お葉が帰宅したときには、辺りは薄暗くなっていた。

「遅いじゃないか。ここんとこ毎日、どこほっつき歩いてたんだい」

 おくみはお葉の姿を見るなり、険しい顔で怒鳴りつける。おくみの夫の亀三もすでに、帰ってきていた。

「すみません。最近、お店が混んでるから……」

 かん、とおくみが折れてしまいそうなほど、思い切り煙管きせるを叩きつけた音に、お葉は身をすくませる。

「言い訳なんか聞きたくないよ。口を動かす前に、早く夕餉ゆうげの準備をしたらどうだい」

 謝らなかったら謝らなかったで、おくみは怒るに決まっている。何にせよ、お葉は怒鳴られていたのだ。

 しかし帰りが遅くなった本当の理由を隠しているお葉は、自分が悪いのだという自負もある。

 仕事終わりに、お葉は毎日のように神田明神で半次と逢い引きをしていた。殿方と会って帰りが遅いと言えば、おくみは何と言うだろうか。想像もしたくないほどに、半次のことは言えなかった。

「まったく、お前ときたら。どうしても困ってるっていうから、面倒を見てあげているのに、自分が世話になってるっていう自覚がないのかねぇ。いつまで経っても、どんくさいままだよ。父親にそっくりだ」

 お葉が夕餉を作っている間にも、おくみの嫌みは止まらない。それはお葉の帰りが遅くなくても、いつものことである。

 自分のことを悪し様に言われるのならば、我慢すればいい。でも、父親のことを悪く言われるのは、最も心が痛む。

 確かに父は、お金を借りたことで迷惑をかけたかもしれない。だけどすべて返済して、もう故人であるというのに、いつまでおくみは嫌みを言い続けるつもりだろうか。

(半次さん……)

 お葉は辛いときに、半次の顔を思い浮かべるようになった。あの甘い声、優しい顔を思い出すたびに、ぽうっと明かりが灯る心地になるのだ。

(早く、ここから出たいのに……)

 もう一人でも生きていける。おくみの嫌みの届かない場所で、半次と逢瀬おうせを重ねる。その幸福がほしかった。

「聞いているのかい」

 おくみのするどい声で、お葉は我に返った。

「明日から帰りが遅くなったら、夕餉を抜きにするからね」

「そんな……」

 ばんっ、と今度は自らのてのひらで、おくみは思い切り畳を叩きつけた。

「わかったね」

「……はい」

 大きな音を出せば、お葉が服従してくれるのを、おくみは知っていた。

 お葉は必死に、半次の姿を思い出していた。


 神田明神の桜は、見事に終わりを迎えようとしている。咲き始めるのはまだかまだかと待ち遠しいものを、散るときはあっという間だ。

 お葉は少しさみしくなった境内で、半次に言った。

「ごめんなさい。もう仕事終わりに会えない……」

 今日もすぐ家に帰るしかないと断っていた。

「……俺のこと、嫌いになった?」

「違うの……」

 叔母が許してくれないと言って、半次に余計な心配をかけたくない。だが、このままでは半次との縁が消えてしまいそうで、お葉は気が気でなかった。

「お葉がもう会いたくないってんなら、仕方ねぇ。でも、他に理由があるなら、話してくれよ」

「半次さん……」

 会いたくないわけがない。半次がこんなにも、親身になっている。その事実に、目に熱いものが込み上げた。

 だが無情にも、お葉には帰る刻限が迫っていた。

 この日は理由を言わないまま別れて、半次に打ち明けたのは、三日後の店が休みの日である。

 場所はまた、神田明神であった。

 お葉は自らの身の上を語った。そしておくみの家を出たくても抜け出せないことも、打ち明けていた。

「そうか……でも、お葉はちゃんと、自分の分のお金は渡してるんだろ」

 お葉は静かにうなずいた。

 正確には、お葉は自分の生活費以上の金を、毎月おくみに渡していた。おくみの言う利子の分である。嫌みを言う叔母とはいえ、厄介になっているという事実もあるから、多くお金を渡すことには、躊躇ためらいがなかった。

「お葉の稼ぎがねぇと、大変なのか?」

「ううん、叔父さんの稼ぎがあれば、食べるには困らないと思う」

 お葉がいれば、叔父の稼ぎだけではつましくなるが、お葉がいなければ何の問題もないとも、言い換えることができる。

 おくみと亀三には二人の息子がいるが、どちらも奉公に出ていて今は家にいない。子どもが家にいた時分は、おくみは内職をしていて、子どもが家を出てからも小遣い稼ぎにやっていたが、お葉が来てからはやめていた。お葉が渡す色のついた分の金を、おくみは小遣いにしていたのである。お葉を引き留める理由も、そこにあった。お金のことだけではなく、お葉は家事の一切を任されており、楽ができるようになったおくみは、段々と肥えていた。亀三にいたっては、お葉に辛く当たらないが、ほとんど会話すらしようとしない。亀三の立場からすれば、お葉はまったくの他人ともとらえられるが、おくみのお葉に対する態度も放任している。

「叔母さんね、相当怒るときは手を上げるの。だからこれ以上、家を出たいなんて言ったら……」

 誇張ではなく、事実、お葉はおくみに手を上げられたことが何度もある。身体に染みこんだ恐怖も、おくみに服従する一因であった。

「ひでぇな」

 半次としても、よい解決策は浮かばないのだろう。どこかやるせなく言った。

「お葉の力になれなくて、ごめんよ……」

「そんなことないわ。私ね、下を向きそうになったら、いつも半次さんのことを考えてるの。半次さんのことを考えていれば、辛くても我慢できるから」

 少し驚いた表情をした後に、半次は微笑んだ。お葉の胸が締め付けられたのは、その笑顔の中に、哀しみの色が混じっているのを見たからである。

「今度の休みの日に、上野にでも行こう。たくさん楽しいものを見て、一時でもやなことなんか、忘れちまえ」

 俺にはこのくらいしかできないけどと、半次が言っている気がした。

 お葉は目を細めて、首肯しゅこうする。

 そしてふと、また季節が巡ったら、神田明神の桜を二人で見たいと、秘かに思った。


 お葉は半次と上野に行く日を楽しみに、それからの日々を生きていた。おくみに何と言われようと、今までにないほどに、心は軽かった。

 好きだ。どうしようもなく、好きだ。

 やっと、己の気持ちを、言葉で自覚するようになった。

(もしかしたら半次さんも……)

 わざわざ好意のない女性と、何度も二人きりで会ったりはしないだろう。あんなに親身にはなってくれないだろう。お葉の中では、自惚うぬぼれではないという条件が、そろっている。

 しかも、半次には確実に気持ちが伝わっていると、思っている。

 そんな半次との約束の日、お葉は普段のかげりを見せることなく、半次と過ごす時を楽しんでいた。

 上野広小路のざわめきの中、お葉は半次の背中を追っていた。初めて出会ったときのように、それは遠くなく、手の届くところにある。

 でも、少しでも目を離したら、半次はいなくなってしまいそうだ……お葉は浮かれながらも、なかあせっていた。人の多さに見失いそうという不安もあるが、もっと違う理由を感じられた。しかし、その理由については形容できない。曇天どんてんの暗さが増しているのが、余計に不安を駆られるのであった。

「お葉」

 呼び止められて、お葉は半次を見つめる。半次は振り返らないまま、先を続けた。

「俺といて、楽しい?」

 もしかしたら、半次に己が抱いている不安が見透かされたのではと、お葉はあわてて答えた。

「楽しい……こんなに楽しいのは久しぶり」

 しかし半次は、お葉の不安を感じ取ったのではなかった。

「……俺は、ろくな人間じゃねぇよ」

 ぼそりと、でも確かにお葉に向けての言葉であった。

 どうして急に、そんなことを言ったのだろうか。何より、半次はとても寂しそうだ。

「会ったばかりで、半次さんのことはよく知らないけど、私は半次さんがいい人だって信じたい」

 少なくともお葉の目には、半次は善人として映っている。

 半次の家族も、住んでいる場所すら知らないが、半次を信用しているからこそ、今があるのだ。

「そうか」

 半次は振り返って、お葉に笑顔を向ける。

 ああ、やっぱり、この笑顔が好きなのだと、思い知らされた。

 お葉が半次に見惚みとれる間もなく、ほおにぽつりとしずくが降ってきた。

「降ってきたな。店で雨宿りでもしようぜ」

 お葉は半次に手を引かれるまま、料理茶屋に入った。

 雨は次第に、地面を打ち付ける強さを増してゆく。だが次第に、雨足は弱まった。半次が頼んでくれた料理を食べているときも、帰る頃には止んでくれるだろうかと祈っていたが、見事に晴れ間が覗いてくれた。

「半次さん、そろそろ帰りましょう」

 半次はすでにお葉よりも前に食べ終えている。また雨が降ってきたら大変だと半次をうながすも、彼は中々、腰を上げようとしなかった。

「まだ、隣の部屋に行ってねぇだろ」

「隣……?」

 お葉は半次の視線の先、背後のふすまを見る。

料理を食べるだけなのに、襖で閉じられたもう一つの部屋もあるなんて不思議だ。

 半次は静かに、お葉の背後に来て、両肩に触れた。

 ふいに距離を縮められて、お葉は身を硬直させる。動けないお葉の代わりに、半次が襖を開けた。

「……!」

 薄暗い部屋の中には、一つの布団と、二つの枕が敷かれている。

 ここはそういう店だったのだと、お葉はやっと気づいた。

 半次は元から、その気だったのだろうか。自分がうといだけで、当たり前のことなのだろうか。経験のないお葉は、様々な思いを巡らせる。

「なぁ、いいだろ?」

「でも、私……」

 怖い。急のことで準備ができていない。

 一度許してしまったら、もう引き返せない気がする。お葉は予感めいたものを感じてはいた。だが、半次を慕う気持ちが、こばめないでいる。

 背後から抱きしめ続けている半次の息づかいが、耳元で聞こえた。

 お葉は半次の方を見る。覚悟を決めたと、緊張で揺れる瞳で答えた。

 半次は熱を帯びた瞳でお葉を見つめた後に、ゆっくりと、顔を近づけた。


 二人の逢瀬は神田明神ではなく、茶屋が多くなっていた。季節の移ろい早く、蒸し暑い夏になっても、お葉は休みのたびに、半次と会っている。

「何かあったの?」

 お葉は帯を整えながら、半次に尋ねた。

 今日会ったばかりのときは、いつもと変わらない様子に思えた半次であったが、行為の最中、そして今、どこか重い空気をただよわせている気がしたのである。そういう機微を感じ取れるくらいには、他人ではなくなっていた。

「もう、会えねぇかも……」

「どうして……」

 お葉は気が気でなくなった。半次が、離れてしまう。何か気に障るようなことをしてしまったのか、言ってしまったのか、あらゆる可能性に、お葉は支配される。

「借金作っちまったんだよ」

「借金……」

「だから、お葉と会っている余裕がねぇんだ」

 お葉は原因が自分になくてよかったという安堵あんどに包まれていた。

 だが、自分のことで安心もしていられない。半次にとっては、大変な問題なのだ。お葉には関係なくても、知らぬ顔などできなかった。

「いくらなの?」

「……二両だ」

 よかったと、お葉は再び安堵した。

「二両ならなんとか工面できる」

「お葉……」

「叔母さんに隠れて貯めてたお金があるの。それと、明日もらえる給金の少しを合わせれば、何とか足りると思う」

「お葉に迷惑はかけられねぇ。いいんだ」

「私は大丈夫だから。半次さんのためだったら、お金くらい、どうってことないのよ」

 お金を失うよりも、半次が不幸になる方がよっぽど辛い。お葉に躊躇いは一切なかった。

「すまねぇ……」

 どうせ家を出ることも許されないのだから、お金は半次のために使った方がいいのだ。何も、問題はない。

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