったんだ」

「いくらなの?」

「今日もらった給金、まるごと全部ってとこだな」

「全部……」

 さすがにお葉は躊躇ためらった。給金をまるごと失えば、おくみに渡す金がなくなってしまう。自分で貯めていた金は半次にあげてしまって、一文も残っていない。

「嫌ならいいんだ。他に金をくれる女はいるからな」

 お葉は胸が苦しくなった。

 金を渡さなければ、もう半次は会いに来てくれない気がする。半次の住んでいる場所を知らないお葉は、自分から会いに行くことはできないのだ。

「叔母さんには落としたとでも言って、誤魔化せばいい」

 そんなことを言えば、おくみがどれほど怒るのか計り知れない。帰りが遅くなってしまった日は、米粒一つだってくれないおくみである。

「わかった……」

 お葉はふところから、給金をすべて半次に差し出した。受け取った半次はすぐに帰ろうとしたので、お葉は咄嗟とっさに尋ねていた。

「次の休みの日は会える?」

「気が向いたらな」

 神田明神で抱きしめてくれたときの優しさが嘘のような、半次の態度であった。

 お葉は半次の言う通りに、おくみに嘘を吐いた。

「なんて間抜けなんだ!あんたみたいなくず、お金をもらわなきゃ、今まで世話をしてこなかったんだ。どうしてそうお前は、私を怒らせることばかりするんだい!」

 おくみは執拗しつように、気の済むまでお葉を折檻せっかんした。

 実は好きな人にすべて、金をあげてしまった。お葉自身に責任がある以上、おくみを憎むこともできずに、痛みに耐えるほかなかった。

 半次のためだ。だから、我慢する。早く半次に会いたい……

 それからお葉の食事は、茶屋のまかないだけになった。身体は次第に痩せ細り、お葉は身も心もやつれてしまった。

 給金をあげた日以来、半次は会いに来てはくれなかった。休みの日も、店にさえ来ない。

(どうして……)

 あのとき素直に金を渡さなかったから、嫌われてしまったのだろうか。毎日、布団の中で声を殺して泣いて、ひもじさが苦しい。お葉のやつれように、仲の良かったおみつも、あまり話してくれなくなった。何を言ったところで、半次のことをかばうお葉に、あきれていたというのも事実である。

 会いたい……その切実な願いが聞き届けられたのは、次の給金がもらえる日であった。

 半次はお葉の姿を見て、心配するでもなく、するどい表情をする。

 そしてまた、金を要求した。

「二度目は無理……ごめんなさい……」

「俺のこと、嫌いになったのかよ」

 お葉は首を振って答える。

「俺だって、お葉にこんなこと言いたくねぇよ。でも、その金がねぇと困るんだ」

 お葉だって困る。おくみの家では、家事をして、布団で寝ることしか許されていない。唯一の食事である店の賄いも、人よりも何倍も食べる姿が恥ずかしくて、いやらしいと思われていないか、年頃のお葉はいたたまれないのだ。

「俺のためなら金くらいっていったのは、どこのどいつだ」

「あ……」

 半次はお葉の給金をひったくるようにして、去って行った。

 追いかける気力は、お葉には残されていない。

 おくみに対して、同じ言い訳が二度も通用しないことも、わかりきっていた。

「ごめんなさいっ……!ごめんなさい……」

「謝って許される問題じゃないんだ!今までどれだけの額を貢いでたんだい。お前は私の恩も忘れて、金をどぶに捨てたも同じなんだよ!」

 とうとうおくみに白状させられた。白状しなければ骨を折ると、本気でおくみは言ってのけたのだ。

 おくみの怒鳴り声は聞こえているだろうに、近所はひっそりと静まりかえっている。亀三はおくみの度を超えた折檻を見て、どこかに飲みに行ってしまった。

「こうなったら、お前を奉公に出してやる。死ぬまでただ働きだ」

 おくみはお葉を手放した。だが、お葉の求めた自由はなかった。

 それからのおくみの行動は早かった。一月後には、お葉はとある商家に奉公に行くことが決まったのである。しかも、一生をかけて奉公することが決まっており、お葉は二度と、自由になることができない身の上となった。

(これで、よかったのかもしれない……)

 自由にはなれなかったが、おくみの元から抜け出せる。そして、半次とは会えなくなる。

(私が半次さんをだめにしてるんだ……)

 半次もまた、苦しい思いをしている。彼のおかげで幸福にひたれても、自分は半次を幸せにすることができない。

 一方的で、情けない恋だ。

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