三
「半次さん、ありがとうございました」
「おう」
半次は満足そうに、店を出る。この頃、お葉が半次と会うのは、休みの日だけではなかった。
たまに半次は、お葉の働いている店を訪れる。ゆっくり二人で話し込むことはできないけれど、半次と会える日が増えることは、お葉の生きる活力となっていた。
「ありがとうだなんて、おかしいわよ」
半次がいなくなったあとで、おみつがぼそりと言った。
「……?」
お葉はおみつの言いたいことが、わからずにいる。
「ただ飯を食べに来る人に、お礼を言うなんておかしいってこと」
「ただじゃないわ。ちゃんと払ってるもの」
「お葉ちゃんがね」
「…………」
店に来てくれる半次が自分で払ったことなど、一度もない。いつも半次が食べた分は、お葉の給金から引かれていたのである。
「仕方ないのよ。半次さん、普段もろくに食べてないって言ってたから……」
豪快に飲み食いできる店でもなし。払わされている分は微々たるものだと、お葉は気にもとめていなかった。
「ねぇ、お葉ちゃん。あの人に
「え……」
「意地悪で言ってるんじゃないの。……言おうかずっと迷ってたんだけど、私見ちゃったのよ。あの人が他の女の人といるところ」
「……嘘よ」
「冗談でお葉ちゃんを傷つけることなんか言わないわよ。べったりくっついちゃってさ、ただの知り合いでそんな風に歩かないでしょ」
嘘だ。嘘だ。おみつの言っていることは、信じられない。
きっと見間違えたのだ、もしくは、毎度ただ飯を食らう半次と付きあう自分を心配して、言ってくれている嘘なのだと、心の中で言い聞かせる。
「あの人に、お金を渡したりしてないわよね?」
「うん。ここで払ってるだけ」
「何かあったら、すぐに別れた方がいいわよ。男なんてごまんといるんだから」
「……うん。心配かけてごめんね」
お葉は二両の借金を肩代わりしただけでなく、普段も融通できるだけのお金を、半次に渡していた。でもそれは、半次が困っているから、渡しているのである。
半次に騙されているのではない。半次が他の人と付き合っているわけがない。次第に、お葉の中に不安が芽生えていた。
だって、お葉は半次のことを、何も知らないのだ。半次という名前以外に、知り得る情報はない。尋ねてしまえばもう会ってくれなくなりそうで、お葉は何も聞かなかった。
「あ、すみません。もう仕舞いで……」
店の中に入ってきた若い女に、おみつが
「客じゃないわよ。お葉って子いる?」
お葉はおみつと目を合わせる。
改めて女を見るも、お葉には見覚えがなかった。歳はお葉よりも少し年上だろうか、顔はきれいに整っていて、
「私ですけど……」
「話してもいいかしら?」
呼び出した女は、お葉と二人きりになると
「あなた、半次さんに騙されているのよ」
なんでこの人は半次を知っているのか。いきなり騙されているとは、どういうことだと、お葉は驚きで何も言えないでいた。
「知ってる?半次さんって、たくさん女の人がいるのよ。私もその一人」
お葉にとって信じられない言葉が、次々に降りてくる。
「半次さんの家、あなたは知らないでしょ」
女は勝ち誇ったように笑った。
「半次さんはよっぽど信頼してる人じゃなきゃ、自分の家を教えないのよ。知らないってことは、ただの遊び。だからあなたのことなんて、本気じゃないの。わかってくれた?それだけ言いたかっただけだから」
女は何事もなかったように去って行った。肌寒い風は、秋の訪れを教えてくれたのか、それとも、何かの暗示だったのだろうか……
結局お葉は何も、言い返せなかった。
――私見ちゃったのよ。あの人が他の女の人といるところ。
(嘘だ……)
だったら何で、あの人は半次のことを知っているの?半次の家を知っていると言ったの?わざわざ私に会いに来たの?
お葉は女と会って、思い知ってしまった。
容姿に自信のない、何の取り柄もない自分が、どうして半次のような人と一緒にいられるのか。今まで疑問にも思わなかった。
――……俺は、ろくな人間じゃねぇよ。
(違う……私が、釣り合わないんだ)
次の休みの日、お葉はいつものように半次と
半次と会うたびに浮かれていたお葉の変わり様は、見るも明らかだった。だがお葉は半次に、先日来た女のことを尋ねられないでいた。はじめ半次も何も尋ねなかったのだが、一通りの
「俺といると辛そうだな」
図星だった。彼には他に、女の人がいる。自分よりももっと、きれいな人が。
「嫌がる女を無理矢理抱くのは、性に合わない」
「嫌じゃないわ。私、半次さんのことが好きよ」
たった一つ確かなことは、半次への想いが消えていないということだ。ただ半次が自分を好いていないとすれば、こんなに虚しいことはない。
「本当か?俺しか優しくしてくれねぇから、一緒にいるだけじゃねぇのか」
投げやりに言い放つ半次は、まるで別人のようだ。今まで優しい言葉しかかけてもらえなかった。なのに、どうして今日は、冷たいのだろう。
「半次さ……」
彼の腕にしがみつこうとしたお葉を、半次は振り払う。
突き放されたお葉は、
半次が寝床を去って行く。
待って……そう言おうとしたときには、すでに追いつけないところまで、半次は消えてしまった。
半次に疑われた。どうして……自分が半次を信じていないのに、どうして信じてもらおうと思ったのだろうか。
(好きじゃなきゃ、できないのに……)
誰にでも肌を許すことなどできない。ただ一人、半次にだけ許すことができる。
どうして信じてくれないの……?信じてくれないことが、あまりにも辛い。
半次と自分は釣り合わない。だけど、彼を好きになった。彼もそうだと信じられない。信じられないのは、自分もだ。
お葉の気持ちは、
「よし!次だ」
今日は最高についている。
お葉からもらった金よりも、稼いでいた。
「兄貴、俺にも少し恵んでくれよ」
「仕方ねぇな。ほらよ」
松吉は半次を兄貴と慕い、いつも少々の金や飯を恵んでもらっている。半次が彼と出会ったのも、今くり広げられているような
「また例の
「もう未通女じゃねぇよ。俺が女にしてやったんだ」
半次は職に就かず、ふらふらとしている、いわゆる遊び人である。だが彼が、金に困ったことはない。両手に余るほど、金を貢いでくれる女がいたのだ。お葉もその一人である。
借金をした、なんて嘘を言えば、女は喜んで金を恵んでくれるのだ。
「未通女は御しやすいと思ったが、案外早く、俺の素性に気づき始めやがった」
「じゃあこの辺で、おさらばで……」
半次はいつも、へたな
「大川にでも飛び込まれたら、厄介ですもんね」
「……まだだ」
「……?」
「まだあの女とは別れない。絞れるだけ絞ってやる」
およそまっとうに生きていない男二人の会話である。
昨日、半次とは気まずい別れをしたというのに、彼は何食わぬ顔で、お葉の店を訪れた。
お葉が言葉を失ってしまったのは、彼の態度にではなく、彼が女連れであったからである。その女は、お葉を尋ねて店に来た女ではなかった。
身体をぴたりとくっつけて親しげに、いかにも恋人同士のような、二人である。
お葉はいたたまれなくなって、奥へと引っ込もうとしたが、半次に腕を捕らえられた。
「神田明神で待ってる」
半次が耳元で
その人は誰だと尋ねたいが、もうこれ以上、二人の親しげな態度を見ていられなかった。
泣きそうになるのを必死に
神田明神に行ったところで、また二人の姿を見せつけられるのではないだろうか。そう思っても、仕事が終わると、お葉の足は神田明神に向かってしまった。
「お葉……」
半次の姿を見た瞬間、お葉は泣き出していた。声を上げずに、ただひたすらに、
(こんな顔、見られたくない……)
さぞみっともない顔をしているのだろう。半次は何も言えずに、立ち尽くしている。
お葉は身体を
「離して……」
これは、半次を信じられなかった罰だ。信じてくれない自分は、半次に捨てられるのだ。半次には他に好きな人がいる。耐えられないほどの絶望が、お葉を襲った。
「俺が悪かった。だから、話を聞いてくれ」
「……私が悪いの。半次さんのこと、疑ったから……」
どうして好きな人のことを、信じられなかったのか。今さら悔やんだところで、過去は変えられない。
「違う……本当にお葉が俺のことを好いてくれているか、確かめたかったんだ」
「え……?」
「あいつは何でもねぇ。俺にはお葉しかいないんだ」
お葉が抵抗しなくなって、半次の手の力が緩んだ。
「信じられなかったのは俺も同じだ。許してくれ……」
「私のこと、許してくれるの……?」
「許すも何も、最初から怒ってねぇよ。俺が勝手に、お葉を傷つけるようなことをしただけだ」
「半次さん……」
今すぐ帰らなければ、おくみは間違いなく
「お願い……もう少し、一緒にいて」
夕暮れ時の境内には、お葉と半次だけが取り残されていた。
抱きしめてくれる半次の胸の中で、お葉は幸福を噛みしめる。
どんなことがあっても、半次を信じる。お葉は固く決心した。
半次との関係は、元通りになった。休みの日は茶屋で、時々半次は店に来て、逢瀬を楽しむ。
仕事終わりの、ある日のことだった。
「半次さん、どうしたの?」
「悪ぃ、また借金しちまったんだ」
「いくらなの?」
「今日もらった給金、まるごと全部ってとこだな」
「全部……」
さすがにお葉は
「嫌ならいいんだ。他に金をくれる女はいるからな」
お葉は胸が苦しくなった。
金を渡さなければ、もう半次は会いに来てくれない気がする。半次の住んでいる場所を知らないお葉は、自分から会いに行くことはできないのだ。
「叔母さんには落としたとでも言って、誤魔化せばいい」
そんなことを言えば、おくみがどれほど怒るのか計り知れない。帰りが遅くなってしまった日は、米粒一つだってくれないおくみである。
「わかった……」
お葉は
「次の休みの日は会える?」
「気が向いたらな」
神田明神で抱きしめてくれたときの優しさが嘘のような、半次の態度であった。
お葉は半次の言う通りに、おくみに嘘を吐いた。
「なんて間抜けなんだ!あんたみたいな
おくみは
実は好きな人にすべて、金をあげてしまった。お葉自身に責任がある以上、おくみを憎むこともできずに、痛みに耐えるほかなかった。
半次のためだ。だから、我慢する。早く半次に会いたい……
それからお葉の食事は、茶屋の
給金をあげた日以来、半次は会いに来てはくれなかった。休みの日も、店にさえ来ない。
(どうして……)
あのとき素直に金を渡さなかったから、嫌われてしまったのだろうか。毎日、布団の中で声を殺して泣いて、ひもじさが苦しい。お葉のやつれように、仲の良かったおみつも、あまり話してくれなくなった。何を言ったところで、半次のことを
会いたい……その切実な願いが聞き届けられたのは、次の給金がもらえる日であった。
半次はお葉の姿を見て、心配するでもなく、
そしてまた、金を要求した。
「二度目は無理……ごめんなさい……」
「俺のこと、嫌いになったのかよ」
お葉は首を振って答える。
「俺だって、お葉にこんなこと言いたくねぇよ。でも、その金がねぇと困るんだ」
お葉だって困る。おくみの家では、家事をして、布団で寝ることしか許されていない。唯一の食事である店の賄いも、人よりも何倍も食べる姿が恥ずかしくて、いやらしいと思われていないか、年頃のお葉はいたたまれないのだ。
「俺のためなら金くらいっていったのは、どこのどいつだ」
「あ……」
半次はお葉の給金をひったくるようにして、去って行った。
追いかける気力は、お葉には残されていない。
おくみに対して、同じ言い訳が二度も通用しないことも、わかりきっていた。
「ごめんなさいっ……!ごめんなさい……」
「謝って許される問題じゃないんだ!今までどれだけの額を貢いでたんだい。お前は私の恩も忘れて、金をどぶに捨てたも同じなんだよ!」
とうとうおくみに白状させられた。白状しなければ骨を折ると、本気でおくみは言ってのけたのだ。
おくみの怒鳴り声は聞こえているだろうに、近所はひっそりと静まりかえっている。亀三はおくみの度を超えた折檻を見て、どこかに飲みに行ってしまった。
「こうなったら、お前を奉公に出してやる。死ぬまでただ働きだ」
おくみはお葉を手放した。だが、お葉の求めた自由はなかった。
それからのおくみの行動は早かった。一月後には、お葉はとある商家に奉公に行くことが決まったのである。しかも、一生をかけて奉公することが決まっており、お葉は二度と、自由になることができない身の上となった。
(これで、よかったのかもしれない……)
自由にはなれなかったが、おくみの元から抜け出せる。そして、半次とは会えなくなる。
(私が半次さんをだめにしてるんだ……)
半次もまた、苦しい思いをしている。彼のお
一方的で、情けない恋だ。
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